メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

マデルナのマーラー第9

2006-11-27 22:48:02 | オーケストラ
ブルーノ・マデルナ指揮BBC交響楽団の「マーラー交響曲第9番」を聴く。1971年3月31日ロンドン・ロイヤル・フェスティバル・ホールのライブ録音、今年BBCレジェンド・シリーズで発売された。
 
この曲、随分前からいろいろな人の指揮で聴いた。 
最初は良くわからなかったし、マーラーといってもあまり熱い入魂といった演奏では、この長丁場何かいやになるのであった。
 
そしてジョン・バルビローリ指揮ベルリン・フィルを聴き、肩の力が抜け、また何かやわらかく深い世界に浸ることが出来た。
この録音は1964年、コンサートでのあまりに素晴らしさに楽団員たちがEMIを説得して実現したものとか。バルビローリの演奏では、本当に「神は細部にあり」がうまく活かされている。
 
そして、80年代晩年のカラヤン指揮ベルリン・フィルのスタジオとライブの二つ。曲の構造を常に見失うことがない。しかし、ブーレーズなどと異なり、この見通しの良い構造が常にダイナミックに動いていく。
 
マデルナのやり方は、下手な言い方だがこの二つの中間だろうか。しかし中途半端でななく、包み込むような深さの中で両方を実現させている。こういうことはなかなかない。これからもよく取り出して聴くだろう。
 
ブルーノ・マデルナ(1920-1973)はノーノ、ベリオなどと並んで20世紀イタリアを代表する作曲家の一人だが、同時代の作曲家達と付き合いがよくまた彼らの作品の指揮もよくしたから、皆に好かれていたようだ。
 
今も手元に死の少し後に発売された「ブルーノ・マデルナの芸術」と題する愛聴のLPがあり、ここでは1973年夏のザルツブルク音楽祭でメシアン、ストラヴィンスキー、ブーレーズ、ルトスラフスキーの作品をマデルナが指揮している。
何か、友達によるマデルナへのトリビュート・アルバムを自身が指揮しているような雰囲気だ。
今回のマーラーを聴くと、もっと他にも録音はないだろうかと思う。

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バビ・ヤール

2006-08-27 16:19:35 | オーケストラ
ショスタコーヴィチ「交響曲第13番作品113《バビ・ヤール》」(1963)
キリル・コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団・男声合唱団、ジョン・シャーリーー=カーク(バス)
1980年12月18日、19日ミュンヘン ヘルクレス・ザール(ライブ) (PHILIPS) タワー・レコード企画の復刻(1000円)
 
1962年の同じ12月18日にこの曲を初演し、この録音の3ヶ月後に世を去ったコンドラシンよる演奏。第13番はショスタコーヴィチの交響曲の中での評価は高くないようだ。もちろん奥手の当方は例のバルシャイ指揮全曲(3000円!)で対訳なしに一回聴いただけだが、今回は対訳つきということもあるし、なにやらいろいろ背景がある曲とのこで、試した次第。
 
歌詞を追い、聴いてみて、音響のわりにずしりとくるものがなく、またここから想像が広がるということもなかった。
 
エフトシェンコによる歌詞とCD解説の一端を読むと、この「バビ・ヤール」とはキエフ郊外の谷で、第2次世界大戦中ドイツ軍がここで約10万人のユダヤ人、ウクライナ人を虐殺したといわれている。またこの詩はソ連によるユダヤ人迫害への抗議であるとも言われている。これが第一楽章でかなり長い。そして第2楽章~第5楽章まで、やはりエフトシェンコの歌詞が続き、圧制に対抗するユーモア、生活する女達の知恵、密告の恐怖、出世主義などが描かれる。
ほぼ全体に声楽がからんでいる。
 
歌詞があまりに具体的、詳細であり、それに音楽が寄り添っているから、それだけで1時間弱続いてはインパクトが薄くなる。
解説によると1956年のスターリン批判から始まった「雪解け」の中でエフトシェンコが1961年にこの詩を発表した。
以前であれば、こんなに具体的な表現で体制批判できなかったであろう。だから、ここには暗喩、隠喩というべきものは少なく、ストレスに欠けているともいえる。ショスタコーヴィチの作曲はこの詩人に対する支持の表明以上になっていない、聴くものに想像の広がりを刺激するというまでには至らない、ということだろうか。
 
もっともこのすぐ後、あまりにはっきりした体制批判に注文が出、その後それほど演奏されなかったそうである。それはこの曲の悲劇だが、だからといってその価値が高まるというものでもない。もとは作りやすい環境で出来た曲なのである。
 
