メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

堀米庸三 「正統と異端」

2021-05-30 16:38:18 | 本と雑誌
正統と異端 ヨーロッパ精神の底流 : 堀米庸三 著 中公文庫(2013)(中公新書(1964))
 
上記の中公新書版は、出てそう経っていないころ読んだ記憶がある。5月8日(土)の日本経済新聞読書欄に本村凌二氏が「半歩遅れの読書術」という連載コラムで本書を取り上げているが、私とほぼ同年代のようで、同感するところが多い。といっても西洋史の専門家の氏とはことなり、当時どこまで理解していたかはおぼつかない。
 
氏が赤鉛筆でおびただしい傍線をひいたと書いているが、私も線をひいいていたと記憶する。ただ、その後新書はどこかにいってしまい、今回なんとか文庫版を手に入れて再読した。
 
話がはじまるのは、1210年あのアッシジの修道士フランシスが法王イノセント三世に会い、よく知られる清貧に徹して隣人を救うという運動に許可を求めた場面である。最高権力者とキリスト教の本質を厳しく問い詰めた修道士の対面であるから、答えは簡単ではない。
 
本書を読むと、このかなり前から教会、聖職者の腐敗が進み、これを批判し、自覚的な改宗を基本とする団体と正統カトリックの間では、洗礼や叙任などの秘蹟をめぐり、それを執行するものの人格(聖職売買、性的非行など)によって秘蹟が無効となり、やり直しが必要という主観主義と、そういう人格が執行したものであっても公式の規則によってであれば有効という客観主義の争いが長く続いていた。正統カトリックは後者である。
 
法王側は客観主義だが、教会内の腐敗とそれを追求する異端派の運動を前にして、規則と力の対立を続けるだけではいけない。その中で、イノセント三世がフランシスにある条件で布教を認め、基本的には体制内に置き、体制の体質改善と強化を図った、そのある種政治的なダイナミズムを本書で多少理解できるといったところだろうか。
 
ただ、イノセント三世までのグレゴリウス改革などの著述に数多く出てくる人物、争いなどは追いかけるのが困難で、著者には失礼だが、途中ある程度とばしてしまった。
 
本書を読んで、最近思うようになったことを多少確認した。私はいわゆる無宗教だが、宗教特に一神教を信仰するのであれば、どちらかというと上記の客観主義をとるであろう。考えに考え抜いて、また哲学など深めて信仰にいたるということもあるようだが、社会的な広がりの中で考えると、後者の方がいろんな派の相互の争い、それが激して、ということは避けられないだろう。
 
それでも世の中にはどちらかしかいないということはない以上、本書のような研究、著述が価値を持つということができる。
 
聖フランシスについて、若いころは表面的な知識やイメージだけで、それも映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972)(監督:フランコ・ゼッフィレルリ)、リストのピアノ曲くらいだった。
 
ただ1970年前後の激しい政治の季節の中で、ある程度落ち着いてものを見ることができたのには、本書をはじめとするいくつかの読書が効いていたといえるだろう。「寛容思想」にも興味を持ったと思う。
 
さて本書の著者紹介を見て、1913年生まれ、1956年じゃら東京大学文学部教授、73年退官、75年死去とあり、イメージしていたより早く亡くなっていたことに驚いた。
 
ところで、「まえがき」にこの研究・発表の経緯に「畏友丸山眞男」という記述がある。同年代であるが、この人と著者とは随分イメージがちがう。もっとも戦後のいわゆる進歩的知識人のアイドルだった丸山も、東京大学においてはアカデミズムの人を自認していたようだ。
 
ともあれ、解説で樺山紘一氏が、文庫で半世紀ぶりに再版されたことは奇跡といっているが、それは同感、後の世代の編集者に目利きがいたのだろう。


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ジュディ 虹の彼方に

2021-05-28 10:50:52 | 映画
ジュディ 虹の彼方に ( Judy、2019英、118分)
監督:ルパート・グールド
レニー・ゼルウィガー、ジェシー・バックリー、フィン・ウィトロック、ルーファス・シーウィル
 
ジュディ・ガーランド(1922-1969)の晩年を描いたもの。おそらく事実にかなり忠実だろう。「虹の彼方に」のスター子役の時代(回想的に時々入る)、その時期に母親、プロデューサーから受けた傷、トラウマ、sの後何度もの結婚、離婚を重ね、ロンドンで歌おうとしているのだが、まだ幼い二人の子供(ライザ・ミネリのかなり後に生まれた)の親権を争っており、どうも母親失格とされているらしく、うまくいかない。
そんな中で、いざ歌いだすとやはりオーラが出てくる。
 
