メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

プッチーニ「修道女アンジェリカ」(スカラ座)

2014-02-28 17:33:22 | 音楽一般

プッチーニ:歌劇「修道女アンジェリカ」

指揮:リッカルド・シャイー、演出:ルーカ・ロンコーニ

バルバラ・フリットリ(修道女アンジェリカ)、マリアナ・リポヴシェク(公爵夫人、アンジェリカの叔母)、チンツィア・デ・モーラ(修道院長)

2008年3月6日 ミラノ・スカラ座 2014年2月 NHK BS Pre

 

三部作の二つ目で、話は修道院内、女声だけで演じられる。アンジェリカは両親を失い、わけあって未婚で産んでしまった男の子と引き離されこの修道院に入って数年、叔母の公爵夫人が訪ねてきて、妹が嫁ぐため遺産分配についてのサインを求められる。そのとき消息が絶えた息子のことをきくが、死んだことを知らされ、悲嘆にくれる。

修道院で薬草に詳しくなっていた彼女は、薬を調合して自殺を図るが、それは罪だと苦しみだす。そこに聖母マリアの奇跡がおこり、息子が現れてきたところで救われたアンジェリカは息絶える。

 

美しい音楽で、こういう世界をプッチーニが描いたということに驚く。そしてなんといってもフリットリのアンジェリカが、その容貌、声、演技いずれもこの人で聴けてよかったと思わせる。

 

巨大な女性が倒れているところが舞台になっていて、その上を中心に修道女たちがやりとりする。そして息子が死んだことを知った後にアンジェリカが倒れる姿をそのまま拡大したのがこの舞台だったとわかる、そういう効果をねらったもの。

 

三部作はダンテの神曲から想を得たといわれていて、先の「外套」が地獄篇、これが煉獄、次の「ジャンニ・スキッキ」が天国だそうで、私などには煉獄が直感的に一番わかりにくいのだが、アンジェリカの終盤の苦しみはそういうものなのかとも思う。しかし、この救済とも幻想とも思えるシーンを説得力を持って進めていくのは、プッチーニの音楽の力であり、ここでもシャイー指揮のオーケストラは見事である。

 

「外套」の筋はともかく音楽は「ボエーム」を連想させるが、この作品は「蝶々夫人」かもしれない。

 


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プッチーニ「外套」(スカラ座)

2014-02-27 10:58:13 | 音楽一般

プッチーニ:歌劇「外套」

指揮:リッカルド・シャイー、演出:ルーカ・ロンコーニ

フアン・ポンス(伝馬船の船長ミケーレ)、パオレッタ・マロック(船長の妻ジョルジェッタ)、ミロスラフ・ドヴォルスキー(ルイージ)

2008年3月6日 ミラノ・スカラ座  2014年2月 NHK BS Pre

 

プッチーニが晩年書いたいわゆる三部作の一つである。これらはいずれも1時間弱で、まとめて上演されることが多いようだ。録音で聴いたことはあるが映像ははじめてである。初演は1918年。

 

数人を雇っている運送船の船長とその若い妻、船を住居としている。妻はこの生活に飽きており、別の生活を夢見ている。そこに臨時雇いの船員ルイージが現れる。

 

マロックのジョルジェッタが出てきたときから、そのワンピースと動くしぐさでドラマのその先を想像させる。話はかなり想像した通りに進むのだが、プッチーニの音楽は彼の音楽のよさを保ちながらモダーンで、この20世紀的なドラマを描き出す。「ボエーム」のメロディもこのときに流行っているという設定で流れてくる(これはモーツアルトのオペラでもよくある)が、ボエームの話と音楽も突き詰めるとここまで来るかもしれないという、おそるべきプッチーニのメッセージである。

 

話の細部はもちろんちがうけれど、見始めて何度か頭に浮かんだのは「ヴォツェック」(1925年 ベルク)である。時期もそんなに違わない。

 

船長のポンスはフィナーレで思った以上の力強さ、怒りを見せ、それが悲劇を際立たせる。妻役のマロックは船長をここまで持ってきてしまう見事な演技。ドヴォルスキーはもう少し優男の雰囲気があればとも思った。

 

リッカルド・シャイーが指揮してくれたことは幸いだったと想像する。こういう現代のセンスと歌がうまく同居している。

 

