「マンスフィールド・パーク」(Mansfield Park) ジェイン・オースティン 訳 大島一彦 (中公文庫)
ジェイン・オースティン(Jane Austen)(1775-1817) 後期の作品(1814)で、6つの長編小説の一つ。これで6つ全部を一通り読んだことになる。世にオースティン好きが男女を問わず多いことはよくわかってきた。
とはいえ、何年かにわたって6作品となると、どれがどういう筋だったか、思い出せないことも多い。仔細に比べれば違いはあっても、また内容に関心しても、英国の田舎のちょっといい家の話、それもこの時代のほかの小説に比べれば穏やかな展開だから、やむを得ないかもしれない。
「分別と多感」、「高慢と偏見」をなんとか覚えているのは、映画も見ているせいだろう。
「マンスフィールド・パーク」は三人の姉妹がそれぞれ嫁ぎ、その子供たちが物心つくころからの話である。一番貧しく、子だくさんの一番下の妹の長女が二番目の伯母のもとに食い扶持兼見習いで預けられ、彼女をもとに大家族の騒動、縁がある若い男女の恋愛とその騒動、が描かれる。それはドラマとしては静かで、細かい日常的な顛末の描写がまことにうまいから、展開は地味なのに、次々と読み進みたくなる。
男性読者としては、その一つ一つがなるほど、女性はこういう風に受け取るのか、考えるのか、その中で思慮深いとはどういうことなのか、じっくり理解が進むわけである。
中でも、たまたま集まった若者たちが屋敷で芝居を計画するくだりの細かい場面が秀逸である。その種の細かい描写ではこの作品が一番だろう。
とはいえ、オースティンの苦手とするところは、こうしていって最後に結末をつけなくてはならなくなってからで、こういう流れでは読者が納得する最後の進行が、自然でしかもそこの感銘がのこるというわけにはいかない、というところだ。
この小説でも、他のものと同様、ちょっととんでもない事件が突然起こり、フィナーレをむかえる。それは小説の進行から想像され、読者もそうあってほしいというものではあるのだが。
そうなると、中で「高慢と偏見」に人気があるのは、相対的には妥当なところだな、と思うのである。
サマーセット・モームが「世界の十大小説」で「高慢と偏見」をあげ、「読書案内」で「マンスフィールド・パーク」をあげたのは、自然かもしれない。
「市川崑物語」(2006年、85分)
監督: 岩井俊二
市川崑(1915-2008) の映画はほとんど見ていない。「ビルマの竪琴」(1956)、「東京オリンピック」(1965)、「野火」(1959)、これらのうち監督を意識したのは「東京オリンピック」だけである。あとの二つはやはり戦争、そして竹山道雄、大岡昇平という原作者を頭に浮かべたのだろうか。それも随分前のことで、最近といえば「細雪」(1983)を追悼放送で見たくらいである。なにしろ金田一耕助シリーズをまるで見ていない。
だからこれを見る気になったのは岩井俊二が作ったからだが、世代差を越えたこのオマージュは、岩井という人を語るのには良いものとなっている。
全体にナレーションはなくて、黒い画面に縦に一行ずつ文節が現れる。日本映画で時々見られる手法で、これと写真で市川の半生が語られる前半は少し眠気を誘われるが、それを過ぎるとむしろ自然に注視できるものになってくる。
それは市川が和田夏十を伴侶とし、彼女の脚本の話に入ってくるころだ。
和田がなくなる前、最後に手伝った脚本が「細雪」というのは知らなかった。
「細雪」を含め、市川の作品はいわゆる文芸大作、つまり有名作家原作のものが多い。それも主人公の女性に存在感があるものが多く、市川の描き方も岩井がいうようにエロティックより性的な方にいっているようだ。これは断片的に出てくる多くの作品の場面からもよくわかる。
それにしてもこれらに出てくる当時の女優たちに比べると、その後の女優たちはより中性的に見えてくる。
こうしてみると、岩井俊二が描く女性はもっと若く、大人になっていない年代だが、表面のさらに下層への入り方、見方では、市川崑と共通するところがある。それが岩井が市川に引きつけられ続けた所以だろうか。
「情痴 アヴァンチュール」(Une Aventure 、2005年、仏・ベルギー、107分)
監督:グザヴィエ・ジャノリ
リュディヴィーヌ・サニエ、ニコラ・デュヴォシェル、ブリュノ・トデスキーニ、フロランス・ロワレ=カイユ
リュディヴィーヌ・サニエだから見た映画。同棲しているカップルが引っ越してきて、夢遊病らしい女(サニエ)を見かけ、男の方が気になりだしその世界に引き込まれていく。タッチはフィルム・ノワール風、男がビデオテークに勤めていて、それがこの話と事件を説明していく小道具のようになっている。
しかしフィルム・ノワールといってもそれ風であって、それほど暗さも、ドラマもあるわけではないので、最後どうなるのかと思って見ているうちに、二人の間に恋愛というほどのものが生まれもせず終わってしまった。こういうムードを味わってくれとでもいうのだろうか。ぜひともと人に勧める作品ではない。