その後のショスタコーヴィチを、堕落した作曲家と呼ぶ向きもあるようだが、これだけの人が何も意識しなかったはずはない。晩年のいくつか、今後注意して聴いてみようと思っている。

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ワーグナー「悪の響き」

2006-06-13 21:33:11 | オーケストラ
クナッパーツブッシュ/ワーグナー名演集(DECCA)
(神々の黄昏、パルシファル、ワルキューレ、トリスタンとイゾルデ)
ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)指揮 ウイーン・フィルハーモニー
 
LPでよく聴いた後、擦り切れて処分したのだが、先日タワーレコードで1000円盤(国内)を見つけ、久しぶりに聴いた。
やはりこの世界に入りだしたときのものであり、ひとつひとつの細部がずしりと来る。その後いろいろな演奏を聴いた後でも、やはり格別だ。
 
最初の神々の黄昏、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ジークフリートの葬送行進曲」、ここには人間が持うどうしようもない悪、罪、それはこの楽劇でギービッヒ一族ばかりでなく、ジークフリートそのもののつまり人間の中に潜む悪、世界の意思に潜む悪、そういう悪を雄弁に表現する響きがある。
それをこの洗練されたウイーン・フィルでこのように出して見せたクナッパーツブッシュ、見事というしかない。このオケだと通常もっときれいごとになってしまう。
 
この人、気難しいという逸話が多く、演奏も晦渋というイメージを持っていたのだが、これは当時から別であった。1962年「パルシファル」のバイロイト・ライブ録音も最近はじめて廉価版CDで聴いたが、ブーレーズ、カラヤンと比べても充分明快なものである。
 
ワルキューレ最後の「魔の炎の音楽」(独唱ジョージ・ロンドン)も、充分にその後を予言する響き、トリスタンとイゾルデの「愛の死」(独唱ビルギット・ニルソン)、男は本当に女にはかなわないということをこれほど実感させるものはなく、最後の部分の息の長さは大変なものである。
 
1950年代後半の初期ステレオ録音。このころのDECCAは本当にいい仕事をしている。日本で最初キングから出たこれら、最近どうしてか、出てくる数が少ないのは残念だ。

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揺れるブルックナー

2006-06-04 13:03:51 | オーケストラ
1972年日フィル最終定期公演(マーラー「復活」)の3ヶ月前、3月23日(木)に聴いたのがブルックナーの交響曲第3番ニ短調であった。
指揮はフィンランドのオッコ・カム、カラヤン・コンクール最初の優勝者だったはずである。
 
この曲を聴いたのはこのときが初めてで、ブルックナーの交響曲全般としても初めて何か味わえた、わかったという感を持った。
 
それは始まってすぐに予感があったのだ。このオーケストラからそれまで聴いたことのないみずみずしく溌剌とした響き、そして何か底知れない奥の方からその響きがゆらゆらとやわらかく迫ってくる。
未だになぜだかわからないのだが、こういうことはあるのだろう。その後は同じ曲をカール・ベーム、ウィーン・フィルのLPで聴くようになった。
 
ブルックナーの他の交響曲となると、少しずつ付き合えるようになったが、その次の飛躍となると、カラヤン晩年の第7、第8あたりまでかなりの時間がかかっている。
 
このカムのブルックナー、放送録音を保持しているわけでもなく、その場で聴いたきりであるけれども、こうして思い出して言葉にするのに何も困らない、そういう数少ない機会の一つである。
 
なおこのコンサートでは他に、
サリエリ「フルートとオーボエのための協奏曲」
武満徹「ユーカリプス1」
が演奏された。加わったソリストは丁度来日していたバーゼル・アンサンブルのメンバーで、
フルート:オーレル・ニコレ
オーボエ:ハインツ・ホリガー
ハープ:ウルスラ・ホリガー
今から見てもすごいメンバーである。

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ブーレーズのマーラー「復活」

2006-06-03 23:39:13 | オーケストラ

ピエール・ブーレーズ(1925~)がウィーン・フィルハーモニーと録音したマーラー(1860~1911)の「復活」CD(DG)が発売された。
ブーレーズには長い間、近代から現代にかけての音楽のナビゲーターとして世話になったから、マーラーも1995年の第6以来聴いてきてこの第2番「復活」であと第8番「千人の交響曲」を残すのみとなった。第8は演奏しない人も多いから実質全部といっても良い。(どうも録音するらしい)
合唱:ウィーン樂友協会、ソプラノ:クリスティーネ・シェーファー、メゾ・ソプラノ:ミシェル・デヤング
 