なおフアン・ポンスは私が持っている1991年の録音でもミケーレを歌っている。年長者の役だから現在も通用すると思うが、タフな人である。ここでのジョルジェッタはミレッラ・フレーニ、オーケストラはバルトレッティ指揮フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団である。

 

 


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ショスタコーヴィチ「交響曲第15番」

2014-02-26 14:42:24 | 音楽一般

ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

シャルル・デュトワ指揮 NHK交響楽団

2013年11月30日 第1769回定期公演 NHKホール 

2014年2月9日TV放送 

 

ショスタコーヴィチ(1906-1971)最後の交響曲(1971)である。発表された当時から「ウイリアムテル序曲」をはじめ、有名な曲の断片が入っていて、それが何かを戯画化したものであるのか、諧謔なのか、いろいろ言われたものである。ほかの作品も含め、あまり食わず嫌いでもと、少しずつ聴き始めたときに、この曲の録音も一度聴いたが、そんなものかという印象しか残っていない。

 

ところが、こうしてたまたま聴いてみたら驚いた。高度に洗練された部分、それらはいろいろな楽器が選ばれて演奏しがいのあるソロ―パートを含んでおり、全体はそういう離散的な集合が進行していき、悲痛でもなく諦念でもないなんとも言えない静謐の中で終わる。

 

有名曲の断片は自らの音楽家としての半生を物語っているのか、ソ連という社会をカリカチュアしているのか、いろいろ取れるのだが、一面的ではない。第4楽章に出てくるのはワーグナー、「神々の黄昏」のジークフリート葬送行進曲、「トリスタンとイゾルデ」などだろうか。

 

オーケストラのいろいろなパートの人たちにとっても、演奏しがいのあるものだろうし、その様子がTVで見ると伝わってきて、そこにこっちが少し移入していくことによってこの曲を味わうことにもなる。 

 

こういう批評性もある曲だからデュトワの指揮はいいだろうと勝手に期待したが、そのとおり。この人はデヴュー時のイメージを残しながら、無理なく円熟しているようだ。


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ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(メトロポリタン)

2014-02-19 10:35:00 | 音楽一般

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」

指揮:ジェイムズ・レヴァイン、演出:ディーター・ドルン

デボラ・ヴォイト(イゾルデ)、ロバート・ディーン・スミス(トリスタン)、ミシェル・デ・ヤング、マッティ・サルミネン(マルケ王)、アイカ・ヴィルム・シュルタ(クルヴェナール)

2008年3月22日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2011年11月WOWOW

 

今回の演出、演奏、映像でようやくこの著名な作品のドラマとしての性格をよく理解することができた。

「トリスタン」については、長いし、忍耐が必要だしで、しかもいろんなことが書かれているから、一定のイメージをもってしまう。

なんとなくフロイト、性愛、法悦、、、という感じで、オーケストラのコンサートでよく演奏されるのが最初と最後をくっつけた「前奏曲と愛の死」だから、なおさらそう感じてしまう。 

 

今回は細かい話、ここに至る経緯を落ち着いて観ることができたようだ。もっともそれはこっちの問題なのだが。

 

こうしてみると、イゾルデはずいぶん勝手でわがままな女で、そこからすべてが発しているようにも思える。それだからトリスタンが語るこれも長い物語をよく聴くと、この人とマルケ王もよく理解できる。

 

それはシンプルな舞台とかなり凝った照明による演出によるところが大きい。歌手たちもどちらかというと明解な歌い方。

 

そうなるとジェイムズ・レヴァインという劇場のプロは、なんとも素晴らしい指揮をする。あの前奏はこれまで聴いたことのないくらいゆっくりと始まるが、濃密で聴くものをしっかりつかんで離さない。そのあとも飽きない音楽、幕間などで見るとこのころは体調も良かったようだ。

 

トリスタンはこの演出、解釈にはフィットしていたといえるだろう。ヴォイトはこのところ他の上演で幕間のインタビュアーでおなじみだが、このイゾルデでどうしてもそのにこやかな人柄を感じてしまう。それを別とすれば、このドラマのなかのイゾルデは通常のオペラのファム・ファタルが媚薬を飲んだらという演技で、これでいいとも思う。

 

