メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

パリ祭コンサート2022

2022-11-30 10:14:21 | 音楽
パリ祭コンサート2022 
<曲目>
  劇的物語「ファウストのごう罰」 作品24から
  「ハンガリー行進曲」 ベルリオーズ 作曲
  歌劇「椿姫」から 「ああ そはかの人か」~「花から花へ」 ヴェルディ 作曲
  ピアノ協奏曲 イ短調 作品16から 第3楽章  グリーグ 作曲
  バイオリン協奏曲 ニ長調 作品35から 第3楽章 コルンゴルド 作曲 ほか
<出演>
  ピアノ:アリス・紗良・オット
  バイオリン:レオニダス・カヴァコス
  チェロ:ゴーティエ・カプソン
  ソプラノ:ネイディーン・シエラ
  メゾ・ソプラノ:レア・デゾンドレ
  テノール:スタニスラス・ド・バルベラク
  バリトン:アーウィン・シュロット
  合唱:フランス放送合唱団
     フランス放送少年少女合唱団
  管弦楽:フランス国立管弦楽団
  指揮:クリスティアン・マチェラル
2022年7月14日 シャン・ド・マルス公園広場(パリ) 2022年11月 NHK BSP

この催しは毎年やられているかどうか知らないが、今回初めて見て、ロンドンのプロムナードコンサートやドイツ・オーストリアで夏に屋外で開催されるものと比べてもより楽しめるものだった。
 
上記のプログラムはほんの一部だが、全体にヨーロッパの各地やアフリカなど、楽曲はよく目配りがされていて、バランスが良かった。ただポーランド(ショパン)やロシアがなかったのはこのご時世とはいえよくわからない。どっちにしても音楽は別と知らん顔でというのもフランス人らしくていいのだが。
 
また今時よくと感じたのはドン・ジョヴァンニの選曲、マゼットに悪いと渋るツェルリーナをナンパするジョヴァンニ、またレポレロが歌う「カタログの歌」ではご主人ジョヴァンニの千をこえる相手についてうぶな若い子から年増まで「スカート履いてればだれでもいい」という歌詞がしつこく出てくる。
屋外でこんなに大勢でTV中継もされる場で、今時ジェンダーについてポリティカル・コレクトネスを気にしていればナンバーとして取り上げるのをためらう国も多いと思うけれど。
そこはそういう問題で必ずしも遅れていないフランスでも音楽の場は別ということなのか。それになにしろモーツアルトだから。
 
それに最後のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(ベルリオーズ編曲)を久しぶりに歌詞テロップを見ながら聴いたけれど、これも今時国際紛争になりそうな歌詞、それを少年少女合唱団も加わって歌っているし。
 
後半に入ったところであっと思わせたのは先にもアップしたラモー「みやびなインドの国々」のヒップホップを思わせる「未開人の踊り」で、さすがにオペラ座でヒットしただけあり聴衆もよく知っていてのりが格別だった。
出演者はアリス・沙良・オットを除くと初めての人たち(アリス・沙良・オットも映像は初めて)、中ではチェロのゴーティエ・カプソンの美しい音とプレージング、ソプラノのネイディーン・シェラの歌唱に加えあの美貌、が印象的だった。
 
ところであんな大きな屋外会場でも、TV映像と音はこれだけ鮮明で心地よく聴けるのには驚く。実際に聴いている人たちにはどう聴こえているのだろうか。PA技術も発達しているのだろうが。
クラシック系の音楽はどうしてもホールトーンに慣れている聴衆も多いから、この分野の技術は難しいだろうが、うまくいっているとしたらすごいことである。
 
先の「ミュージカルの歴史」にあったように、1960年代のロックあたえりから、音の録り方出し方が変わってきて、それがある程度時間をおいてクラシック分野にも来ているのだろう。



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プーランク「人間の声」

2022-11-20 14:03:23 | 音楽
プーランク:モノオペラ「人間の声」 脚本:ジャン・コクトー
ダニエル・ドゥ・ニース(彼女)
アントニオ・パッパーノ指揮 英国ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
監督:ジェームズ・ケント
製作:2022年 ロンドン(管弦楽)、パリ(声、映像)
2022年11月 NHK BSP

しばらく前にこの作品初演メンバーによる録音(LPレコード)を取り上げた。
演じるのはソプラノ一人、バックにオーケストラはあるがほとんど語りで、これは映像で見たいと思っていた。
 
今回はオーケストラと演技を別のところでとっているが、多分オーケストラが先でこれに合わせたのだろうと思うがどうなのだだろうか。どっちにしろ違和感はない。放送ではドゥ・ニーズとパッパーノが対談しているが、意識合わせは十分だったのだろう。
 
当時のパリの電話事情の悪さ(切断、混信など)もうまく利用しているが、これも映像とあわせると納得できる。
 
ドゥ・ニーズの演技はこうしてアップのカメラで見ると本当になりきった感じで、この作品に最もあった見せ方だろう。
 
電話がコードレスなのには最初驚いたが、彼女のうごきに自由度を与えているようにも見える。オペラが作られた時代にこうだったかどうかは別として。
ただ、コードレスだと最後の場面どうなのかなと思っていたら、終盤からコード付きのものにかわった。やはり、であったが最後は受話器もコードも画面からは見えなかった。
 
が、よく考えてみると舞台であればその方がよくわかるからともかく、こうして彼女のアップの映像が続けばそれはいらない、視覚に支配されない方がいい、という解釈だろう。
 
それにしてもコクトーとプーランク、よくこんなものを考え作った。愛と別れというシンプルなテーマをまたこういうシンプルな場面設定で、観るものを集中させ一気に見せる。



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