「仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か」魚川祐司 著 2015年4月 新潮社
私は宗教についてはおそらく日本人の平均で、家族の葬儀は仏教、結婚式はたまたまキリスト教、初詣では神社である。無宗教といえばそうであろう。
それでも、生き方や世界観、人との付き合い方などについては、仏教やキリスト教の一部を知っているし、影響を受けていることは確かである。また年齢とともに、神道というものも、これはなかなか味わい深いものだと考えるようになった。
さて仏教だが、経典を直接読んだことはなく、関連書籍についても人生論的なやさしいものを少し読んだ程度である。それよりも法事などでお経のあとに僧侶が語る法話が印象深い。
ところが本書を読み進むにつれ、仏教のこういう側面はゴータマ・ブッダの教えからはかなり隔たった、時間とともに派生していたものからきているということはすぐにわかった。ゴータマ・ブッダが目標としたものは悟り、つまり解脱・涅槃である。それは生きている衆生にとって現実には不可能だがそれに向かって修行をする、というものではなく、まさにその実現に向かっていくものであり、現実にブッダが、そしてその後に多くの修徒がそれを得た、ということである。
それにはどういう認識が必要であり、どうなったらそうなるのか、ということがここで述べられている。出てくる用語は個々に説明されているけれども、かなり多いから読み進むうちにわからなくなることが多い。それでも大筋の論述を誤って理解してはいないと思われる。それは著者が懇切丁寧に書いているからであり、経歴を見ると1979年生まれという若い人だが、初めに西洋哲学を学んだということから、今の我々にもわかりやすい文脈になっているのだろう。
こうして読んでみると、著者も書いているように我々が親しい大乗仏教と、あの黄色い服を着て若いころに多くの人が修行に入るミャンマーやタイの仏教(いわゆる小乗仏教)のちがいもよくわかってくる。大乗仏教は、結果として、広がりを持って多くの人たちに共通の影響を与えてきたし、「論語」などのような人生の指針としての役割を果たしてきた。
それに対し、ゴータマ・ブッダの教えというのはあくまで「悟り」を目指す個人への指針であり、ここでも語られているように「修行を積んだからと言って人格がよくなるものではない」そうだ。
だからといって、大乗仏教にも共通する「世間」における欲や迷いからの脱却というか、そういう一般の修行が否定されているわかではなく、それらは「悟り」に至る過程でやはりそうあった方が、周囲との関係などで、良いということである。
本書は私にとってなかなかない衝撃だったが、その上で、今後法事など落ち着いてつきあっていこうと考えている。また本書を読めば、今もときどき出てくる仏教系のカルトなどについてこれも落ち着いて判断できるだろう。
ところで本書でも語られているように、ゴータマ・ブッダの教えに近い修行が行われているのは一にミャンマーのようだが、私の子供ころはここはビルマと呼ばれており、「ビルマの竪琴」(竹山道雄)はその映画とともによく覚えている。確か学校から見に行ったように思う。大戦で捕虜になった上等兵の話で、おそらくかの地の僧侶の姿(映画の中ではあるが)を目にした最初であろう。
私は宗教についてはおそらく日本人の平均で、家族の葬儀は仏教、結婚式はたまたまキリスト教、初詣では神社である。無宗教といえばそうであろう。
それでも、生き方や世界観、人との付き合い方などについては、仏教やキリスト教の一部を知っているし、影響を受けていることは確かである。また年齢とともに、神道というものも、これはなかなか味わい深いものだと考えるようになった。
さて仏教だが、経典を直接読んだことはなく、関連書籍についても人生論的なやさしいものを少し読んだ程度である。それよりも法事などでお経のあとに僧侶が語る法話が印象深い。
ところが本書を読み進むにつれ、仏教のこういう側面はゴータマ・ブッダの教えからはかなり隔たった、時間とともに派生していたものからきているということはすぐにわかった。ゴータマ・ブッダが目標としたものは悟り、つまり解脱・涅槃である。それは生きている衆生にとって現実には不可能だがそれに向かって修行をする、というものではなく、まさにその実現に向かっていくものであり、現実にブッダが、そしてその後に多くの修徒がそれを得た、ということである。
それにはどういう認識が必要であり、どうなったらそうなるのか、ということがここで述べられている。出てくる用語は個々に説明されているけれども、かなり多いから読み進むうちにわからなくなることが多い。それでも大筋の論述を誤って理解してはいないと思われる。それは著者が懇切丁寧に書いているからであり、経歴を見ると1979年生まれという若い人だが、初めに西洋哲学を学んだということから、今の我々にもわかりやすい文脈になっているのだろう。
こうして読んでみると、著者も書いているように我々が親しい大乗仏教と、あの黄色い服を着て若いころに多くの人が修行に入るミャンマーやタイの仏教(いわゆる小乗仏教)のちがいもよくわかってくる。大乗仏教は、結果として、広がりを持って多くの人たちに共通の影響を与えてきたし、「論語」などのような人生の指針としての役割を果たしてきた。
それに対し、ゴータマ・ブッダの教えというのはあくまで「悟り」を目指す個人への指針であり、ここでも語られているように「修行を積んだからと言って人格がよくなるものではない」そうだ。
だからといって、大乗仏教にも共通する「世間」における欲や迷いからの脱却というか、そういう一般の修行が否定されているわかではなく、それらは「悟り」に至る過程でやはりそうあった方が、周囲との関係などで、良いということである。
本書は私にとってなかなかない衝撃だったが、その上で、今後法事など落ち着いてつきあっていこうと考えている。また本書を読めば、今もときどき出てくる仏教系のカルトなどについてこれも落ち着いて判断できるだろう。
ところで本書でも語られているように、ゴータマ・ブッダの教えに近い修行が行われているのは一にミャンマーのようだが、私の子供ころはここはビルマと呼ばれており、「ビルマの竪琴」(竹山道雄)はその映画とともによく覚えている。確か学校から見に行ったように思う。大戦で捕虜になった上等兵の話で、おそらくかの地の僧侶の姿(映画の中ではあるが)を目にした最初であろう。