うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0500. 悪魔の陽の下に (1987)

2018年09月01日 | カンヌ映画祭パルムドール

悪魔の陽の下に / モーリス・ピアラ
98 min | France

Sous le soleil de Satan (1987)
Directed by Maurice Pialat. Novel by Georges Bernanos. Scenario by Sylvie Pialat, aka. Sylvie Danton. Adaptation by Maurice Pialat. Cinematography by Willy Kurant. Film Editing by Yann Dedet. Music by Henri Dutilleux. Costume Design by Gil Noir. Performed by Gerard Depardieu, 1948- (Donissan), Sandrine Bonnaire, 1967- (Mouchette), Maurice Pialat (Menou-Segrais).


https://www.youtube.com/watch?v=fMf2JXuWgas

なぜ20世紀も末近くになってあえてベルナノスを扱ったのだろうという微妙な違和感がさきに立って、なんとなく手が出ないままだった作品のひとつ。ベルナノス(1888-1948)は第一次大戦前にすでに成人していた世代にあたる。そういう、19世紀の心性を持つ人びとにとってこそみえた20世紀の衝撃というものがあったと思う。第一次大戦の巨大な虚無をへたのち、人はどのような神をいだき得るのかという問いがある書き手をとらえたとすれば、それはあの時代固有の神学文学としての様相を帯びることになる。とくにこの小説の場合、1930年前後でなければ成立しなかったのではというくらい微妙な内的均衡のうえにある。原作は1928年。20世紀の社会観が浸透しつつ、まだ前世紀の集合的記憶が漂っている。第一次大戦の傷のなまなましさはある程度薄れている。しかしまだあの未曾有の第二次大戦はその影を濃くしていない。そうした奇妙なエポケーというか、中有の気配のただなかに、おそらくは魔が訪れる。ベルナノス自身、こののちは政治と戦争の渦に巻き込まれてしまう。つまりそのような構えの作品を1987年に映像化してあらたに問いなおす本質的なアクチュアリティーはどこにあったのだろうか、と。とくに教会内はまったく19世紀のままなのだ。よく知られるとおり、その遠大な時代錯誤に生きつづけるカトリック教会のカテキズムがある程度でも刷新されるには1960年代初頭まで待たなければならない。

でも今回、映像版を観て思った。制作・監督したモーリス・ピアラは、ひょっとするとサンドリーヌ・ボネールにふさわしい主演作はないかと探した結果、これを選んだだけなのかもしれない。あくまで想像にすぎないが、そう思うと、なんだかすとんと気が抜けた。もしそうなら、それこそホーソンでもプルーストでもベルナノスでもいい。当時のボネールならできる。彼女はこの4年まえ『愛の記念に』(1983)で主演デビューをしていて、手がけたのはやはりピアラだった。あれも作り手が被写体に惚れぬいたとしかいいようのない作品で、痛ましいほど存在感のある少女像がいまもスクリーンに残されている。1970年代のアジャーニ、1980年代のボネールというのはそのくらい稀有な素材だった。


https://www.arte.tv/sites/olivierpere/2018/07/03/soleil-de-satan-de-maurice-pialat/

制作の背景はどうあれ、この映像版も、ドパルデューとボネールを観るつもりで臨めば固有の収穫がある。優れた俳優がもたらす造形の強度を手がかりに奥行きが引き出された一作になっていた。自分は神の恩寵を得たのか、それとも悪魔に弄ばれているのかと懊悩する司祭をドパルデューが演じている。ドパルデューは後年崩れていった寂しさがあるけれど、このときは凝縮された不可解性が伝わる名演だった。ボネールはここでもファムファタルとしての破滅的な少女像を担当している。

いっぽう、原作をとばして映像だけでどこまで通じるかという挑戦がむずかしいものだったことはまちがいない。(どこかでロベール・ブレッソンの『やさしい女』を連想した。あれもドストエフスキーの文体がもつ内的な手ざわりが重要な作品だったと思う)。このベルナノスの映像版は、結末を視覚的に昇華しきることができれば大きく説得力がちがってきたろう。あきらかにそこは弱い。なぞりすぎている。でも時空の広大さが記憶にのこる、印象的な作品だと思います。ある問いかけが響けばそれでいいというときがあるのではないだろうか。1987年カンヌ映画祭パルムドール。審査員長は(なんと)イヴ・モンタン。ほかにノーマン・メイラー、アンゲロプロスなどが入っている。第二席はテンギズ・アブラゼの『懺悔』だった。なおボネールは二年前の1985年にはアニエス・ヴァルダの『冬の旅』に主演していて、そちらはヴェニスで金獅子賞を得ている。



メモリータグ■コスチュームドラマなのですが、意外なことにボネールの衣装はソニア・リキエルと記されている。Imdbにはクレジットされていない。






0499. アンダーグラウンド (1995)

2018年08月25日 | カンヌ映画祭パルムドール

アンダーグラウンド / エミール・クストリッツァ
2h 50min | Federal Republic of Yugoslavia | France | Germany | Bulgaria | Czech Republic | Hungary

Underground (1995)
Directed by Emir Kusturica. Story by Dusan Kovacevic. screenplay by Emir Kusturica. Cinematography by Vilko Filac. Film Editing by Branka Ceperac. Music by Goran Bregovic. Performed by Predrag 'Miki' Manojlovic, as Miki Manojlovic (Marko), Lazar Ristovski (Crni, aka. Blacky), Mirjana Jokovic (Natalija), Slavko Stimac (Ivan).


いずれもhttps://www.imdb.com/title/tt0114787/

デジタルリマスター版。原作はあるらしいけれど、陸地が切り離されて川に漂い始める有名なエンディングまで、長い長いユーゴスラヴィア叙事詩がくり広げられる。歴史から消えていったひとつの国が、かつては在ったのだということを、この作品はのちのちまで語り伝えたかったのだろう。その願いはかなえられた。1995年カンヌ映画祭パルムドール。『パパは、出張中!』の受賞から10年後にあたる。二度受賞した監督は少ない。

戦争で地下に隠れ住んだ人びとが、第二次大戦が終戦したことを知らされないままそこで武器を作りつづけるという奇想を核にしたこの作品で、親友たちをだましつづけてその武器を売り、成功していく男のほうが主人公におかれる。変転をくり返す社会のなかで武器の買い手がつぎつぎに変わっていくことが、あの地域の悲劇的な戦闘の連鎖を告げるものになっていた。それでも表現はコメディであることを貫いていく。

愛する者も、憎む者も、最後は死後の彼岸で一堂に会してなごやかに結婚式を祝う。数十年を暗い地下で生き、なにが真実かを知ることなくそこで死んでいった作中の人びとは、晴れやかな空をもちえなかったあの地域の多くの民の現実を象徴していたと思う。だからあの最終場面は青い空を眺め、すべての憂いから切り離されて土を踏みしめられる時空でなければならなかった。ドナウに漂っていくちいさな国土は、永遠のヘテロトピアである。



冒頭、第二次大戦でセルビア市街がドイツ軍に空爆を受けて、動物園の動物たちが街なかにさまよい出る。象やライオンが住宅街を歩くこの場面がまずもうすばらしい。重要な登場人物のひとりがこの動物園の飼育係で、彼はこののち救出したチンパンジーを親友として無邪気に地下で生きていくことになる。魅力的な人物描写だった。欧州の地下を縦横に貫くあの通路はどこまで実在しているのだろう? 

あふれ出す幻想をつむぎながら、夢見る卑怯者の喜劇として、あの地域の騒乱の半世紀が示唆される。三十代から四十代にかけて三大映画祭でほぼ連続受賞を果たした「クストリッツァ伝説」を代表する大作になった。重労働をやりとげた俳優のみなさん、ほんとうにおつかれさまです。

クストリッツァのおもな受賞暦:
『ドリー・ベルを憶えている?』(1981) ヴェネチア映画祭新人監督賞(長編第一作)
『パパは、出張中!』(1985) カンヌ映画祭パルムドール
『ジプシーのとき』(1989) カンヌ映画祭監督賞
『アリゾナ・ドリーム』(1993) ベルリン映画祭審査員大賞
『アンダーグラウンド』(1995) カンヌ映画祭パルムドール
『黒猫・白猫』(1998) ヴェネチア映画祭最優秀監督賞




メモリータグ■地底の井戸に飛び込んだ花嫁は死者として海に漂い出ていく。海辺で溺死した新郎と、彼女は水底で再会する。二人は幸福そうに手をとりあう。誰もが死ぬ。そこで物語を終えることのできない愛情深い喜劇作家が、多くの映画人に愛されたことは心から理解できる。


 

 


0498. パパは、出張中!(1985)

2018年08月18日 | カンヌ映画祭パルムドール

パパは、出張中! / エミール・クストリッツァ
2h 16min | Yugoslavia

Otac na sluzbenom putu (1985)  aka. When Father Was Away on Business
Directed by Emir Kusturica, 1954 in Sarajevo-. Screenplay by Abdulah Sidran. Cinematography by Vilko Filac. Film Editing by Andrija Zafranovic. Music by Zoran Simjanovic. Performed by Moreno D'E Bartolli (Malik), Predrag 'Miki' Manojlovic (Mehmed Mesa Zolj), Mirjana Karanovic (Senija Sena Zolj), Mustafa Nadarevic (Zijah Zijo Zulfikarpasic), Mira Furlan (Ankica Vidmar).


