メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

絵本読み聞かせ(2023年1月)

2023-01-26 21:13:16 | 本と雑誌
絵本の読み聞かせをある保育園で四年前から月一回やっている。
年少組、年中組、年長組それぞれだいたい15分で3冊。組をまたがっているものもたいていあって、反応のちがいなど観察している。
 
以下、今月のプログラムである。ここで年少組はその年度の4月に1歳、年中組は2歳、年長組は3歳以上、したがって1月になるともう1歳近く成長していることになる。
 
年少
  おんなじ おんなじ(多田ヒロシ)
  わたしの(三浦太郎)
  ぎゅ ぎゅ ぎゅー(駒形克己)
年中
  おんなじ おんなじ
  でんしゃでいこう(間瀬なおかた)
  もりのおふろ(西村敏雄)
年長
  でんしゃでいこう
  もりのおふろ
  ゆきがふる(蜂飼耳 牧野千穂)

絵本の内容には季節性もあるから毎年同じ月でよく似たものになる傾向はある。それでも子供たちは知ってるものを何度も聴きたがるし、その間成長もあるからむしろいいかなと考えている。
  
さて今回、年少では「ぎゅ ぎゅ ぎゅー」が大人にはなかなか理解しがたい食いつきがあって、やってよかったという気持ちになる。これは作者駒形克己の展覧会で知ったことであるが、自身の娘さんに胎児の時のイメージを聴取して作成に活かしたものらしい。そんなことができるのかとも思うけれど、読んでみて今回もどうしてここでこういう風にうけるのかな、という箇所(色とかたちとうごき)がいくつもある。そういう時間ができるということは貴重である。
 
「おんなじ おんなじ」ではふたりがぶつかっていたいいたいという箇所で、子供たちから何か貼ってあげる、食べ物あげて(なぐさめる?)など勝手な発言がいくつも飛んできた、みんないいなあ。
 
「もりのおふろ」だけれど、ライオン、ぞう、ワニ、ぶたとつぎからつぎへともりのおふろにやってきて、背中をあらってくれないかとたのみ、最後に来たうさぎを先頭のライオンが洗うことになって大きな輪ができる、それだけのことだが、絵がへたうまといってもちがうかな、よくわからないがいくつも細部を指摘してわらいころげもりあがる。子供の絵本の世界、なぞである。
 
「ゆきがふる」の対象年齢は小学生以上かもしれない。みんな静かに聴いている。内容はシュールというかそういうところもあるけれど、予想しない側面で感じているところがあるかもしれない。少し経って思い出してくれるといい。
詩人蜂飼耳の発想と展開、オリジナリティーというだけでは言い表せない。
牧野千穂(絵)の素晴らしい雪と登場者の世界、大人は「悲しみの美しさ」というだろうが、理屈はどうでもいい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天路の旅人」いくつか

2023-01-22 10:36:16 | 本と雑誌
天路の旅人(沢木耕太郎)について2回前(1月13日)に書いたが、もう少しいくつか。
 
西川一三が1943年に密偵として内蒙古から中国の奥地を経てチベット、インドへほとんど単独で赴いた。意外なのはそれまでチベットのラサに足を踏み入れた日本人はわずかに7人、西川が8人目だった、と書かれている。チベットが鎖国状態だったからでもあるが、その中でたいへんな苦労をして潜入した人たちがいたのは、やはりこの地、そこまでの路に魅せるものがあったのかもしれない。
 
最初は河口慧海(かわぐちえかい 1866-1945)という黄檗宗の僧侶である。やっぱりそうかと思った。なぜかと言えば、東北大学のデジタルアーカイブを調べた時、そこに河口慧海の事績、資料があり、記憶にあったからである。
1901年のことであり、8人目の西川が内蒙古を発ったのが1943年、河口がなくなる少し前ということになる。
 
また西川が書いた「秘境西域八年の潜行」が刊行されたのは1967年、改訂版は1990年、帰国からかなり困難もあり、いろいろな経緯を経てのことであった。沢木はこの間の経緯についても関心をもって深く追求し、それはこの本の本質につながるものとなっている。
 
刊行から改訂までのプロセスにはさまざまな人の名前がでてくるけれど、そのなかに神吉晴夫(カッパブックス)、加藤謙一(講談社)という有名編集者が出てきた。当時は力のある編集者がそうはいなかったのかもしれない。
 
昨日(1月21日)、日本経済新聞朝刊読書欄の文芸書ベストテンで本書がトップになっていた。
こういう大冊(570頁、2400円)が1位になるのは珍しい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