このあたり、レニー・ゼルウィガーはなりきっているというか、文句のつけようがない。あのブリジット・ジョーンズがと思うのだが、これはオスカーも当然だろう。
 
ジュディはこの時(1968)46歳だが、今のスタンダードからみるとかなり老けている。おそらくそうだったのだろう。
 
歌はレニー本人が歌ったのだろうが、よくここまでと聴いた。実はジュディは1961年にカーネギー・ホールで復帰(おそらく)コンサートをしていて、その録音(2枚アルバム)を若いころ手に入れ(いつかなくなってしまったが)よく聴いていた。スタンダード・ナンバーのいいくつかはこれで知ったといっていい。
 
この映画で彼女が歌うとそのときの記憶がよみがえる。そっくりとも聴こえる。特に最後に客席と一緒に歌う「虹の彼方に」の前の「カム・レイン カム・シャイン」は彼女の人生への対面を歌って素晴らしい。
 
これだけのドラマティックな人生をむしろ淡々と描いて、飽きずに最後まで、監督、レニーそしてロンドンで世話をしたロザリン役のジェシー・バックリー、見事だった。

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「白鳥の湖」(ロイヤル・バレエ 高田茜)

2021-05-26 09:19:15 | 舞台
チャイコフスキー:白鳥の湖
高田茜(オデット/オディール)、フェデリコ・ボネッリ(ジークフリート)、トーマス・ホワイトヘッド(ロットバルト)
原振付:マリウス・プティバ、レフ・イワノフ
指揮:コーエン・ケッセルス
2020年3月6.10日 ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドン) 2021年5月 NHK BSP
 
テレビでバレエを見るようになったのは最近である。吉田都の引退が近くなって話題になり、関連番組をいくつか見ているうちに、以前より関心がわいてきた。
 
高田茜を初めて見たのは少し前、同じ白鳥の湖でジークフリート王子の二人の妹の一人だったが、長い手足と特に手の表情が際立っていて記憶に残った。そのあと、熊倉哲也、吉田都に続いてほぼ同時期にプリンシパルになった平野亮一と一緒に番組が組まれ、期待は膨らんできた。
今回、ぎりぎりで観客が入った公演、主役オデット(白鳥)とオディール(黒鳥)を堪能した。オデットの悲しみを含んだ輝き、そして王子を誘惑するオディールの色っぽさと怖さ、動きのキレがいい。
 
王子のボネッリも役のキャラクターに合っていたし、悪役ロットバルトのホワイトヘッドも達者であった。ただ後者の衣装はもう少しすっきりしていてもよかったのではないか。
 
バレエ鑑賞の素人だからかもしれないが、こういう名作でも全曲2時間となると長すぎると感じる。おそらく公演全体は、劇場の、バレエ団の興行として考えれば、団員の出番、観客をオペラと同じくらいの時間楽しませる、という事情もあるのだろう。各人のソロ、何人かの組によるダンスが次から次へと出てくるのは、この作品に限らない。レビューのような性格と考えていいかもしれない。
 
チャイコフスキーの人気ある三つの作品、オーケストラ・コンサートでは30分前後の組曲として演奏されることが多い。白鳥の湖の場合、もう少し長くてもいいが、ドラマのベースとなる筋と主役クラスのダンスを中心にしたプログラムがあってもいいと感じる。知らないだけですでにあるのかもしれないが。
 
ともかく、こういうきっかけがあると、今後の楽しみが増えてくると思う。


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モーツァルト 「偽の女庭師」

2021-05-17 16:52:59 | 音楽一般
モーツァルト:歌劇「偽の女庭師」(K.196)
指揮:ディエゴ・ファソリス、演出:フレデリック・ウェイク・ウォーカー
ジュリー・マルタン・デュ・テイユ(サンドりーナ)、クレシミル・シュピツェル(代官)、アネット・フリッチュ(アルミンダ)、ベルナール・リヒター(伯爵)、ルチア・チリッロ(ラミーロ)、ジュリア・セメンツァート(セルベッタ)、マッティア・オリヴィエーリ(ナルド)
2018年10月11日 ミラノ・スカラ座  2021年5月 NHK BSP
 