いずれもhttps://www.imdb.com/

クストリッツァによる「ユーゴスラヴィア歴史もの」の原点にあたる。発表は1985年、クストリッツァはまだ31歳で、1950年から2年の間にサラエヴォに生じた急速な空気の変化をマリクという幼い少年の目から描いている。20世紀なかばのイタリアの新現実主義などを思わせるクストリッツァの擬古的な映像スタイルはすでにここで徹底されていて、ちょっと驚いた。この作品の場合、設定された時代とその古風な文体がよく合っていて、回顧的な効果を上げている(実際の作品はカラーです)。この人の感性には『自転車泥棒』(1948)や『鉄道員』(1956)のような世界がほんとうに性に合っていたのかもしれない。なんというか、ヌヴェルヴァーグ以前の古き良き映画の空気です。



チトー体制下でふと口にした体制批判を密告され、鉱山の奉仕労働に送られていく父親を、母親は「出張中」と言いつくろう。だが子供たちは事実を知っている。残された母親は自宅で縫製をして家計を支える。けれど子供のまなざしは愉快で柔軟だ。コメディまであと一歩というこのユーモアが、のちの『アンダーグラウンド』で自覚的に追求されることになったのだろう。エネルギッシュで盛りだくさんな内容は、自国で起こった劇的な変化だけではなく、「人間」をえがきたいという総合芸術的な真剣さからきているようにみえた。愛情深い作り手だ。俳優はクストリッツァの常連たち。1985年カンヌ映画祭パルムドール。審査員長はミロシュ・フォアマン。審査員大賞はアラン・パーカーの『バーディ』だった。下はクストリッツァ。



メモリータグ■祭日の場面でグライダーの披露飛行がみられる。女性のパイロットがかっこいい。グライダーの前でポーズをとるこのショットは、どこか宮崎駿さんの世界を思い出した。






0497. エッセンシャル・キリング (2010)

2018年08月11日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

エッセンシャル・キリング / イェジー・スコリモフスキー
83min | Poland | Norway | Ireland | Hungary | France

Essential Killing (2010)
Directed by Jerzy Skolimowski, 1938-. Screenplay by Jerzy Skolimowski and Ewa Piaskowska. Additional Writing by James McManus. Cinematography by Adam Sikora. Film Editing by Reka Lemhenyi and Maciej Pawlinski. Music by Pawel Mykietyn. Performed by Vincent Gallo, USA (Mohammed). Emmanuelle Seigner (Margaret).


いずれもhttps://www.imdb.com/


プロットが力強い。映像が美しい。いい映画でした。

全体の基調色は白かもしれない。冒頭は、白い岩石がどこまでもひろがる岩盤と渓谷地帯。やがて白い雪の森で主人公の逃走が始まる。透明な氷が張った白い川べり。主人公の白いアウター。終盤で白馬の首にしたたる鮮血。

惜しげなく短めにカットを仕立てて淡々と重ねていくリズムが厳しさと迫力につながった。(何度か挿入される一連の風景描写だけは一枚ずつがあと2秒くらい長いほうが集中できた気がする。でも小さなことです。一枚ずつに、はっと目をとらえる鮮烈さがある)。

全体は逃走劇をなしている。アフガニスタンで一人のイスラム兵が米兵たち三人を対戦車砲で迎撃し、米軍にとらえられる。状況からみるなら彼はタリバーンなのだろう。このタリバーン兵は拷問を受けたのち護送され、途中で車が転落したことから森に駆け込む。そこからは、陰惨で凶暴で悲しい逃走のありさまがひたすらえがかれる。それだけで、映画はじゅうぶん成立する。個のおこないにおける善悪の正否をこえて、戦時という暴力の内部で極限の状況におい詰められていく生命の切迫をただ表現していた。いくどか現れる幻影が詩的だった。

(主人公の過酷な状況と冬の森の美しさという対比については、観終わってから思わず確認してしまった。2015年の『レヴェナント』よりこちらのほうが5年も前です。)

印象的な挿話が精選されている。動物たちが道路に現れて護送車がハンドルを切り損なう、流れるような自然なプロセス。チェーンソーで相手を押しつける主人公の死に物狂いの動き。

主人公に台詞はない。なにが主題であるかについても、その理解は観客にゆだねられている。ここで一人のタリバーン兵は、敵に直接手をくだされて死ぬわけではない。けれど大規模軍に捕らえられ、拷問され、追われ、狩られ、逃げながら飢え、ずぶ濡れで凍え、いくつもの重傷を負いながらなお逃げつづけること以外に選択肢のないとき、それは本質的には殺されているというしかない。――エッセンシャル・キリングである。2010年ヴェネチア審査員特別賞。あわせてシネマヴニール賞。さらに主演男優賞をヴィンセント・ギャロが得て三冠受賞をはたした。この授賞は、アフガンに介入したアメリカの姿勢に対する冷静な批判としても成立している。監督したイェジー・スコリモフスキーは1938年生まれのポーランドの映像作家、審査員長はクェンティン・タランティーノだった。第一席はソフィア・コッポラの『Somewhere』。



メモリータグ■主人公は森で蟻を食べ、木の皮を剥いて食べる。人里に近づくと、自転車の女性が雪道で転ぶのを目にする。彼女は乳児を抱いていて、転んだまま、その道端でお乳を飲ませはじめる。主人公は銃をつきつけて、彼女の乳を貪り飲む。彼は飢えきっている。釣り人のかたわらからは生の魚を奪って逃げ、逃げながら生魚を貪る。






0496. 私の、息子 (2013)

2018年08月05日 | ベルリン映画祭金熊賞

私の、息子 / カリン・ピーター・ネッツァー

Pozitia copilului (2013)  aka. Child's Pose
Directed by Calin Peter Netzer. Screenplay by Razvan Radulescu andCalin Peter Netzer. Cinematography by Andrei Butica. Film Editing by Dana Bunescu. Performed by Luminita Gheorghiu (Cornelia Keneres), Bogdan Dumitrache (Barbu),
Natasa Raab (Olga Cerchez), Ilinca Goia (Carmen). Adrian Titieni (Child's father).


https://www.imdb.com/title/tt2187115/mediaviewer/

これ、コメディーにするほうがよかったかもしれない。富裕で支配的なママが、二十代の一人息子を溺愛してべったり私生活を侵襲しつづけるという基本設定で、このママが主役にすえられている。平凡な母子依存の描写がひとつひとつ重ねられるうち、息子が無謀な追い越し運転をして十四歳の貧しい少年をはねてしまい、悲惨な死亡事故を起こしたことが伝えられる。ママはお金と人脈を総動員してもみ消しに奔走する。それがプロットです。

あいにくこのママに、最初から最後まで人格的変化はない。社会的境遇にも変化がない。この一家の利己的な言動に対する倫理的批判もない。え、じゃいったい主題はなに? うーん、最後に息子がすこしだけ精神的自立への萌芽をみせること、でしょうか。やれやれ。

ね、どたばたコメディーにでもしないとつらそうでしょう? はい、つらいものがありました(涙)。だってこれをひたすらまじめにえがくんだもの。でも脚本のダイアローグは優れている。交通事故の概要は人びとの口から断片的に語られて少しずつみえてくるようになっていて、観客の想像にゆだねる構成をとっている。家族を主題にしたいかたには参考になるだろう。演出はふつう。映像はとくに印象に残るものはない。総合的にみれば人間性のリアリティーが出ていて悪い作品ではなかったけれど、独創性は感じなかった。