サルミネンは1945年生まれで1983年バイロイトの映像(指揮バレンボイム、演出ポネル)で見たことがあるから、ずいぶん長くマルケ王をやっていることになる。今回の演出にもぴたりであった。

ところでサルミネンは「ドン・カルロ」のフィリッポ2世 も得意としているが、これとマルケ王は彼らの花嫁と息子あるいは甥(トリスタン)という関係が似ている。「エルナーニ」のシルヴァもそうだが、バスのもうけ役というのはこのケースが多いようだ。

 

なおこの映像のクレジットには「アンソニー・ミンゲラを偲んで」とある。ミンゲラは「イングリッシュ・ペイシェント」などの映画監督で、まだこれからという2008年、この上演の直前に亡くなっている。メトロポリタンで演出した「蝶々夫人」は大成功だったようで、それでこうなったのかもしれない。「蝶々夫人」は機会があればいずれ観てみたい。

 

そしてこの映像はバーバラ・ウィリス・スウィートという人の演出によるもので、ほぼ全編がマルチスクリーンになっている。全景に近いものと一人か二人、歌っているひとのアップを組み合わせたもので、説明的にはなるもののこういう作品を理解するには便利ではある。通常の全景とアップの組み合わせは、考えてみれば映像演出に乗せられすぎているともいえるだろう。スウィートへのインタビューでは、観る人の選択も可能とのことだが、パブリック・ビューイングの仕掛けによってはそういうことができるのだろうか。

 


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トーマス・アデス「テンペスト」(メトロポリタン)

2014-02-14 11:17:40 | 音楽一般

トーマス・アデス:歌劇「テンペスト」

原作:シェイクスピア、脚本:メレディス・オークス

指揮:トーマス・アデス、演出:ロベール・ルパージュ

サイモン・キーンリーサイド(プロスペロー)、オードリー・ルーナ(アリエル)、アラン・オーク(カリバン)、イザベル・レナード(ミランダ)、アレック・シュレイダー(フェルディナンド)

2012年11月10日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2014年1月WOWOW

 

原作は読んでいない。また舞台でも見ていないし、オペラもいくつかあるはずだが、最後まで見たものはない。

シェイクスピアのこういうものは鑑賞というスタイルではなじみにくいということが、少なくとも私にはあるようだ。あの「真夏の夜の夢」も、幸運にも若い時にピーター・ブルック演出の日本公演を見ることができたおかげで、その面白さがわかったが、テンペストもこれと同様に、おとぎ話のような背景と妖精や妖怪(creatureと言っていた)が活躍するからわかりにくい。

 

これは21世紀になってからアデスが発表したもので、オペラにすることになれば台詞は少なくなるが、オークスの脚本はそれでもわかりやすくうまく作られているし、音楽、演技、見せ方もおそらく現代人が入っていきやすいものとなっているのだろう。

こういう古典をベースにするときにはいろいろな考え方があるだろうが、シェイクスピアが生きていた当時の観客にはあれでかなり通俗的で入っていきやすいものだったのだろうから、このようなものでいいのかもしれない。

 

そして演出はあのルパージュである。サーカスも出てくるし、このミラノとナポリの政争を背景とした話で、前半は漂流して流れ着いた島、後半はスカラ座のバルコニー、それも始めは映画のセットの裏側みたいなパイプが丸見えのもの、フィナーレになると豪華なものという凝ったやりかた。

 

妖精アリエルと妖怪カリバンはそれぞれプロスペローあるいは作者の意志と本能を具現しているというが、特にアリエルはほとんどファルセット(夜の女王などにくらべて出ずっぱりの)で、その衣装、メイクとともに怪演だし、カリバンもよく理解できる。

 

キーンリーサイドのプロスペローはやはり見栄えがするし、歌唱も納得するものである。ただこのオペラ、娘のイザベルの恋にあまりにも簡単に降参してしまうこと、そうなる予定調和が比較的早くから見えてしまうところは、今一つ。

 

イザベルとフェルディナンドの二重唱は、ミュージカルを見ているみたいだが、これはこれでいいのだろう。

 

英語のオペラはあまり見ていないが、これは比較的よくききとれる。たとえばブリテンの「ピーターグライムズ」とくらべて。

もっとも、イタリア語やフランス語と比べると、英語というのは音楽への乗りという点ではあまり向いてないと思うけれど。

 

 


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