1774年、モーツァルト18歳の時の作品である。といっても初めてのオペラでもなく、この歳でと驚くけれども、あまりそれにとらわれなくてもいいようだ。
 
代官屋敷の女庭師サンドリーナ、訳ありで貴族出身の身分を隠している。代官の姪(アルミンダ)が結婚するということで代官邸に現れる、結婚相手に決まった伯爵がそこに来るが、ここでサンドりーナを見て、過去にひどいことをしてしまったヴィオランテではないかと思う。
 
代官の達者な小間使い(セルベッタ)、それにいいよるナルド、アルミンダを追いかけるラミーロ(メゾソプラノ)が入り乱れ、結局だれとだれが?と想像しながら観ていくことになるのだが、構図はわかりやすいから、歌手たちの歌と演技を楽しんでいrてばいい。思ったより飽きずに最後までいった。
 
今回の公演、オーケストラはピリオド楽器とそれに即した奏法のようで、作曲家この時期の音楽、シンプルで活気があることが目立つが、物語の大きな起伏を表現するもっと後の作品よりは、こういうやりかたの方がいいのだろう。
 
歌手たちは歌も、所作も達者だし、ほとんど一つの広間での進行と、壁や通路(穴)をうまく使ったしかけも大げさすぎなくていい。
 
ところで、この作品は「フィガロの結婚」の前触れとも言われているようだが、フィガロやコシ・ファン・トゥッテなどモーツァルの男女間のコメディ・オペラは、最後ヒロインたちの賢さが勝つということが多い。これはモーツァルトに限らないのかもしれないが、作曲家としてはそれだけではない、もっとちがう人間ドラマの深遠をという考えがあったのではないか。それがドン・ジョヴァンニで、これは是非とも書きたかったものだろう。ドン・ジョヴァンニにくらべれば、他の作品の結末は今風に言えばポリティイカル・コレクトネスみたいで、音楽ならもう一つ先があると言える。
 
今回、こういうことを思い浮かべたのも、最後までうまく聴かせてくれたからである。

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谷崎潤一郎 「春琴抄」

2021-05-10 14:50:27 | 本と雑誌
春琴抄:谷崎潤一郎 著  新潮文庫
 
昭和8年(1933)に著者(1886-1965)が発表した中編小説で、舞台は江戸末期から明治の大阪道修町。
裕福な商家の娘の琴は幼時に盲目になるが、三味線で才能を発揮、春琴と号する。この家の奉公人で春琴より年下の佐助が世話係を務めているうちに、佐助も秘密に三味線を練習し、軋轢があったが春琴が教えるようになる。
 
二人の関係、上下は絶対であり、現代ならどうかというものであるが、佐助は不満をもらさず、かといってマゾヒズムという感じでもなく(著述では)続いていくうちに、何者かに恨みをかった春琴が顔を傷つけられ、他人なかんずく佐助には見られたくないという。それをただちに理解した佐助が自分の黒目をついて盲目になり、春琴と同じ世界に入り、愛を全うする。
 
読む前に多少の紹介を知ると、たじろぐところもあったが、読後はそうでもなかった。目をつく場面は谷崎さすがの筆力かと後になって思う。実は二人の上下関係がかなり厳しい時期に、両人の間には子ができてしまい内密に養子に出され、その後も二人生まれてやはり養子となっている。このように性的関係はどうなのかと想像する前に、事実が明かされるが、物語の大筋も、場面としてもそういう叙述はなく、それを覆う芸と子弟関係、それが読む側で察する二人の間のなんらかの情愛として書き上げられている。
 
著者が書き始めで語る小説のなりたちは、「鵙屋春琴伝」という私家版小冊子が手に入り、これと春琴、佐助がなくなってから、その世話をしていた女性に聴いた話をもとにしている、ということになっている。
 
こういうしつらえと対応しているのかどうなのか、この叙述、文章は変わっていて、まず読点(、)がきわめて少なく、句点(。)も通常の文章の長めの段落相当のところにようやく出てくることが多い。それでいて読むのにとまどうところはなく、これは単語のつらなり、リズム、漢字とかなの組み合わせなど、日本語はこうも書ける、そしてよけいな間をいれない、ということなのだろうか、この小伝を一気に読ませるための。谷崎のわざというべきだろうか。
 



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