この場合は脚本に社会的な批判の視点を導入するという選択肢もあったろう(いいかえれば、めずらしくそれがないのです)。両親が必死で画策することは違法な行為ばかりで、たとえば警察の上層部から手を回して調書を閲覧したり、証拠を隠蔽したりする。息子は大幅なスピード違反をしていたという現場証言をお金で撤回させようとこころみたりする。それなら一連の画策が手のつけられない泥沼に落ちて一家が身動きできない社会的状況に追い込まれるという展開のほうが説得はしやすかった。なにしろ、ちぎれ飛んでしまったほど損傷の激しい少年の遺体を検視する医師が、なんと当のどら息子の父親だったりする。殺害者の親が検死医? ル、ルーマニアすごい。ここがいちばん斬新だった。ただし、それらに対する批判のメッセージはみえない。

学校終わった、いまから帰るね、とモバイルで家にメッセージを送った十四歳の少年が、遺体になって戻ってきた。明日が葬儀というその死者の親にむかって、うちの息子を助けてくださいと殺害者の母親が泣く。その姿をつうじて制作者が訴えたかったものはなんだったのだろう? 倫理性をこえた「愛情」かしら? たしかに現代の映像界はときに政治的妥当性という掟に過度に縛られてみえることがある。そして掟破りはアートの掟でもあります。でもわたしはあまり説得されなかった。

ひとつにはキャスティングやスタイリングがちぐはぐで、視覚的に共感を持ちにくかったためもあると思う。まず母親と息子の取り合わせがしっくりしない。息子のスタイリングはどちらかというと貧困層にみえてしまう (下の写真)。母親を熱演したルミニツァ・ゲオルギウは力のある俳優だと思うけれど、ここでは下品な金満家にみえて、知的な職業人という設定どおりにはみえない(ルーマニアの富裕層表現は、いまだに毛皮のコートなの? その時代錯誤ぶりまで計算されていたとは思えないのですが。とにかくこのママは建築家で、オペラの舞台装置も手がけたりしている著名な知識人という設定です。でもちょっとなじまなかった。上の写真の右の女性です)。



手がけたカリン・ピーター・ネッツァーはルーマニアの男性監督で、原題は「胎児姿勢」らしい。なるほど。胎児なみの息子のほうはいっしょに暮らす恋人がいるものの、経済的にも精神的にも共依存の母子関係から脱していないまま、両親には暴言を浴びせつつ広いマンションを与えられて大学院に在籍している。最終場面で訪れる彼の小さな「自立」は、自分が殺してしまった少年の父親に自分でわびるという行為で、これがクライマックスになる。バックミラーに映る二人のやりとりは車の中で待っている母親の視点に立っていて、このアングルは順当だった。ただ、ずいぶんあっさり和解できてしまう。最初はママが一人で遺族に訴えるあいだ、息子はママの車の後部座席という「子宮」に隠れていたのですが。

遺族とどら息子が和解しかけて母親が安堵した最後の瞬間、どら息子がすっと刺し殺されるというほうが帰結として本質的だった気がする。わたしならそうした。それが正義だからということではなく、深く哀れな何かが心に残った気がするのです。

家族の相克という主題は20世紀後半の一流作家たちが手がけたそうそうたる系譜のある領域で、あとからやってきたこの類似作品が少し古めかしくみえるのはしかたがない。それでも2013年のベルリン映画祭で金熊賞を得ている。審査員長はウォン・カーウァイ(王家衛)、『恋する惑星』『ブエノスアイレス』(カンヌ監督賞)などを発表している。

第二席は『鉄くず拾いの物語』だった。そちらはボスニア・ヘルツェゴヴィナの少数民族家族が陥る困難の実話で、すくなくとも「国際社会への訴求と歴史の証言」という点では価値に客観性があった。手法も一眼レフの動画機能だけ、俳優は素人という挑戦的なものだった。とても地味な作品ではあれ、いっそあちらを一席にするほうがむしろ映画祭の存在理由を鋭くアピールできたかもしれない。結果的にやや迷ったような平凡な選択になった。この第一席作品、あってもいいけど、なくても誰も困らないわよ――。有名映画祭の方針にはじつにきわどいものがある。

なんであれ、小さい出品作が多い年だったのだろう。ちょっとナンニ・モレッティの『息子の部屋』を思い出しました。2001年のカンヌの第一席で、あれもずいぶん幸運な受賞例だった(二席はハネケ『ピアニスト』)。

参考:この2013年、カンヌの一席は『アデル、ブルーは熱い色』、二席は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』だった。ヴェネツィアの一席は『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』、二席が『郊遊 <ピクニック>』。(この『郊遊』だけは残念ながらいまのところヴィデオを入手できずにいます)。

 

 

 


0495. ノクターナル・アニマルズ (2016)

2018年07月28日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

ノクターナル・アニマルズ / トム・フォード
116 min USA

Nocturnal Animals (2016)
Directed and screenplay Tom Ford, 1961-, based on a novel by Austin Wright. Cinematography by Seamus McGarvey. Film Editing by Joan Sobel. Music by Abel Korzeniowski. Art Direction by Christopher Brown. Set Decoration by Meg Everist. Costume Design by Arianne Phillips. Performed by Amy Adams, 1974- (Susan Morrow), Jake Gyllenhaal (Tony Hastings / Edward Sheffield), Michael Shannon (Bobby Andes), Armie Hammer (Hutton Morrow), Aaron Taylor-Johnson (Ray Marcus), Laura Linney (Anne Sutton).



脚本も演出も巧みで、原作を読んでみたくなりました。監督と脚本にクレジットされているトム・フォードはあのデザイナーのトム・フォードで、2009年にコリン・ファースの主演で『シングルマン』を手がけたのが映像作家としての第一作にあたる。多角的な才能の持ち主で、今回、オープニングに使われた巨体の女性たちのダンスやキュレーションも集中力があった。

全体は枠構成で、美術館の館長をつとめる主人公スーザンの現在が外枠としておかれ、彼女が読む小説が枠の内側で進行する。この作中小説が進展するうち、さらにスーザンの過去の記憶が重なってくる。とくに小説部分の提示部がシンプルで力強く、一流の演出力を証明するものになっていた。田舎の自動車道を夜中に車で通っている夫婦と娘の三人一家が、無頼な男たちの車につきまとわれて脅され始める。この小説を書いて送ってきたのはスーザンが二十年前に捨てたかつての夫で、小説のなかで恐怖に震える妻と娘を、スーザンと酷似した容姿の俳優が演じることで重なり合いが表現される。



タイトルのノクターナル・アニマルズが無頼な男たちを指すと考えることはほとんど明示的だろう。けれど同時に、それは二十年前のスーザン自身の愛称でもあったという。自分の才能を信じる人生とそこに広がっていたはずの可能性を抹殺し、それをつうじて夫を孤独と絶望に陥れたのがかつてのスーザンだとすれば、届けられた同名の小説の顛末は復讐をかねることになる。

主役はエイミー・アダムズとジェイク・ギレンホールが担当し、大学院生当時と、その二十年後が描かれていた。最終場面の、いかにも老けた若作りが残酷でよかった。

この作品は2016年のヴェネチア映画祭で審査員大賞を得ている。これは理解できる。ただ、第一席がラヴ・ディアスの『立ち去った女』で、この組み合わせをどう評価するかはすこし解釈力がもとめられる。キャストや予算など制作体制の差を除外して脚本と演出だけで評価するとしても、『ノクターナル・アニマルズ』のほうがはるかに力量は高いからだ。作品じたいが秀作というだけでなく、映像作家としての知性や判断力にそうとうな差があると思う。

あえて『ノクターナル・アニマルズ』の弱点を挙げるなら、やや洗練されすぎてスマートにまとめてしまった面はある。もう一歩突き抜けた根源的な「自己という恐怖」という不透明な深さには達していない。後半、ステレオタイプに陥りそうなあやうい瞬間はたしかにあるし、結末も、うまいと同時にやや弱い。主人公の自己認識が揺らぐという内面の変化が、外界の認識の揺らぎに投影されていくところまで追究しきることができていたら、すばらしかったろう。シンクロニシティーといえるような内外の奇妙な一致が起きて、人としての変容を遂げるところまでもっていけたら文句なしの傑作になった。可能性はあったと思います。

それでも『立ち去った女』の「人間的洞察」表現が学芸会のように幼いという弱点は残る。ううむ。これが困る。あえてなお、そちらを一席に取ったとすれば、その動機は想像するしかない。“だってね、ハリウッドのリソースをぞんぶんに流用できる世界的な有名デザイナーにいまさら大きな賞はいらないよ、アジアの実験的映像作家を応援しようよ、そのほうが映画のためだろう?” オーケー、よろしいように。

審査員長はイギリスのサム・メンデス。『アメリカン・ビューティー』『ロード・トゥ・パーディション』のあの監督です。そう、資質としてはむしろトム・フォードに近い。メンデスは知的なことでは比類ない作家の一人だし、ハリウッドのスタイルは知り抜いている。パネルをみてもそちらの作品に有利な年になっておかしくないのに、よくこの選択をしたものだと思う。

第一席・第二席をどのように組み合わせたかは映画祭にまつわる興味深い主題のひとつで、近年の最極端事例が2014年のベルリン映画祭だということはいまのところ揺るがない。『薄氷の殺人』『グランド・ブダペスト・ホテル』という組み合わせだった(転倒感の凄さは今回の比ではない)。

あ・く・ま・で・一般論の仮説として提示するのだけれど――欧州有名映画祭はハリウッド系の男性映像作家に厳しくて、アジアの作家、女性の作家に寛大な傾向がある? ううむ。評価にあたって地域格差、文化的格差を補正する係数を掛けるという方針が(ときによって)導入されることがあるとしても、そこに一定の妥当性は感じます――たしかにハリウッドのリソースはメジャー過ぎる。



メモリータグ■大学院生当時のヒロインが、母親に結婚を宣言する場面。ワンシーンだけ登場するこのお母さんの造形が熟していて、衣装もヘアメークも演技もよく一致していた。保守的で共和党でカトリックで、ださくて大仰でお金のかかったアメリカの上流ママ。でも馬鹿ではない。「わたしはママと違うわ」と娘。「いいえ、あなたはわたしにそっくりよ」と母。

 


追記■オースティン・ライトの原作に目をとおしてみた。意欲的な長編文学だけれど文体の水準に波があって、うまくいっていない場所は説明的になっている。とくに結末の表現が映像版よりずっと弱くて通俗的に響いた。ところどころ内面をとおして外界がえがけている箇所は印象に残ります。でもこの長さを読ませるにはもう少しプロットか文体に迫力がほしいかなあ。作者のライトは文芸批評の大学教授で、1922年生まれ。この小説のクレジットは1993年だから70歳頃に発表したことになる。以前書いた作中作をもとに外枠をおいたのかもしれない。その執念につつしんで敬意を表します。

映像化したトム・フォードのほうは、この長大なまとまりにくい話から正確に本質をつかんでよく凝縮度を高めていることがわかった。原作者より、はるかにアーティスティックな切れ味が鋭い。主人公のスーザンを美術にかかわる人物と設定しなおして視覚表現の側面を強化したことで、映像作品としての美術的な水準の高さに貢献した。映像そのものも深みのあるダークな仕上がりで、オープニングはやはり秀逸です。




0494. サラエヴォの銃声 (2016)

2018年07月23日 | ベルリン映画祭審査員大賞

サラエヴォの銃声 / ダニス・タノヴィッチ
85 min France | Bosnia and Herzegovina

Smrt u Sarajevu (2016) aka. Death in Sarajevo
Directed by Danis Tanovic. Screenplay by Danis Tanovic based on a play "Hotel Europe" by Bernard-Henri Levy. Cinematography by Erol Zubcevic. Film Editing by Redzinald Simek Music by Mirza Tahirovic. Performed by Snezana Vidovic (Lamija as Snezana Markovic), Izudin Bajrovic (Omer), Muhamed Hadzovic (Gavrilo), Rijad Gvozden (Rijad).


http://www.filmneweurope.com/media/k2/items/cache/dd3090393623d0954a2996d4c2bd51ac_XL.jpg

いまボスニア・ヘルツェゴヴィナでは――と、なにも考えずにボスニアとヘルツェゴヴィナを連名で記してしまうわたし自身の無神経をこの作品は指摘してくれる。その連合体制そのものに苦しみ、どなり合う人びとがそこにいるのだ。ボシュニク、セルビア、クロアチア、民のあいだにはいまもなまなましい怨恨が漂い、かつて殺しあった人びとがおなじ都で呼吸している。勝手にひとつにくくるなよ。スクリーンの奥から誰かがそうささやく。

ある日のサラエヴォのホテルのできごとをいくつかの角度からざっくりえがくこの映画はフィクションだけれど、そこには歴史的対立にくわえて雇用者と労働者の階層的対立も持ち込まれている。ホテルの従業員はストライキを企画しているのだ。給料が未払いなのである。ところが今日はホテルでEUの重要な式典があって、それもあの1914年のサラエヴォ事件から百年がたつ記念だというのだから、そういう、歴史の遺恨と現代資本主義社会の憤怒という二つの軸が物語をなしていく。

ホテルの地下では従業員たちが決起集会を開いている。ホテルの屋上ではサラエヴォの歴史がインタビューされている。インタビュイーとインタビュアーは民族抗争の加害者・被害者の当事者で、激しい口論になっていく。


https://www.tiff.net/films/death-in-sarajevo/

フィクションがもつべきそれらの凝縮性をよく認識したうえで、結論は(ほぼ)知らん顔。ばっさりと切り捨てて終わってしまう。話の落としまえだって? そんなものは知らないね。この話がなにを示唆していたのかは、おまえ自身が決めるんだ。ひとつところに落とせる話にほんとの話なんかないんだよ。と、またしてもスクリーンの奥から誰かがささやく。そう、この声がダニス・タノヴィッチの真骨頂に違いない。気骨のある作り手だ――サラエヴォ育ちの。

終盤、もののはずみで狙撃が起こる。そのあっけなさが、百年前の「もののはずみ」を思わせる――もちろん意図的に。つまり、偶発的に撃たれてしまう青年は、あの1914年のサラエヴォで皇太子夫妻を狙撃した青年とおなじ名をもっているのだ。あの歴史的な狙撃さえ、事故というほうがふさわしいようなものだったかもしれないと告げてくる。

観終わって心に残るのは、カツカツと急ぎ足のパンプスを響かせて広いホテルを歩き回るコンシェルジュの女性の後ろ姿だ。それがヒロインである。彼女はけんめいに働いているに過ぎない。けれど二者抗争の板ばさみにされてしまう。それもまたもののはずみに近いのだ。「そんなつもりじゃなかった」。それがこの作品のメッセージかもしれない。2016年ベルリン映画祭審査員大賞(銀熊賞)。審査員長はメリル・ストリープ、金熊章はジャンフランコ・ロッシのノンフィクション『海は燃えている』だった。

サラエヴォ。いくつ映画が作られてきただろう、あの民を主題にしたさまざまな齟齬と悲劇と告発の系譜はすでに長い。二〇世紀の紛争はバルカンに始まり、バルカンに終わる? そう、ソンタグのその表現はまことに巧みだけれど、わたしたちがありありと思い浮かべることができるのは、むしろたった一人のサッカー人――イビチャ・オシムの表情かもしれない。

サッカーで「国の代表チーム」を編成するという発案ですでにもめ、どの民族から選手を選ぶかでまた紛糾する。ようやく選んだメンバーのうち、PKを失敗したのがどの民族の選手だったかで、もはや関係者の命があやういところまで紛糾する。そのような世界でひとつのチームをかつてまとめ上げた一人のフットボール指導者の、鋭い知性と思いがけないユーモア、それはわたしたちの知るサラエヴォの最高の顔でもある。日本サッカーを率いたアジアカップの最後のPKで、彼はロッカールームに隠れてしまったっけ。

あらゆるアナロジーは暴力的だが、たとえば1960年代頃に、極東四国から「代表選手」を選んでひとつのサッカーチームを作らなければならないとしたら、いったいどういうことになるだろう? 政治性を取り除くことなど不可能だ。誰かがPKを失敗したらと考えるだけでげっそりしてくるそのむちゃくちゃな妄想も、多民族間抗争を理解するには(ほんのすこし)助けになるような気がする。慰安婦と拉致と独立闘争、創氏改名と南京と38度線とあらゆる殺戮、阿鼻叫喚の傷がまだばっくりと口を開け、血を流しているひとつの場所で暮らす人びとが、いまも世界の各地にいる。そしてもちろんその経済はあやうい。この映画はその一日を、さくさくとした素描で見せた。もとになっているのはベルナール‐アンリ・レヴィの戯曲だそう。

途中、なかなかの冗談が出てくる。蛆虫の子供が父親に尋ねるのだ。「あの蛆は林檎のなかに住んでるし、あの蛆はお肉のなかに住んでるのに。ねえお父さん、どうしてぼくたちは糞のなかにいるの?」「ここで生まれたからだ」

聞いて思わず、わたしも自分に尋ねてしまった。「わたしたちは政治家の糞や原発の糞のなかに住んでいる。どうして?」「それしか知らないからだ」

するとタノヴィッチの声がこうささやいた――それは変えられることじゃないのか? 






0493. 立ち去った女 (2016)

2018年07月14日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

立ち去った女 / ラヴ・ディアス
3h 46min Philippines

Ang babaeng humayo (2016) aka. The Woman who Left.
Written, directed, cinematography and editing by Lav Diaz. Philippines, 1958-. Inspired Tolstoy's short story "God Sees the Truth, But Waits". Performed by Charo Santos-Concio (Renata), John Lloyd Cruz (Hollanda), Michael De Mesa (Rodrigo Trinidad), Shamaine Buencamino (Petra).


自我肥大と、現代映像制作の常識を踏まえない作風は注目を集めやすいだろう――といってもカメラを固定したままカットを割らず、えんえんと長時間作品にするという「作風」にすぎない。あいにくそこに説得力はないものの、ラヴ・ディアスの主張の強さは、非欧米圏の映像作家を支援する国際的な流れと結びつきやすい条件をもっているようにみえる。いいかえれば、そうみるしかない水準だった。この支援の潮流からはすばらしい作品も生まれているのに、残念です。

上映時間は四時間近い。モノクロの画像で語られる「お話」は緩慢でリアリティーに欠け、見始めてほどなく、ここまでにいくつかの受賞作があってこの制作費を得たのだろうと想像することになった。映画祭と名のつく催しが世界にどれほど膨大にあるかをを考えれば不思議でもなんでもない。トルストイの短編から着想を得たというけれど、その主人公の内的動機がとらえられていない。トルストイやドストエフスキーが短い文章のなかで書き上げる万華鏡のような内的起伏を視覚的に表現することの至難さに気づかず、はねかえされる映像作家は多いのです。

フィリピンの牧歌的な刑務所で三十年を過ごした女性主人公は冤罪が証明されて出所し、弱者に善行をほどこしながら心のなかでは復讐を考えているらしい。しかし、なんて慈愛に満ちた人だろうとくり返し賞賛される設定にしては、行方不明の長男を探すことに関心を示さず放置している。そこまでして復讐を優先する執念の出どころがえがけていない。心情をいちいち対話で説明するやりとりはアマチュア芝居のようだった。

映像表現そのものの美しさが積極的に追求されていたわけではない。長く回すなら長回しでなければ語れないものがなければならないのだ。ただ、それでもいくつかの風景には魅力があった。

多くの国際映画祭は非商業作品を積極的にサポートしている。そのぶん観る側に批評力がもとめられる。2016年ヴェネチア映画祭金獅子賞。やれやれ。第二席はトム・フォードの『ノクターナル・アニマルズ』、審査員長はサム・メンデスだった。ほかにジョシュア・オッペンハイマーなどが入っている。おそらくは不作の年だったのだろうという仮説をもちつつ、それを否定できるかどうかは第二席の作品を見てみるしかなさそうです。

ディアスの経歴をみるとヴェネチア映画祭で2007年、2008年にメインコンペティションとは別の部門で小さな賞を得ている。ヴェネチアが育ててきた作家の一人なのかもしれない。自信家ぶりはおもしろいけれど、この種の「おれは天才アーティスト」は商業映像の世界ではむしろめずらしくない。海千山千の人びとの集合体で自分語りを通す資質は十分だろう、どうぞそちらに行ってください。



メモリータグ■主人公が刑務所から戻っていく自宅の朽ち滅びたありさまは、過ぎ去った歳月を感じさせてよかった。大道の脇にあるひなびた民家の薄暗い室内には井戸がある。






0492. 海を飛ぶ夢 (2004)

2018年07月07日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

海を飛ぶ夢 / アレハンドロ・アメナーバル (aka. アメナバル)
125 min Spain | France | Italy

Mar Adentro (2004) aka. Sea Inside.
Direction, Film Editing and Music by Alejandro Amenabar, 1972-. Screenplay by Alejandro Amenabar and Mateo Gil. Cinematography by Javier Aguirresarobe. Performed by Javier Bardem (Ramon Sampedro).
Celso Bugallo (Ramon's Brother, Jose). Mabel Rivera (Hose's wife Manuela), Clara Segura (Gene, Coordinator of an organization for euthanasia), Belen Rueda (Julia, advocate), Lola Duenas (Rosa, neighbor), Joan Dalmau (Joaquin),


https://www.imdb.com/title/tt0369702/mediaviewer/rm2035563776

深く魂をつかんでいる。一人ずつの登場人物が現実そのもののような存在感をもって響き合い、調和していた。弁護士役の俳優だけは映画界から借りてきた美しいスターがていねいに演技をしているようにみえたが、彼女は映画に出演したのが初めてなのだという。その逆説が新鮮なほどだった。スペインの農家の家族を演じた五人の役者、かれらと接する数人の訪問者たち、それぞれの表情、演出、メーク、衣装選び、ほとんどドキュメンタリーのようにみえるほど成功している。アメナーバルが脚本を書いて監督し、編集、音楽まで手がけた。脚本ごと書き下ろした『アザーズ』(2001)で注目されてから、その三年後にあたる。今回の作品の公開時点でまだ32歳。海のように老成している。

原題は Mar Adentro(うちなる海)。もとになった手記があり、四肢が麻痺して寝たきりになった男性が、それでも満ち潮のように心にあふれるイマジネーションを失うことなく生きているさまを示唆した題だと思う。日本の公開タイトル「海を飛ぶ夢」もすてきでしたね。動けない主人公は強く死を望み、安楽死協会と連絡をとり、弁護士と会う。彼の人生の目標は、引き伸ばされた死を実現させることなのだ。知的なユーモアをたたえたこの主人公を、色気と品をもってバルデムが演じ切った。圧巻です。

この作品を、主題で区分することをしたくない。ああ、あの系列だね、とどうぞお思いにならないでください。それほど独自の小宇宙がここにはあって、一者の生は、ほかのいかなる生ともくらべることができないのだと思い起こさせてくれる。そしてそれこそが尊厳とよばれるものではないだろうか。そのことを確信して現場に臨んだにちがいないアメナーバルの人となりが伝わってきた。原案の手記に映像という身体をあたえていったひとつひとつの判断ににじむ品位と洞察力に、感銘をいだかずにいられません。数年後の『アレクサンドリア』も、まさに尊厳というものを譲らなかった人間の物語だった。

2004年ヴェネチア映画祭審査員特別賞、主演男優賞。審査員長はイギリスの監督ジョン・ボアマン(aka. ブアマン)で、パネルにはスパイク・リー、ヘレン・ミレンなどが入っている。第一席はなんだったのだろうと思わずデータを見直すと、マイク・リーの『ヴェラ・ドレイク』だった。ううむ、なるほど。これはもう伯仲というか、第一席の二作受賞でもおかしくない。ともに精緻な室内楽で、どちらが優れているという観点をこえて、それぞれに非凡な演出力と演技力を刻んだ出品作にめぐまれた年です。なお『海を飛ぶ夢』は「青年制作部門」でも賞を得て三重受賞になった。ほかに2005年米アカデミー外国語映画賞など。なんでもどうぞ。



メモリータグ■海まで飛んでいく主観映像。緩急のあるリズムに、飛翔の開放感が宿る。







0491. ローマ環状線、めぐりゆく人生たち

2018年06月30日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち / ジャンフランコ・ロッシ
95 min Italy | France

Sacro GRA (2013)
Direction and cinematography by Gianfranco Rosi. Written by Niccolo Bassetti and Gianfranco Rosi.


https://www.imdb.com/title/tt3172520/mediaviewer/rm654688768

金獅子賞にはやや弱いかなと思いながら観ていたが、観終わったあと心のなかでゆっくりと光景が育って、もの寂しい味わいがつのっていく。ローマ市内を環状に走る自動車道の周囲に生きる人びとを群像としてとらえたドキュメンタリーで、まるで演出された芝居のような豊かな起伏をもって表情が切り取られている。ロッシはいい作家だ。見えているものの奥になにがあるかを見失わない。その成熟した洞察力は普遍的にみても創作者のかなめなのだろう。この作品は、三年後の『海は燃えている』のような劇的な核をもつ記録ではない。でもなんというか、トーンがあり、スタイルがある。淡々と日常が発掘されていく。画面に現れるのは特別な人たちではない。ただ、生きていることの寂しさがにじんでくる。


https://www.imdb.com/title/tt3172520/mediaviewer/rm604357120

ヤシの木の内部に巣くう虫を発見するために、一本ずつ木の内部の音を聴診しつづけている老研究者が出てくる。気の遠くなるようなそのいとなみは、ほとんど詩的な哲学性を帯びてくる。虫たちは木の内部に社会をつくって繁殖し、一本の木を食べつくすまでそこで暮らすのだという。ヤシは人間の姿であり、虫たちもまた人間の社会に似ていると彼は語る。彼は薬品で虫を殺そうとはいわない。虫たちの使う警告音を逆用して追い払えないかと考える。命のうちのどちらかが正しく、どちらかが悪であると彼は区分しないのだろう。その静かな姿は古代の修道者を思わせる。あるいは幼児を背負ったクリストフォリの、果てしない重さを黙って担う歩みのようにみえてくる。


https://www.imdb.com/title/tt3172520/mediaviewer/rm3624190464

風景はさまざまだ。空虚でわびしい高層住宅もあれば、野原で羊が群れていたりもする。フォーカスをゆるめた夕暮れの高速道路の、にじんだ風景が美しい。涙でぼやけた光景はきっとこんなふうにみえるだろう。日が暮れていくのに帰る家がないような気持ち、道に迷った子供、行き暮れた旅人の心ぼそさが自分のなかにわいてくる。でも不思議になつかしい。

ウナギを獲る漁師は夜、新聞を読んで腹立たしい記事に怒る。だが家族は無言で自分の作業をつづけている。救急隊員は認知症の母に静かに話しかける。母はわかっているのかいないのか。道路脇の車のなかで暮らす年老いた男娼。バーで無気力に踊る疲れたダンサー。狭い集合住宅の親子。環状道路を行く膨大な車のように、すれ違う雑音のなかで生きている。すれ違いながらふと手をさしのべあい、一瞬指がふれたあと、やはりなにかが届かないまま眠りに落ちる。どこにもこたえはない。バビロンなのだ――すべての言葉は。2013年ヴェネチア映画祭金獅子賞。審査員長はベルナルド・ベルトルッチ。第一席としてはいかにも淡い受賞作だが、手ざわりがよかった。第二席はツァイ・ミンリャンの『郊遊〈ピクニック〉』。

そしてこの年のヴェネチアには『風立ちぬ』が出品されていた。あの作中で反戦性が楔のように明示されていたら結果は違ったかもしれない。あるいは主人公に対する批判が明確に表現されていたら違ったかもしれない。でもそれはできないことだったのだ。だからしかたがない。宮崎さんは、作品のなかで反戦のメッセージは伝えたと発言していたが、それはきわめて内省的な表現でなされ、かならずしも明示されていたとはいえない(彼の作品をずっとみてきたわれわれには自明であっても)。

おそらく宮崎さん自身のなかにディレンマがあったと思う。戦闘機という兵器を作った堀越二郎にわかりやすい言いわけをさせて免罪させるつもりは初めからなかったろう。航空機はそれじたいとしては兵器ではない。だが兵器としてしか成立させることができなかった悲劇をヒロイズムとして免罪符にするつもりもなかったろう。宮崎駿は堀越二郎の美しい飛行機を心から愛した。だがそれが兵器であるという自己矛盾にはこたえがない。それをえがく責任は引き受けるというあまりにもややこしい潔さが、深い慎みとともに作家を寡黙にした。ただ、その矛盾のなかには、じつは根源的な芸術性がひそんでいたと思う。こたえがないということがこたえになることはできたのだ。いえ、あの作り手はそれもわかっていたに違いない。ただ『風立ちぬ』はそれを主題として客観的に表現しきることができたろうか? そこは微妙だ。作中では誰も罪を口にしない。罪と矛盾をつきつめる思いはあまりに深く内向したいっぽうで、主人公をゆるす言葉だけは明示されてしまったからである。「生きて。生きて」とくり返される、愛と感動におし流されたあの終結部の台詞はやはり弱点だった。あの台詞だけはいらない。ないほうが深い。

あの主題に潜在していた原初の矛盾を虚空に問いかけて終わりたかったと、観ている者は願う。「君は永遠の地獄に行くだろう」とイタリア人に語らせることはできた――たとえば。「だが、あそこに、君がくるのをずっと待っている人がいる。だからわたしにはわからない」。そして主人公を愛した妻は風の吹く草原で待っている。妻はなにかを口にするかもしれない、だがそれはきこえないのだ。

2013年のヴェネチアで、賞を得なかった作品は天才の物語だった。賞を得た作品は無名の市民の物語だった。でもどちらも心から誠実な作品だと思います。





0490. ユリシーズの瞳 (1995)

2018年06月23日 | カンヌ映画祭審査員大賞

ユリシーズの瞳 / テオ・アンゲロプロス
176 min.  Greece | France | Italy | Germany | UK | Federal Republic of Yugoslavia | Romania | Albania | Bosnia and Herzegovina

To vlemma tou Odyssea (1995)
Directed by Theodoros Angelopoulos (aka. Theo, Thodoros. 1935-2012). Screenplay by Theodoros Angelopoulos, Tonino Guerra, Petros Markaris, Giorgio Silvagni. Cinematography by Giorgos Arvanitis and Andreas Sinanos. Film Editing by Takis Koumoundouros and Yannis Tsitsopoulos. Music by Eleni Karaindrou. Performed by Harvey Keitel (A). Erland Josephson (Library Curator), Maia Morgenstern (Kali),  Mania Papadimitriou (Mother),


https://www.imdb.com/title/tt0114863/mediaviewer/rm3272280064

円環の旅をとおして自己を完成に導いたオデュッセウスの古代叙事詩は、20世紀においては破綻に終わる不完全性へと反転される以外に継承法はなかったろう。この作品の帰結もその必然を了解していたのに違いない。それならここで、くり返し現れる妻であり少女であり庇護者であり魔女であろう女性は、これほど予定的に調和してはならなかった。それはこの作品の傷ではあるのだ。ゆるされることばかりを約束された主人公は生き延びて、つまるところ事態を傍観する者になる。自己を愛し、自己を憐れむ者の気配がヒロイズムの弛緩と五衰を呼び込む。このアンゲロプロスは疲れている。

それでもいま、あらためてこの作家を数本見直してみて思うのは、やはりこんな作品はもう撮れないだろうということだった。20世紀の巨匠たちがとらえた時空の、ほとんど不可思議な広大さをあえて確かめようと思ったわけではないのに、アンゲロプロスの長回しがつくる非現実感はそれじたいのなかにまごうかたない神話性が立ち現れていて、冒頭でギリシアの広場を一巡したこの作家らしい周回性が、ここではすでにオデュッセウスの旅を凝縮するものになっている。この周回において主人公はほぼなにも得ることがないのだ。ただ過去がかすめ、情熱の記憶がかたわらを横切る。そこに未来はない。あるのは喪失と追憶である。

この喪失を出発点として始まる長い旅は、それでも次第に20世紀の闘争とその破砕の記憶をわたしたちに思い起こさせていく。物語は主人公が幻のフィルムを探す旅で、それはギリシア映画の黎明期に名を残したマナキス兄弟の手になる未現像のフィルムだという。いまだ姿をなさない記録――未現像の過去――を探すという、いかにも挫折の匂う彷徨が、それじたい幻のような架空の記録映像としてわたしたちの眼前につむぎ出される。ギリシア、マケドニア、ブカレスト、ベオグラード、とくにサラエヴォ。破壊された街の風景をすべて消し去る霧が深くたちこめるときだけは、サラエヴォもふつうの街に戻るのだという。なにも見えないために狙撃兵が手を休めるからだ。そして人びとは濃霧のなかでしばらく広場に集い、川べりを歩く。そのあいだも、遠くの銃弾はやまない。旅人としてのオデュッセウスは、そこで死を迎えることがふさわしかったのではないだろうか。

主演のハーヴェイ・カイテルがハーヴェイ・カイテルにみえないところはよかった。彼はここで無名の誰かだった。そうでなければならないのだ。1995年カンヌ映画祭審査員大賞。審査員長はジャンヌ・モロー、パルムドールはエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』で、一席、二席ともバルカンにかかわる作品だった。アンゲロプロス自身はこの3年後の1998年に『永遠と一日』でパルムドールを得ることになる。



メモリータグ■船で運ばれていく、壊された石像のモチーフはさすがにいい。終焉したイデオロギーの残像が、滅びたものの巨大さとともにみごとに視覚化されている。エイゼンシュタインのまなざしに映っていたのも、こんな風景だったのかしら。

 

 

 


0489. 永遠と一日 (1998)

2018年06月16日 | カンヌ映画祭パルムドール

永遠と一日 / テオ・アンゲロプロス
137 min France | Italy | Greece | Germany

Mia aioniotita kai mia mera (1998)  aka. Eternity and a Day
Directed by Theodoros Angelopoulos. Written by Theodoros Angelopoulos, Tonino Guerra, Petros Markaris, Giorgio Silvagni. Cinematography by Giorgos Arvanitis (as Yorgos Arvanitis), Andreas Sinanos. Film Editing by Yannis Tsitsopoulos. Music by Eleni Karaindrou. Performed by Bruno Ganz (Alexandros), Achileas Skevis (The Child), Isabelle Renauld (Anna).


http://www.cinemas-online.co.uk/pictures/eternity-and-a-day-mia-eoniottia-ke-ma-mera-picture25657.html


「明日の時の長さは?」
「――永遠と一日」

ワンシーンワンカットの手法は、アンゲロプロスの場合、超舞台的な様式性を帯びる。人物の配置にも、その芝居のとりあわせにも、現実の舞台をこえて時空を旅する遥かな世界舞台の気配が漂う。かれ自身がそのなかで生きている。だから長回しは技巧の顕示や遊戯的な模倣としてではなく、この作家の心性の奥深くから出てきたものであることが伝わるのだ。アンゲロプロスのえがく現実は「リアリズム」ではない。現実は、そのまま異時空にすべりこんでいく始まりをなす。だからこそ、場面を切ることができない。その原則はここでも変わらない。

アンゲロプロスの時空はどこかでポール・クローデルと似ている。かつてクローデルはあの長大な『繻子の靴』を戯曲として書いた。あれは最初から破砕された内なる時空の演劇、いわば不可能の演劇だった。書き手は現実社会に確固とした居場所をもちながら、なお果てしない異時間と不和を胸にかかえこんで生きていた。そういう、じつは異形の不適応者としてのかれらのこころみは、いまみると丘の上で風に吹かれた旅人の姿をかたどった、遠い遺跡のようにみえてくる。かれらはヘテロトピアの旅券をもって生まれてきた。捕囚された魂の解放をめざして、もがきつつ内破をくり返して生きていくしかない人びとの一人だった。

この作品は後期のアンゲロプロスのなかでは完成度が高く――といっても、完成度という尺度がこの人の場合はほとんど無効であるのだけれど――彼のスタイルがよく凝縮されていた。脚本に参加しているトニーノ・グェッラはアンゲロプロスとながく仕事をしてきた人で、かつてタルコフスキーの『ノスタルジア』にも加わっていた。『永遠と一日』は、タルコフスキーの主題であってもおかしくなかった。

ここでは主人公にブルーノ・ガンツを得たことが幸福だった。老いた詩人の寂しさは、イェイツ風にいえば動物たちが逃げてしまったサーカスの寂しさだ。抜け殻と化した空虚な詩人は、捨て猫のような少年を懐にいれて一日をさまよう。死病の入院をまえにした一日を過ごす「今日」のなかに設定されたこの物語の時間も、失われた過去と喪失の記憶に遡行する入り口として置かれている。いたるところで想起の扉がひらく。最後にようやく、明日という日のことがみじかく語られる。冒頭に引いた台詞はここに出てきたものだ。「明日の時の長さは?」「永遠と一日」。その淡い帰結に、時をこえた時の可能性のなかにまだ残る未来が示唆されて終わる。1998年カンヌ映画祭パルムドール。審査員長はマーティン・スコセッシ、ほかにマイケル・ウィンターボトムなどがパネルに入っている。審査員グランプリはベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。

アンゲロプロスが三部作の完成をまえに交通事故で亡くなったことは知られている。でもその死のありかたさえ、どこかこの人の世界とあまりにも地続きで、まるで果てしない物語があの人を召喚していったようにみえるのだ。その死は永遠と一日のなかにあるのだと、いまもわたしは思っている。




メモリータグ■この作品でも、水にまつわる場面は強く目をひきつける。水辺の人びと、海に面した古風なあずまや。人は無意識に沈むとき、水を呼ぶのだとユングは語っていた。



https://gltsry21.deviantart.com/art/Eternity-And-A-Day-301858602


0488. アレクサンダー大王 (1980)

2018年06月09日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

アレクサンダー大王 / テオ・アンゲロプロス
3h 55min. Greece | Italy | West Germany

O Megalexandros (1980) aka. Alexander the Great
Directed by Theodoros Angelopoulos (1935-2012). Written by Theodoros Angelopoulos and Petros Markaris. Cinematography by Giorgos Arvanitis. Film Editing by Giorgos Triandafyllou. Music by Chris Hallaris. Performed by Omero Antonutti (Alexandros), Eva Kotamanidou (Alexandros' Daughter), Mihalis Giannatos (Dragoumanos), Grigoris Evangelatos (Alexandros' Schoolteacher).


http://www.altcine.com/movie.php?id=235

強い求心力、美しい映像、高度の凝縮性、そして雄大さを通りこしてしまうその異様な確信。まさにアンゲロプロス。全編は四時間近い。設定は冒頭からかなり長いあいだ、ほとんど狂気に近くみえる。次第に焦点が現実に接近してすこしずつ収斂を始め、開始からおよそ二時間をへて、ほぼ理性的認識の範囲におさまる――あくまで、ほぼ、ですが。

時代は20世紀が明けた時点におかれている。けれどギリシアの小村ではアレクサンダー大王が白馬に乗っている。遠景で人びとがたたずむ川べりでは東方教会風の祝福と洗礼がおこなわれ、洗礼を受けた者たちはアレクサンダー大王になるという。この水辺の遠景にもあらわれている構図の様式性はどれも強烈な集中力を保ったまま、息をのむような光とコントラストをとりこんで動く。けっして演劇的な型のなかで生命を失ってはいない。

観客は、撹乱され幻惑されながらすこしずつ、20世紀という〈近代〉がある特異点に至る状況を体験していく。それは、さまざまな大きな物語それじたいを神話として警告した同時代のリオタールの妥当な指摘とつながる光景でもある。奇妙な設定は深い現実性を帯びてもいるのだ。けれどおぼろに煙る朝もやの光のなかでは、なにもかもがまだ定まらずに浮遊してみえる。

原始共産制を採用したギリシアの村人たちのもとには無政府主義者のイタリア人たちが庇護をねがって到来する。アレクサンダー大王とその兵たちは、脱獄したのちイギリスの貴族を人質にとって、土地の返還、自治の回復、脱獄行為の恩赦をもとめる。それぞれの論理と欲望は、資本家の権力と国家の権力の係争までをその背景に透かしている。舞台的な象徴性をうしなうことなく表現される四つどもえの拮抗は、それぞれの思想と支配体制が独裁に転落する必然をあらわにしながら、世界近代史の荒唐無稽と不条理の、ねじれたミクロコスモスをなしていく。

異教者に襲われる危機の時代に、アレクサンダー大王はかならずギリシアに到来するという。そんなむちゃな笑い話がいつどこで信じられていたのか、いまここに書いてみてもボルヘスかなにかを書き写しているようなあやしい錯覚が起きてくる。ともあれそれが神話なら、事態が鎮まればその大王は消滅するのに違いない。王でなくなった王は民から襲われ消尽されるのが神話の帰結でもあるだろう。あとからいちおうデータを読むとオスマン帝国時代にギリシアの独立戦争を主導したテオドロス・コロコトロニスを重ねているともあるものの、それだって時代は違うので、つまるところ大真面目で破天荒な語り口のなかで、人類の巨大な神話と共同体の小さな神話がおそらくいくつもかさなっている。ときどき笑い出してしまうほど過激で不透明なこの展開が、またとなく透明で詩的な映像をつうじて断片的に投げ出される。

たしかにアンゲロプロスの世界では、隔絶しているはずの異者同士がぱったりと邂逅し、するすると一つに重なってしまうときがある。そのありえなさが成就する瞬間までわたしたちを迷いこませるためにも、カットを割らないあのスタイルが完璧な必然をもつことになる。人物の動きを追ってゆっくりと周回する長い長いパンのなかで世界という舞台は回り、カメラが一周しおえたときにはひとつながりの異次元がそこにあらわれているのだ。