[特集] 新・日本のピアノ

2023-01-17 17:57:17 | 音楽一般
クラシック音楽館 [特集] 新・日本のピアノ
2023年1月15日NHK Eテレ 
 
① 矢代秋雄「ピアノ・ソナタ」 ピアノ:河村尚子
② 武満徹「ピアノ・ディスタンス」 ピアノ:高橋アキ
③ 一柳慧「ピアノ・メディア」 ピアノ:中野翔太
④ 吉松隆「朱鷺によせる哀歌」 ピアノ:黒木雪音 指揮:齋藤友香理 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
⑤ 西村朗「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」 ピアノ:實川風、務川慧悟 指揮:齋藤友香理 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
⑥ 松平頼暁「ミケランジェロの子犬」 ピアノ:中野翔太
⑦ 細川俊夫「月夜の蓮 モーツァルトへのオマージュ」 ピアノ:菊池洋子 指揮:齋藤友香理 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
⑧秋山邦晴 作詞、武満徹 作曲、西村朗 編曲 「さようなら」 ピアノ:高橋アキ

とても珍しい充実した企画である。いつだったか滝廉太郎が日本ではじめてピアノ曲を作曲してからしばらくのいくつかの作品が紹介されたことがあったが、これはそのあと、戦後を代表する作曲家たちの作品をたどる、紹介する優れたものだった。
 
こうして聴くと、日本のピアノ音楽、特に戦後から半世紀近くで、世界の20世紀ピアノ音楽の中でも、ラヴェル、メシアン、プロコフィエフなどの後に続くものになっていると言っても不思議はないと思う。
 
矢代秋雄のピアノソナタ、以前N響定期ではじめて聴いて驚いた記憶がある協奏曲もそうだが、わかるとかわからないとかでなく、とにかくこういうものと素直に聴けばなにかたいへんなものが入ってきているのがわかる。
このソナタの演奏も協奏曲の時と同じ河村尚子、しばらく我が国の中堅若手の人たちを聴いていなかったが、このひとちょっと抜けた存在だと思う。この強いアタックの連続があってもぶれない説得性というか。
 
一柳のシンプルな攻撃性?、松平のコンンピュータウイルスに侵された「子犬のワルツ」、西村朗のヘテロフォニーはなるほどピアノにはこういう特性とポテンシャルがあるのかと思わせる。
 
細川の月夜の蓮、吉松の朱鷺によせる哀歌、いずれもきわめて強く新しい美しさ、堪能できる。
 
また過去の何人かのピアニストの姿がでてきたのもなつかしい。その中でここで現役として演奏、解説した高橋アキ、随分ながい間映像でみていなかったが、健在である。78歳だが、私が1970年ころ、東京文化会館小ホールでケージ、武満、高橋悠治、松平などの曲を聴いた時の印象からすると、かなり愛想よくなった(失礼)と思う。上記の会では最後がメシアンでやはり作曲家として格上と感じてしまったが、その時からすると今回のこの番組のプログラムはその後の日本の歩みを示すものであり、誇っていいかもしれない。

なお最後の「さようなら」はしっとりと情感たっぷりだった。彼女は秋山と結婚していたが先立たれた。こういう曲があったことは知らなかった。なかなかにくい選曲である。
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢木耕太郎「天路の旅人」

2023-01-13 11:20:49 | 本と雑誌
天路の旅人:沢木耕太郎 著 新潮社

著者久しぶりの大型ノンフィクションという広告を見てびっくりした。こういう形は最後かもしれないともいわれた。たしかに沢木は私とほぼ同世代だから、そうかもしれない。
 
取材の対象は西川一三(1918-2008) 、陸軍の密偵として1943年から1950年まで、蒙古、チベット、インドをめぐり帰国後「秘境西域八年の潜行」を著した。
 
知られるように沢木にはアジアから中東、ポルトガルまでバスを中心にわたった「深夜特急」があって、それで興味を持ったのかと思ったが、読んでみるとそれもあるけれど西川の帰還後の生き方を含めたもっと広いところのようだ。
 
上記の本を書いてしまうと、盛岡で小さい化粧品卸店をやりながら、元日以外一日も休まず完全なワンパターンの生活を続けていた西川にインタビューしながら、その著書の完成から出版までの内容的欠落、不完全を見て、いずれ元の原稿をと考えているうちに西川は亡くなってしまうのだが、西川の娘とのやりとりから元の原稿がみつかり、それは膨大なものだったが、それを読み込み検証しながら西川の旅の再現を試みた。
 
だから、読み始めると詳細がくどく続く印象はもったけれど、沢木の文章はしつこいものではないのでなんとか進んでいって、後半になってくると、西川という人間が、そして彼の旅がとびぬけたものであることがわかってくる。
 
