オッフェンバック:喜歌劇「天国と地獄」(地獄のオルフェ)
ザルツブルク音楽祭2019
指揮:エンリケ・マッツォーラ、演出:バリー・コスキー
アンネ・ソフィー・フォン・オッター(世論)、マックス・ホップ(ジョン・ステュクス)、キャスリーン・リーウェック(ウリディス)、ホエル・プリエト(オルフェ)、マルセル・ビークマン(アリステ/プリュトン)、マルティン・ウィンクラー(ジュピテル)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・ヴォーカル・コンソート(合唱)
2019年8月12、14、17日 ザルツブルク モーツァルト劇場 2019年12月 NHK BS
数限りなく作られている「オルフェウとエウリディーチェ」をもとにしたドラマの一つ、といってもこれはかなり大胆なパロディで、ドイツに生まれ、ほとんどパリで活躍したオッフェンバック1858年の作品である。いろんな版があるようだが、これはおそらくパリ初演の2幕版で、フランス語が主体である。
オルフェとウリディスは仲が悪く、別れたいと思っているのだが、それでもウリディスの不倫相手を殺そうとしたら、まちがってウリディスが死んでしまう。しかしここで世論というキャラクターが登場、こういうものを作ってしまうところが才能というべきなのだろうが、世論は体裁を重んじ、ここは妻を連れ戻しに冥界にいくべきだと説く。世論に狂言回しらしいジョン・ステュクスが加わるが、二人並んでいる場面では、世論がフランス語でしゃべるとステュクスがドイツ語で同じことを説明する、といったシーンが続くから、これは上演と観客の状況を意識してのことなのか、オリジナルなのか今回の演出なのかはわからない。
このパロディ、本筋の話しより、冥界でのバカ騒ぎ、乱痴気騒ぎが延々と続くのが主体。こうなると生で見ているのなら楽しいかもしれないが、TVで見ているとちょっとくどく、うんざり感も否めない。
音楽も有名なあの序曲(といってもこの版では第2幕のフィナーレ前あたりで出てくる)はともかく、同じオッフェンバックの「ホフマン物語」と比べるといま一つだった。とはいえ、序曲相当の部分は、ダンスも含めこれはすごい(なにしろこれをウィーンフィルがやっているんだから)。
歌手では、とにかく出番が多く、高音を駆使して出ずっぱりのキャスリーン・リーウェックはたいしたもの。風貌はヒロインというより太ったあばずれという感を出していたが、演技の思い切りの良さも格別。
世論のオッターは、頭の良いこの人ならこのくらいはできるだろう。対するマックス・ホップはそれより走り回るところが多く、これはかなりなもの。
最後は、ほかのものと同様、振り向いたらだめというところで、ジュピテルの騒ぎのために振り向いてしまう。しかし、もともと別れたかったのだから、ということ。
おそらく1858年のパリは、こういう享楽的なもの、それに対する「体裁」の両面があって、それはその後現在まで、私見ではフランスではこういう見方はかなり強いと思う。この演出、特に衣装は、なんとも卑猥であって、ここまでやるかという感じなのだが、それはこの批評のため、ということだろうか。でもちょっとくどい。
そういえば、この対比はたとえば文字どおり映画「カンカン」の表の社会と裏のキャバレーの世界という構図に続いているのかもしれない。
ザルツブルク音楽祭2019
指揮:エンリケ・マッツォーラ、演出:バリー・コスキー
アンネ・ソフィー・フォン・オッター(世論)、マックス・ホップ(ジョン・ステュクス)、キャスリーン・リーウェック(ウリディス)、ホエル・プリエト(オルフェ)、マルセル・ビークマン(アリステ/プリュトン)、マルティン・ウィンクラー(ジュピテル)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・ヴォーカル・コンソート(合唱)
2019年8月12、14、17日 ザルツブルク モーツァルト劇場 2019年12月 NHK BS
数限りなく作られている「オルフェウとエウリディーチェ」をもとにしたドラマの一つ、といってもこれはかなり大胆なパロディで、ドイツに生まれ、ほとんどパリで活躍したオッフェンバック1858年の作品である。いろんな版があるようだが、これはおそらくパリ初演の2幕版で、フランス語が主体である。
オルフェとウリディスは仲が悪く、別れたいと思っているのだが、それでもウリディスの不倫相手を殺そうとしたら、まちがってウリディスが死んでしまう。しかしここで世論というキャラクターが登場、こういうものを作ってしまうところが才能というべきなのだろうが、世論は体裁を重んじ、ここは妻を連れ戻しに冥界にいくべきだと説く。世論に狂言回しらしいジョン・ステュクスが加わるが、二人並んでいる場面では、世論がフランス語でしゃべるとステュクスがドイツ語で同じことを説明する、といったシーンが続くから、これは上演と観客の状況を意識してのことなのか、オリジナルなのか今回の演出なのかはわからない。
このパロディ、本筋の話しより、冥界でのバカ騒ぎ、乱痴気騒ぎが延々と続くのが主体。こうなると生で見ているのなら楽しいかもしれないが、TVで見ているとちょっとくどく、うんざり感も否めない。
音楽も有名なあの序曲(といってもこの版では第2幕のフィナーレ前あたりで出てくる)はともかく、同じオッフェンバックの「ホフマン物語」と比べるといま一つだった。とはいえ、序曲相当の部分は、ダンスも含めこれはすごい(なにしろこれをウィーンフィルがやっているんだから)。
歌手では、とにかく出番が多く、高音を駆使して出ずっぱりのキャスリーン・リーウェックはたいしたもの。風貌はヒロインというより太ったあばずれという感を出していたが、演技の思い切りの良さも格別。
世論のオッターは、頭の良いこの人ならこのくらいはできるだろう。対するマックス・ホップはそれより走り回るところが多く、これはかなりなもの。
最後は、ほかのものと同様、振り向いたらだめというところで、ジュピテルの騒ぎのために振り向いてしまう。しかし、もともと別れたかったのだから、ということ。
おそらく1858年のパリは、こういう享楽的なもの、それに対する「体裁」の両面があって、それはその後現在まで、私見ではフランスではこういう見方はかなり強いと思う。この演出、特に衣装は、なんとも卑猥であって、ここまでやるかという感じなのだが、それはこの批評のため、ということだろうか。でもちょっとくどい。
そういえば、この対比はたとえば文字どおり映画「カンカン」の表の社会と裏のキャバレーの世界という構図に続いているのかもしれない。