まず冒頭からしばし、おやっと思うほど立体感、奥行きがある。特に木管と弦。オーケストラのせいかとも思ったが、同じウィーンを振ったメータの1975年盤(これはかなり好きな演奏)はここまで極端ではなかった。もっともホールはブーレーズがムジーク・フェライン、メータはDECCAがよく使ったゾフィエンザール、その違いはよくわからないが。
 
そしてその後も立体感と透明感はあり、乱れず、曲の構造の力は出ている。しかし、マーラーの中でも特にこの曲は、それでも最後の第5楽章になると、何か感情的な高まりがもっとないと、おさまりがつかない。
 
実はブーレーズ最初のマーラーは1970年ロンドン交響楽団(LSO)と入れたカンタータ「嘆きの歌」、未完の交響曲第10番のアダージョであり、これらは確か史上初録音のはずである。その後CD復刻はされていないようだ。
 
「嘆きの歌」のLPは持っているが、このあたりからブーレーズのマーラーへの期待は、このロマンティックな楽曲にブーレーズの眼と手が入ることによって、明晰と混沌の対照が、ストレスが強い表現を産むだろうというものであった。うまくいけば「ドイツ表現派」の絵のようになるのではないかと。
 
しかし、ライブで時々マーラーを振っているらしいとの話はあったものの、1995年まで待たねばならなかった。
ブーレーズはこの半世紀、最初は近代の決定版選集を作るかと思われるごとく、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、ラヴェル、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、バルトーク、自作などを数多くCBSに録音し、それらの多くはこれら楽曲理解のベースとなるものだった。
 
そしてその後DGにほぼ同じレパートリーを再度録音し、それらは一部の曲にある民族色への配慮、円熟した味つまり「怒れるブーレーズ」とは違うという評価も多かったようである。
しかしそれは違う。やはり彼のような人といえども初心の気合、ストレスは、このような曲に関してはプラスになりこそすれマイナスにはならない。だからマーラーの録音シリーズは開始が遅すぎたか。
  
ところで先日5月28日(日)NHK教育TVの名演奏シリーズでジュゼッペ・シノーポリ(1946~2001)が1987年フィルハーモニア管弦楽団との来日時サントリーホールで演奏した「復活」の後半が放映された。
インタビューで彼は「マーラーには「破局(カタストロフ)の意識」があり、アイデンティティーと真実の喪失があって、夢想によって仮のアイデンティティーを求めようというのがマーラーの音楽である」と言っている。特に「復活」はそうかもしれない。演奏する側、聴く側の少なくともどちらかにそういう希求がないと「復活」は熱くならないうちに終わってしまう。

実はこの1月16日の演奏は実際に聴いている。このころは少しつらい時期でもあり、特に最後のあたりは聴いていてこたえた。
 
もうひとつ実際に聴いたのは、1972年6月16日(金)東京文化会館、小沢征爾指揮
日本フィルハーモニー交響楽団、日本プロ合唱団連合、ソプラノ:木村宏子、アルト:荒道子 、日フィル解散前最後の定期(第243回)であった。(この後知られるとおり新日フィルと日フィルの2団体に分裂した形になった。)
 
解散してしまうオーケストラが最後に演奏するのが「復活」とは、聴く方がちょっと恥ずかしい選曲であるが、その当時はそんな感覚はなく素直に受け取った。
これはその後放送されオープンリールで録音したが、もうこの媒体を使わないことにしたときカセットテープにダビングしたものが手元に残っており、ダイナミックレンジが乏しいものの、聴いてみた。
 
思いのほか落ち着いて丁寧に演奏している。最後だからとセンチメンタルになるよりは、最後だから無様な演奏は出来ないというのだろう。丁寧に気合が入って続いていくがしかし、第5楽章に入ると自然にアッチェレラントが見られ、表現の強さと密度が高まっていく。
これCD復刻される価値はあると思うが。
 
 
ところでこの「復活」というのは、聴いていて自然に手を動かし指揮をしてしまうという曲の中でもその最右翼ではなかろうか。
そう、実は世の中には「復活」だけを振る指揮者が存在する。ギルバート・キャプランという人で、好きが高じて指揮法を独学し、「復活」の指揮を覚え、金持ちでもあったので一流オーケストラを指揮する機会も持つようになり、1987年にはLSOと録音、そしてなんと2002年にはウィーンフィルが録音発売(DG)に応じている。

彼は「復活」スコアの研究も行い、ウィーンフィルにも受け入れられたそうであるが、今回のブーレーズがそれを使っているかどうかはわからない。そんなに大きな違いでないからわからないだろうと言っている人もいる。
 


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