サニエは「スイミング・プール」ほど迫ってくる強さがある役でもないし、「8人の女たち」ほどドラマ進行の中心にいるわけではないけれど、彼女という配役だからという作品にはなっている。
フランス映画では、こういうポジションの椅子が一つあって、20年くらい前はソフィー・マルソーだったかなと思われる。もっとも二人ともセクシーだけれど、ファム・ファタルとしての感じは随分ちがう。ソフィー・マルソーの方が表面的なかわいさがあるとでも言ったらいいだろうか。サニエの方はちょっと近づきがたい。
それにしてもこの邦題はないだろう、アヴァンチュールだけでよかったのに。
「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」(Môme, La 2007仏・英・チェコ、140分)
監督:オリヴィエ・ダアン、撮影:永田鉄男
マリオン・コティヤール、シルヴィー・テステュー、ジェラール・ドパルデュー、ジャン=ピエール・マルタンス、マルク・バルベ
エディット・ピアフ(1915-1963)の生涯を、比較的短い場面をつなぎ合わせて作ったもの。初めは幼児と死の少し前、そして二つの時間が次第に近づいてきて、中盤からは、歌そして愛したボクサーとの話が中心となっている。
貧しい不幸な生まれと育ち、そしてどうにもならない人生、男そしてくすり、「でもいつも彼女には歌があった」というのはよくある表現である。古今東西ある。ちなみに彼女とビリー・ホリデイは同年の生まれだそうで、映画の中でピアフがそう言っている。
まさしくそうなのだけれど、でもそれはたとえようもなく孤独でつらいものではないだろうか。どんなになっても歌はあり、彼女の歌は皆が絶賛する。それがなんだろう、愛する男は死んでしまった、、、
それを象徴するように、中盤の成功を勝ち取る舞台のシーンで、ダアン(監督)は彼女の歌の部分だけをサイレントにする。細工が過ぎるともいえようが、映画全体から見れば見事だ。
ピアフのマリオン・コティヤール、メイクもそして確か小柄なピアフそっくりに見せるため演技、カメラも工夫したのだろうが、なりきっている。そのコティヤールをドキュメンタリー式に撮って編集した映画、のように見える。
それでも、これでオスカー取ったのも、悪くはない。
恋人のボクサー役ジャン=ピエール・マルタンスが、うまいとかどうとかいうよりいい男である。こういうのは配役の妙である。
有名人も出てくる。マレーネ・ディートリッヒ、雰囲気が出ている。
そして、戦時の出征前日にピアフに曲を持ち込む兵士、晩年に来た若いシャルル・デュモン、こういう人はたくさんいたのだろう。それを一応きいてあげるのは、女性の大歌手が若い男性の歌手や作曲家を見出し、サポートしたといわれていることを実証している。彼女たちは彼らを恋人にしていたことも多かったらしいが、そうして多くの才能は世に出た。
この映画でも、フィナーレ近くで、よろよろの状態でようやくオランピアに立ったピアフが歌うのは、シャルル・デュモンがそうして持ち込んだ「水に流して」だ。
ピアフは随分老いた姿のイメージがあるけれど、40代で死んでいるのは意外であった。
それにしても、1960年代~1970年代、つまりLPの時代は、シャンソンのアルバムもたくさん紹介され、耳になれた曲も多かった。この映画の時代はその少し前、この時代のフランス語は心地よい。
「近代日本の巨匠たち」 出光美術館(丸の内)(9月6日~10月26日)
出光コレクション(丸の内、門司)によるもので、日本美術のなかでもかなり渋い趣味という印象をもっていた館の展覧会としては、興味を持って見ることが出来た。
上村松園、月岡芳年の数枚を見ていると、日本画、特に女性を描いたものは欧州のものとは根本的にことなり、またそれがいい、ということがよくわかった。
つまり、写実でもなく、決まった寓意があるのでもなく、おそらく現実に観察はするものの、描いている中で理想のかたち、姿を見つけるということなのだろう。こちらも絵をみる以外になく、短い言葉で説明できるものではない。
先日とりあげたミレイ展、後期のいくつかにも決まった絶妙なポーズと表情があるけれど、こちらはタイトルなど言葉がずばり対応するものだ。
上村松園ではポスターにもある灯(1937)もいいが、若いころ(明治時代)の四幅対の春夏秋冬は、そういうプロセスの中にも勢いがあって見事である。
張果像(平櫛田中)はなんとも形容しがたい。見てまさに、この仙人はそうなのか、と納得するしかない。
富岡鉄斎もこうしてまとめてみると、豪快から融通無碍、ユーモアまで、よくわかるし、落款の斎の字が同じでないのも面白い。
陶磁は板谷波山と富本憲吉の対決ともいうべきもので、名前は知っているもののこれまであまり注意して見てこなかった二人の対照が、理解できた。
どうも富本は折衷に留まっているという印象が最後までぬぐえない一方、板谷は一つの世界を作り出した、近代では大変な作家の一人という観がある。
併設の仙厓展はコースの途中に組み込まれている。いくつかは写真で見たことがあるこのほほえましい墨絵、ここで一休みもできて、いい企画だった。