メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

へンデル「アルチーナ」

2016-01-27 13:40:41 | 音楽一般
ヘンデル:歌劇「アルチーナ」
エクサン・プロバンス音楽祭2015
指揮:アンドレア・マルコン、フライブルク・バロック・オーケストラ、演出:ケイティ・ミッチェル
パトリシア・プティボン(アルチーナ、王国を支配する魔女)、フィリップ・ジャルスキー(ルッジェーロ、魔女に魅入られた騎士)、
アンナ・プロハスカ(モルガーナ、女王アルチーナの妹で魔女)、 カタリナ・ブラディク(ブラダマンテ/リッチャルド、ルッジェーロの婚約者)、アンソニー・グレゴリー(オロンテ、モルガーナの婚約者)、クシシュトフ・ボンチク(メリッソ、ルッジェーロの後見人)、エリアス・メドラー(オベルト、行方不明の父を捜す少年)
2015年6月30日、7月10日 プロバンス大劇場、2015年11月 NHK BSPre
 
この数年、ヘンデルのオペラ上演、そのTV放送がかなりあり、音だけでもこれまでなじんでなかった世界を知ることができたのはありがたい。ずいぶん多作だったようで、それは当時人気があったからだろう。
 
ストーリーは、王国を支配している魔女が気に入った男ルッジェーロを魔術で思いどおりにしている。そこに男の婚約者が男装して乗り込んで来るが、今度は魔女の妹が彼に惚れてしまう。その後いろいろあって、最後は婚約者による救出作戦が、、、というもの。
大筋では勧善懲悪なのだが、主役は魔女アルチーナで、最後にやられながらも、その心情を延々と歌うその歌は一番の聴きものだ。
同じ作曲家の「ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)」と、音楽も、脚本も似通ったところが多い。
 
音楽は、時間を快調に進めていくオーケストラをもとに、アリアをきかせるというものといえる。オーケストラはなんだかどの作品も、どの部分も似通っているようにきこえ、現代でいえば長いロックの楽曲のギターとベースが延々と続いてその中にヴォーカルが入ってきているという感じだ。歌舞伎みたいなものかと思ったりする。
 
それにしてもアルチーナのパトリシア・プティポンという人、広い声域のどこをとっても、リリカルにもドラマチックにも自在にできて、評判だけのことはある。繰り返しがくどいほど続く作品だから、スタミナも大層必要だろう。
 
演出は、宮殿風の室内と現代的な衣装の混合、そしてなんともエロティックな、そしてSMプレイのような場面が随所にある。話としてはこういうものだろうから、納得できるが、演じるほうは大変だろう。もっともあちらの人たちは平気なのかもしれない。
と、ここで気がついたのだが、この話、筋や設定は「ジュリオ・チェーザレ」と似ていなくもない。女王の宮殿、その中に来てしまった男、そしてその関係者同志のいろんな関係と顛末、宮殿の外の動乱というか闘い、、、これらはドラマの世界である定番のパターンになっているのかもしれない。大胆にいえばベートーヴェンの「フィデリオ」だって似ているところがある。そして武装してここに乗り込み救出にあたるという感じは、映画「コマンドー」(アーノルド・シュワルツネッガー)を思い出してしまった。
 
なお、エクサン・プロバンス音楽祭は毎年なかなか興味あるものを創ってくれる。そして今回の舞台も、ここでよくあるように、壁の両側を効果的に使っている。ここの施設、舞台がそれに向いているのか、それはよくわからないが。

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羊と鋼の森(宮下奈都)

2016-01-21 10:47:54 | 本と雑誌
「羊と鋼の森」 宮下奈都 著 2016年9月 文藝春秋社
ピアノ調律師とそのお客しか出てこない、そういう設定で広がりがある世界を描けるとは、誰も想像できなかっただろう。そう、「羊」とはピアノのハンマーの材料であるフェルトであり、「鋼(はがね)」はもちろん弦である。
 
北海道の小都市の高校で、たまたまピアノの調律に初めて立ち会った主人公が、感ずるところがあって、卒業後その道を選ぶ。調律師の修行から始まるから、読者もこの世界を具体的に知ることができるし、音楽を直接ではなく、ピアノの音という世界から見ることができる。
ピアノを習っている双子の少女の不思議な感性、主人公と先輩たちとのやりとり、それは音楽とは何か、それも音楽の時間的な流れとはちがう垂直な面を改めて考えさせられる。
 
とはいえ、この小説はピアノの調律を描いて見せるためのものではない。この世界を通して、どちらかといえば無垢だった、あまり個性も面白みもない青年が、外界と関係をもつ、というか関係を発見し作っていく、その歩みを見せていく、それが見事である。
また双子の少女のふるまい、成長も、こんなことがあるのかなと思いつつ、気持ちのいい眺めである。
 
もちろん、強いストレス、軋轢のあるエピソードがほとんどないから、ドラマ性に多少欠けるということはあるかもしれない。ただそれでも本来中編小説の規模の話に、この世界の面白さを組み込んでこの長さにしたと思えばいいだろう。
 
おりしも年末にNHKで「もうひとつのショパンコンクール」というドキュメンタリー番組があり、昨年のコンクールにおける調律師たちの闘いがとても興味深かった。使われたピアノはスタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ、しかもスタインウェイ以外の調律師はすべて日本人であった(イタリアのファツィオリも)。日本人のレベルはこれからさらに高くなるのだろう。
 
ところでこれは以前から知っているけれど、調律師はピアノで楽曲を弾かない、少なくとも調律の現場では。実はまったく弾けない人が多いし、それでもかまわないわけである。それでは彼らはピアノの音楽をどう聴いているのだろうかと思っていたが、それがこの作品から少し読み取れた。

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鎌倉からはじまった。1951-2016 (鎌倉近代美術館)

2016-01-19 21:20:01 | 美術
鎌倉からはじまった。 1951-2016
神奈川県立近代美術館 鎌倉館
2015年10月17日(土)―2016年1月31日(日)
 
ついに来てしまったこの美術館最後の展覧会、である。所蔵品がたくさん並べられていて、普通ならもう少し隣の絵との相性を考えるとか、間隔に余裕を持たせるのだろうが、ことここに至ってそれはない。見に行った方も最後の、感謝のあいさつといったことだろうか。
それにしても、所蔵品がこんなにあったんだなという感もある。見知っているものにも、はてここで見たのでなくて、どこか別の館の企画展で見たのではないかと思うものがかなりある。
 
それでも存在感があるのは、古賀春江、松本竣介、麻生三郎といったところ。特に古賀春江の飛翔感というのか浮遊感が強く印象に残った。
 
30年くらい前まではそんなに感じなかったが、今となっては建物の規模、設備など、やはりもう限界に近い。八幡宮との借地契約は別としても、葉山館をメインにするのは自然だろう。交通の便はよくないが。
 
今でも鮮明に残っている思い出としては、1969年7月にここで開催されたパウル・クレー展。クレーをまとめてみたのは多分初めてだったと思う。そして見た後、海に泳ぎに行き、砂浜に寝そべっていたら、近くの人のラジオから流れてきたのがアポロ11号月着陸のニュースだった。
 
近年は、以前知らなかった日本の洋画家をここで見る機会が多かった。これも感謝。

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ピエール・ブーレーズの死

2016-01-07 09:15:53 | 音楽一般
朝刊の訃報によると、ピエール・ブーレーズが1月5日に亡くなったとのこと。療養中だったそうだが、かなり最近まで活動していた印象がある。1925年生まれだから、かなりタフな人である。
 
このように作曲家、指揮者、音楽理論家としていずれも超一流という人は空前絶後だろう。この人が指揮した録音を若いころから聴いてきたが、特に近代音楽についてはそのおかげで一応理解ができるようになったといえる。感謝しなければいけない。
他にも自作、ベートーヴェンかロマン派まで、レパートリーは次第に豊富になってきて、個人的には熱くて濃いマーラーなんかを鋭利な刃物で切ったような演奏も好きだった。
 
それでも一つだけあげるとすればストラヴィンスキー「春の祭典」だろう。ブーレーズの最初の録音と曲のアナリーゼ(分析)が出て以降しばらく、これを知らないでこの曲を指揮する人はいなかったようだ。
 
調べてみたら、生で聴いたのは、1975年BBC交響楽団と来日したときのシェーンベルク、ベルク、マーラー第4、ドビュッシー、ストラヴィンスキー「火の鳥」、自作「マデルナの思い出のためのリチュエル」、それと1977年に初めてパリに旅行したときシャンゼリゼ劇場でのIRCAM公演でシェーンベルク「ピエロ・リュネール」、ベルク「室内協奏曲」(ピアノはダニエル・バレンボイム)など。もう40年経った。
 
なおこの人に近い世代にはすごい人が多い。1926年生まれのマイルス・デイヴィス、1928年生まれのバート・バカラックなど、なぜかはわからないが、彼らが大人になるまで激動の時代だったことは確かである。

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