「サド侯爵夫人」 原作:三島由紀夫、演出:野村萬斎
蒼井優(侯爵夫人ルネ)、白石加代子(ルネの母モントルイユ夫人)、美波(ルネの妹アンヌ)、麻実れい、(サン・フォン伯爵夫人)、神野三鈴(シミアーヌ男爵夫人)、町田マリー(シャルロット)
2012年3月14日世田谷パブリックシアター 2012年6月10日 NHKBSプレミアムシアターの録画
ひさしぶりに見たサド侯爵夫人である。原作の発表と初演が1965年というから、演出の野村萬斎が生まれる前、初演を見たと思っていたがこの年だとそれは勘違いで、どうも翌年らしい。本作の後の「わが友ヒットラー」は初演を見ている。
初演も翌年私が見たのも劇団NLT(紀伊國屋ホール)、演出は松浦竹夫、配役は上記の順でいくと、丹阿弥谷津子、南美江、村松英子、真咲美岐、賀原夏子、宮内順子という、多くは三島に縁がある懐かしい名前である。丹阿弥は当時40位でその時は自然に納得していた。それからすると、蒼井はずいぶん若く、サドが収監されてから13年はたっている場面があるわけだから野村による起用は思い切ったものだけれども、集中してみる時のこっちの抽象化というのだろうか、それは変に感じることはなかった。
それはさておき、この技巧的な、装飾的な、作られた台詞が延々と続く劇、しかし言葉の一つ一つは確実にこちらに入ってくる。これは三島による言語世界構築のすごさだろうか。
女六人だけの舞台、ここに登場しないサド侯爵についてさまざまな角度から語られる。
不在のものについて、不在そのものについて語ることの意味、無意味、それが侯爵が自由になり帰宅したとき「サド侯爵は私だったのです」というルネが侯爵に逢わないで修道院にいってしまうという結末になる。
常に違った面からみることができるということ、不在と実在するこっちの往復、そういう多くの場面、台詞は、戦後の特に60年代から70年を見据えたとき、三島は自分の結末も含め、なんという透視をしていたことか。だから今にしてこれを見ると、言葉がすべてしっくりとこちらに飛び込んでくるのかもしれない。
椅子と机だけの舞台、衣装は特に18世紀ともいえないが様式的な無駄のない動きにうまくあうもので、通して集中してみることができたのは野村萬斎の演出の結果だろうか。
配役は、白石加代子だけちょっと異質な感じがある。もちろんうまいのだが、ここは配役で冒険してもよかったのではないか。麻実れいがサドを描いていく場面は見事。
そして主役の蒼井優、この人はずっと注目してきたが映画「百万円と苦虫女」のあとは、起用のされかたが一部常識的な売れ線の映画などになっていることや、一方で彼女の演技がなにか作りすぎているようになってきたことから、この2~3年は積極的に見ていなかった。
が、今回このような舞台となると、やはりこの人の良さとうまさが発揮されていると思う。だんだん自分の言葉の世界に入っていってしまい、母親との関係が逆転していくプロセスなど見ものである。ただ、このところ続いているものの舞台経験は短く、もともと映画の人のせいか、舞台では語尾が少し弱くなるくせがある。ここが変わってくれば。