出発した時、密偵であるから日本のパスポートもなく、そんなに金も持たず、蒙古語は多少習っていたようだがその慣習、食べ物、生活のノウハウ例えば、燃料のあつかい、火起こし、原料から食べものをどう作るか、乗り物も駱駝もあるが特にヤクの扱いなど。
それに生きていくためには、ラマ教、仏教などの巡礼になったり、寺に入って修行して覚えた御詠歌を歌って托鉢したり、あるいは御詠歌のせいで命拾いをしたり、嘘もついたり、無線乗車もする。蒙古のなかでもいろいろあり、そのあとチベット、インドになるとまた異なる。
 
ただ、生き抜くために狡猾にやっていくだけかというとそうではなく、助けてくれた人には無理してでも面倒なこと、危険なこともやる。またやってやったのに裏切られたかなと思ったら、かなり後になっていい面で予想が外れ、人間社会の理解が深まっていく。
 
つまり一人で、生まれてからの土台といえば、丈夫な体(体躯はいい)、知恵と意志であって、そのあとはゼロから環境にもまれながら、それでも結果として人間らしい旅をつづけた。
それは、随分あとになって敗戦を知ってからの西川について沢木が書いているように、
未知の土地に赴き、その最も低いところで暮らしている人々の仲間に入り、生活の資を得る。それができるかぎりはどこに行っても生きていけるはずだ。そして自分はそれができる。
と確信するに至った。
 
これは人が世の中で生きていくということの究極というか極北というか、絶望的なものというのか、希望が持てることというのか。
 
これだけの素材を掘り起こし、こういう形で、著者からすればうらやましい生き方のようだが、出してくれた意味は大きい。
 
おりしも読み終わるころにNHKの「クローズアップ現代」でとり上げられ、めったにTV取材に応じない沢木自身が出てきた。相変わらず若い風貌でフットワークもよさそうだった。
 
実は昨秋、いろんな経緯を経て白内障を手術、両眼にレンズが入って近眼鏡は不要になり、今度は読書用眼鏡を作って快適になったところでちょうど本書出版のタイミングになった。570頁もあったが、快適に読み進めたので、今後の読書生活が再び楽しみになってきた。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リヒャルト・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」(メトロポリタン2022)

2023-01-06 10:16:38 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス :歌劇「ナクソス島のアリアドネ」
指揮:マレク・ヤノフスキ、演出:エライジャ・モシンスキー
リーゼ・ダーヴィッドセン(アリアドネ)、ブレンダ・レイ(ツェルビネッタ)、イザベル・レナード(作曲家)、ブランドン・ジョヴァノヴィッチ(バッカス)
 
シュトラウスの作品はこの数年よく観ているが、これは久しぶりというかこれだという印象があまり残っていない。
この前見たのはと探してみたら、数年前に最初の版改訂版を続けて観ていた。
 
今回は通常の改訂版で、貴族の邸宅でオペラを上演する前のどたばたがあり、結局オペラに加え最初はなかったコメディが一緒に上演されるという、2幕からなるものである。
オペラとして楽しむには、それにメトロポリタンであればやはりこっちだろうか。
 
最初の幕ではここしか出ない作曲家の歌唱に焦点があたるが、イザベル・レナードは役にぴったりで、このさわぎからも本編のアリアドネを想像させ、聴かせる。女声で男性を演じるいわゆるズボン役だが、風貌もぴたり。シュトラウスはズボンが好きだなあと思う。
 
ナクソス島で生き延びたけれど一人になってしまい嘆いているアリアドネはリーゼ・ダーヴィッドセン、この長丁場の嘆きの歌が聴かせる。先入観で可憐な役かと思っていたが、これはワーグナーも歌うかと思わせる強い声とスタミナが必要で、これまでにもそういうソプラノ、ジェシー・ノーマン、モンセラ・カバリエなどが演じている。なおダーヴィッドセンによれば彼女のティアラはかってノーマンが使ったものだそうだ。
 
ツェルビネッタもその曲芸的で長いコロラトゥーラで聴かせるが、スピーディでコミカルな動作とも、ブレンダ・レイは見事だった。
 
この演出では、あえて二つの劇をひねった組み合わせで面白くみせようとはせず、あくまでアリアドネに焦点をあて、舞台の奥の大きなでも目立たない引き戸からツェルビネッタなどコミカルな連中を出入りさせ、観客の眼と耳がうまく作品を鑑賞できるようにしていた。だからといって変化に乏しいものではなく、そこが今回の収穫。
 
ツェルビネッタたちや、女三人の精たちの演技を見ていたら気がついたのだが、これって「魔笛」(モーツアルト)の巧みな引用(むしろ借用?)ではないだろうか。私が嫌いなザラストロがいないのもいい。
 
終わってみればヤノフスキの指揮は、小編成的な雰囲気で流れがよく、歌手たちが歌いやすそうなバックアップ、これはこの人ならではと思わせた。
 
それにしても、初版と改訂版の間には第1次世界大戦があったわけで、シュトラウスはどのような気持ちでこれを書いていたのだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする