メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

「画家の像」「立てる像」(松本竣介)

2012-06-29 17:04:45 | 美術

松本竣介展の補足、全体を見て感じたこと。

この展覧会でも大きく有名な絵、「画家の像」(1941年、宮城県美術館蔵)と「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)を見ることができる。

これらは、戦時中の軍の美術政策に対して、松本画家たちの中では数少ない発言をし、それが戦後「抵抗の画家」といわれ、それを反映しものという意見もあった。それはいまでもなくなってはいない。

 

しかし、私が画家の名前と初めて知った「気まぐれ美術館」で洲之内徹は、そうではなくてむしろそんな戦中でも画家は十分に表現できると松本は言い切っており、この二枚ではそれを大見得をきった自身のポーズで描いていて、その自負と使命感と陶酔は虚しい、と書いている。

 

そうかもしれないがと思ってきて、今回こうして全体の中であらためて見ると、絵を描く中でさまざまな探究をし、その多様な技法と表現力で見るものを楽しませ感銘を与えてきた画家としては、これらの作品はたしかに唐突で無理があるなと感じる。

そうだから、他の多くの作品の位置と価値がわかるともいえるのだが。

 

ただ、そうではあっても、洲之内徹という人は松本竣介がとっても好きで、「気まぐれ美術館」の連載でも、おそらくこの画家に一番多くの紙幅を費やしている。


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松本竣介展

2012-06-28 21:14:12 | 美術

生誕100年 松本竣介展

神奈川県立近代美術館 葉山  2012年6月9日(土)-7月22日(日)

松本竣介(1912-1948) の名前を知ってからまだ15年くらいだが(洲之内徹著「気まぐれ美術館」で知った)、いろんな機会をとらえてみてきた。特に没後50年展(1998年練馬区立美術館)は充実したものであった。

 

今回こうして再度まとめてみると、これまで思っていたよりもっと落ち着いて画業を追求していった人だなと思う。夭折ではあっても生き急いだという感じはなく、また何かを描くというより、描くことののなかで発見があり、それを洗練させていった、それも多様な見地と技法で、といえるのではないか。

 

女性、郊外、建造物、街、そしてそういうものの混合と、他の画家からの影響を隠さないところ(たとえば細い線の効果が野田英夫を思わせるところなど)に、ひきつけられる。

 

こういう時でないと見る機会がない「街」(大川美術館)は、その大きさと細部の出来を考えれば収穫。

 

これまで印象が強かった緑色に加え、茶、赤の使い方も印象的。赤が勝っているけれどなぜか「黒い花」という絵、これは筆致は違うけれど麻生三郎の影響があるのだろうか。

 

今回、全体に額の位置が通常より少し低い。これは意識的にされたことだろうが、この画家の絵にはよくフィットしている。

 


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椿姫(ヴェルディ)

2012-06-27 22:02:33 | 音楽一般

歌劇「椿姫」 (ヴェルディ)

ルイ・ラングレ指揮 ロンドン交響楽団、エストニア・フィルハーモニー室内合唱団、演出:ジャン・フランソア・シヴァディエ

ナタリー・デセイ(ヴィオレッタ)、チャールズ・カステルノーヴォ(アルフレード・ジェルモン)、リュドヴィク・テジエ(ジョルジュ・ジェルモン)、シルヴィア・デ・ラ・ムエラ(フローラ)、アデリーナ・スカラベルリ(小間使・アンニーナ)、マウリツィオ・ロ・ピッコロ(医者・グランヴィル)

2011年7月 エクス・アン・プロヴァンス音楽祭、大司教館中庭、2012年5月NHK BS (因みに「椿姫」の舞台はパリとプロヴァンス)

 

これまでに見た、聴いた「椿姫」で最高だし、他の作品を含めてもこれほど心を打たれる演奏はほとんどなかったといってよい。

屋外の公演で、舞台は場面を象徴する壁、それと床をうまく使っている。通常のように、第一幕の宴会で「乾杯の歌」が歌われる場面でも、豪華な部屋や衣装はなく、現代の酒場、衣装である。しかしヴェルディの次から次へとよどみなく流れる名曲、充実した音楽からすれば、そんなことはどうでもよく、歌と演技にかかってくる。

 

さて期待したナタリー・デセイのヴィオレッタ、アルフレードより年上の、その世界で経験たっぷりの女性の設定だから、彼女のメイク、演技は納得がいく。小柄なのはやむをえないが、その存在感、これほどタフな役とはこれまで想像していなかった歌の連続、見るもの聴くものをしっかりつかみ引きずり込んで離さない。

 

ジョルジュ・ジェルモンが息子アルフレードと別れさせようとする場面の対決でも、これはもっとリリックな若いソプラノがやるよりデセイはジェルモンと十分やりあって負けない。そしてこのオペラの最後、まさに愛は勝つのだが、それが納得いく。 

 

第二幕でヴィオレッタが倒れ、その後ろで幕が閉まってそのまま第三幕、ここでデセイが靴を脱ぎ、つまり自室のベッドの傍ということを暗示し、ドレスを脱ぎ、鬘を自らとってシンプルな髪になり、小間使アンニーナがメイクを落としている間にアリアが始まる。この演出にはぞっとする。そして全体も、特にこの第三幕はある意味でデセイによる長大な「狂乱の場」であり、それで終わってこれほどの感動というのはなんとも言いようがない。

 

ルイ・ラングレの指揮もいい。それにしてもデセイという人は、この屋外の音響条件で、よくオーケストラの音と自分の声がきこえるものだと思う。そうでしかない歌唱であった。

 

フローラのシルヴィア・デ・ラ・ムエラ、美貌だし、スタイルもよくスリットから見える脚はどきっとする。。

 

こうして聴くと、ヴェルディの最高傑作は「椿姫」かもしれない。大作曲家ヴェルディとなると、ファルスタッフ、オテロ、アイーダ、ドン・カルロなど、シェークスピア台本や歴史に題材をとったものを評価する向きもあるだろうが、音楽が緻密で表現の振幅が大きく、そしてなによりどこをとっても忘れられないメロディー、というのは「椿姫」だろう。「カルメン」、「ラ・ボエーム」と並んで三大オペラといってよい。

 

これを見られたことの何という幸せ!

 


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くるみ割り人形(チャイコフスキー)

2012-06-23 17:37:15 | 舞台

バレエ「くるみ割り人形」

作曲:チャイコフスキー

アリーナ・ソーモワ(マーシャ姫)、ウラディーミル・シクリャローフ(王子)、アレクサンドラ・コルシュノワ、パヴェル・ミハイエフ(フランツ/くるみ割り人形)

指揮:ワレリー・ゲルギエフ、振付:ワシーリー・ワイノーネン

2011年12月30日、31日 マリインスキー劇場(サンクトペテルブルク)、2012年6月NHK BS

 

「くるみ割り人形」の組曲版を録音で聴いたことはあるけれども、全曲、それも舞台を見るのは初めてである。いわゆるチャイコフスキー三大バレエの中で、「白鳥の湖」、「眠れる森の美女」と比べても、この曲が抜けているとは思ってきた。こうして全曲を見た後でもそれは変わらない。組曲ほどではないにしても、チャイコフスキーは稀代のメロディーメーカー(多分ナンバー1)である。

 

クリスマスの夜、子供たちが人形つかいなどを楽しんで、眠りについたその家の女の子が見た夢の中、ネズミの大群が押し寄せてきたところをブリキの兵隊を率いたくるみ割り人形が追い散らすと、そのあとは女の子が長じてお姫様になっており、相手の王子と踊りだし、二人を祝福するかのような、世界各地からのダンスが繰り広げられ、エピローグで再び女の子は気持ちよく目覚める、という全体としては子供が楽しめるものである。

 

各種の踊りは音楽も耳になじみやすいし、見せ場も多い。またマーシャを演ずる子は何歳だろうか、とってもかわいくてうまい。そしてこれは「ロシアの踊り」というのだろうか(テロップがない)、女の子二人男の子一人の組はかわいいばかりでなく、特に男の子は達者で、大きな拍手を受けていた。

 

ただ、全体のアンサンブルとなると、バレエには詳しくないけれども、完璧とはいえないのではないだろうか、特にボリショイと比べて。特に何人かで踊るときのシンクロナイズというか、、、たとえばグラン・ジュテなど。

 

指揮がゲルギエフとは豪華だが、この人みかけによらず精密な指揮で、この名曲をたっぷり楽しめた。


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サド侯爵夫人

2012-06-20 15:51:52 | 舞台

「サド侯爵夫人」 原作:三島由紀夫、演出:野村萬斎

蒼井優(侯爵夫人ルネ)、白石加代子(ルネの母モントルイユ夫人)、美波(ルネの妹アンヌ)、麻実れい、(サン・フォン伯爵夫人)、神野三鈴(シミアーヌ男爵夫人)、町田マリー(シャルロット)

2012年3月14日世田谷パブリックシアター     2012年6月10日 NHKBSプレミアムシアターの録画

 

ひさしぶりに見たサド侯爵夫人である。原作の発表と初演が1965年というから、演出の野村萬斎が生まれる前、初演を見たと思っていたがこの年だとそれは勘違いで、どうも翌年らしい。本作の後の「わが友ヒットラー」は初演を見ている。

初演も翌年私が見たのも劇団NLT(紀伊國屋ホール)、演出は松浦竹夫、配役は上記の順でいくと、丹阿弥谷津子、南美江、村松英子、真咲美岐、賀原夏子、宮内順子という、多くは三島に縁がある懐かしい名前である。丹阿弥は当時40位でその時は自然に納得していた。それからすると、蒼井はずいぶん若く、サドが収監されてから13年はたっている場面があるわけだから野村による起用は思い切ったものだけれども、集中してみる時のこっちの抽象化というのだろうか、それは変に感じることはなかった。 

 

それはさておき、この技巧的な、装飾的な、作られた台詞が延々と続く劇、しかし言葉の一つ一つは確実にこちらに入ってくる。これは三島による言語世界構築のすごさだろうか。

女六人だけの舞台、ここに登場しないサド侯爵についてさまざまな角度から語られる。

不在のものについて、不在そのものについて語ることの意味、無意味、それが侯爵が自由になり帰宅したとき「サド侯爵は私だったのです」というルネが侯爵に逢わないで修道院にいってしまうという結末になる。

 

常に違った面からみることができるということ、不在と実在するこっちの往復、そういう多くの場面、台詞は、戦後の特に60年代から70年を見据えたとき、三島は自分の結末も含め、なんという透視をしていたことか。だから今にしてこれを見ると、言葉がすべてしっくりとこちらに飛び込んでくるのかもしれない。

 

椅子と机だけの舞台、衣装は特に18世紀ともいえないが様式的な無駄のない動きにうまくあうもので、通して集中してみることができたのは野村萬斎の演出の結果だろうか。

 

配役は、白石加代子だけちょっと異質な感じがある。もちろんうまいのだが、ここは配役で冒険してもよかったのではないか。麻実れいがサドを描いていく場面は見事。

 

そして主役の蒼井優、この人はずっと注目してきたが映画「百万円と苦虫女」のあとは、起用のされかたが一部常識的な売れ線の映画などになっていることや、一方で彼女の演技がなにか作りすぎているようになってきたことから、この2~3年は積極的に見ていなかった。

が、今回このような舞台となると、やはりこの人の良さとうまさが発揮されていると思う。だんだん自分の言葉の世界に入っていってしまい、母親との関係が逆転していくプロセスなど見ものである。ただ、このところ続いているものの舞台経験は短く、もともと映画の人のせいか、舞台では語尾が少し弱くなるくせがある。ここが変わってくれば。


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