『予告された殺人の記録』や『万延元年のフットボール』がノーベル賞だというのなら、これはまちがいなくおなじ水準にある――とはいえ映像界に、あそこまで騒がしい賞がなくてつくづくよかったとも思うけれど。

この作家の映像をちいさな画面で観ることに、わたしはほとんど罪悪感に近い抵抗があって、ながらく遠ざかっていた。それなのにいま、なにか一作観てみようかという物好きなかたには、あえてこれをおすすめしたいとひそかに思ったりするのです。殴り込みのような凄まじい美しさ、ある種の狂気、そのスケール、強大な自我、

すごいです。


http://www.theoangelopoulos.gr/showPhoto.php?mv=bWVnYWxla3NhbnRyb3M=&pht=ZnQwMjQ4LmpwZw==&lng=ZW5nbGlzaA==


メモリータグ■水辺。アンゲロプロスの映像は静止画として切り取られても、はっとするような荘厳さがある。とくに水が映りこむ場面はひときわすばらしい。淡い黎明の曙光に濡れた川面。雪の寒村に集まる民はブリューゲルのようだし、あのギリシアの小村の起伏の多いロケーションはすばらしかった。

なお『アレクサンダー大王』は1980年のヴェネチア映画祭で静かに審査員特別賞を得ている。第一席の金獅子賞は二作受賞で、ルイ・マルの『アトランティック・シティ』とジョン・カサヴェテスの『グロリア』だった。あはは。これはこれで噴き出しそうになる配置で、あきらかに商業性を最優先した選択だとわかる。いわゆる "芸術性の強い作品" は審査員賞に回すという傾向が強かった時期があって、ひところカンヌなどもそうだった。それにしてもこの年の結果は極端というか、映えある審査員長はスーゾ・チェッキ・ダミーコ、ヴィスコンティなどとよく仕事をしていたイタリアの脚本家です。審査員にはウンベルト・エーコやマルガレーテ・フォン・トロッタが入っていた。でもいったいエーコはどんな顔で『グロリア』を一位にしたのかしら。ひそひそ。





0487. ルック・オブ・サイレンス (2014)

2018年06月02日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

ルック・オブ・サイレンス / ジョシュア・オッペンハイマー
103 min. Denmark | Indonesia | Finland | Norway | UK | Israel | France | USA | Germany | Netherlands | Taiwan

The Look of Silence (2014)
Directed by Joshua Oppenheimer. Cinematography by Lars Skree. Film Editing by Nils Pagh Andersen. Performed by Adi Rukun (Himself, brother of murdered Ramli Rukun). M.Y. Basrun (Himself, former commander of a civilian militia). Amir Hasan (Himself, former leader of death squad). Inong (Himself, former leader the village death squad). Amir Siahaan (Himself, former commander of Snake River death squads).


http://collider.com/the-look-of-silence-review/

ドキュメンタリー作品。インドネシアで1965年9月30日に起きた大虐殺の実行犯にインタヴューをおこなっていく。話題になった『アクト・オブ・キリング』の連作にあたる。

今回の作品では惨殺されたラムリの弟、アディが殺害者たちを訪問する。それをスタッフがかたわらで撮影している。アディの母は長男ラムリの死後に生まれてきたこの次男アディを、亡くした長男の生まれ変わりと信じている。この言及をつうじて「殺された者」がいま生き返ってきて「かつて自分を殺した者たち」を訪問していくひそかな気配が漂うことになる。死者のまなざしは無言だ。

制作したジョシュア・オッペンハイマーはアメリカ人で、そのような「外」の視点が介入したことで可能になった記録だろうと感じる。随所にはさまれるさりげないカットが目にしみるように美しく、作品に奥行きをあたえていた。虫、埃、足の裏。長男を殺されたことをもう思い出せなくなった高齢の父親の姿。ちいさく縮んだその肉体。

なにがあったかという「事実」を、第三者の立場からおぎなうことをこの作品はしていない。当事者の言葉と表情を、黙って写している。それで伝わるのだ。プロデュースにはヘルツォークが入っている。2014年ヴェネチア映画祭審査員大賞。第一席はロイ・アンダーソンの『さよなら、人類』で、審査員長は作曲家のブライアン・デスプラだった。

当時の大虐殺は、作中で死者100万人と語られている。軍が民間人を使って虐殺を実行させた現代史上でもめずらしい例とされ、ちいさな村の民たちも、自分の身近な隣人や親族を連行してはナイフでずたずたに切り裂き、めった刺しにしては、つぎつぎに河に投げ込んだという。殺した理由は「共産主義者の粛清」だったとされている。だがじっさいに共産主義者だったかは問題ではない。まったく無実だった者が多い。だがいま現在、なお小学校で教師がその粛清を正しいこととして子供たちに力説する場面がある。おかげでデモクラシーが可能になったという。子供たちはそれを信じる。

殺した当事者たちは嬉々として殺害行為を手まねで再現し、こんなふうに殺したと証言する。縛り上げた相手を殴り、蹴り、生きている相手の乳房やペニスを切り取り、全身を切りつけて殺していった。なたやナイフで喉を切り裂いたあとは血を飲んだという。そうすれば気が狂わないという言い伝えがあり、かれらはいまもそれを信じている。演じ終えた殺害者2人は、最後にVサインを作って笑顔で記念写真におさまる。

かれらはじつに陽気で愉しげだ。自分たちを賞賛するインタヴューだと思いこんでいたのかもしれない。その家族も、かつて自分の家族が共産主義者をたくさん殺したのは誇らしいと胸をはる。眼前にいるのが被害者の遺族だと知ると困惑したように表情を変え、よくおぼえていないとか、言われてやっただけだとか、本人はもう認知症なのだ、と証言を変え始める。「自分に責任はない」「もう終わったことだ」「蒸し返すのはよくない」。しかしその表情にはありありと動揺がみえる。遺族の顔とまなざしが、その動揺を引き起こしている。

かれらを訪問していくアディは静かな姿勢を崩さない。かれは眼鏡技師らしい。加害者である老人たちにめがねを作るために視力検査をしていく。これで見えますか? 変わらない? ではこれでは? みえますか、ではこれでいいめがねを作りましょう。その他意のない台詞が作品を象徴するものになっている。


http://basementrejects.com/review/the-look-of-silence-2014/

みているこちらは加害者たちの自己正当化と満足そうな姿勢に驚愕するのだが、もし日本でおなじようなこころみをしたら、じつはきわめて近い反応が帰ってくるのではないかと思えてきた。「悪い敵を殺す英雄」としての自己認識を植えつける過程は、国家的な集団殺戮に不可避の操作なのだろう。その本質につきまとう不条理を避けるには「戦争」そのものを避けることしかわたしには思いつかない。

二次大戦の敗戦当時、日本の多数者は加害者としての責任を実感してはいなかった――おそらくひとにぎりの人びと以外は。いまでも戦争における日本の「被害」という角度から語る視点が圧倒的多数を占めていることはそれを示唆している。自分たちが殺害した事実は忘れるか、正当化する。そして取材してくる相手には不機嫌になる。他者を責め、言いくるめる。ただ、そのありさまが、ここではそのまま写しとられて記録されている。かれらの主張は反転して理解される。日本でもこの作品のようなこころみがなされるべきだったのだろう――多くの加害者たちがありありと記憶し、生存しているうちに。



メモリータグ■ちいさく左右に動く、虫の、蛹?――おそらく。それが不可思議な未来の可能性のように思えてくる。インタヴュイーの両親の家は、けっしてゆたかな家庭にはみえない。それでも美しい日射しのそそぐ、やすらかな庭だった。






0486. 俺の笛を聞け (2010)

2018年05月26日 | ベルリン映画祭審査員大賞

俺の笛を聞け / フロリン・セルバン aka. サーバン
94 min. Romania | Sweden | Germany

Eu cand vreau sa fluier, fluier (2010)
aka. When I want to whistle, I whistle.
Directed by Florin Serban (1975, Romania). Written by Catalin Mitulescu, Florin Serban, play by Andreea Valean. Cinematography by Marius Panduru. Film Editing by Sorin Baican and Catalin Cristutiu. Performed by George Pistereanu (Silviu). Ada Condeescu (Ana). Mihai Constantin (Penitenciary Director). Clara Voda (Mother).

(手前にピントがあります。逆光の輪郭とみずみずしい若草、土の質感が美しい)

https://www.imdb.com/title/tt1590024/mediaviewer/rm2228402432


おお。ひさびさに、よかったです。
ひなびた官舎の少年院で、青少年たちは服役している。手持ちのカメラで揺れながらとらえられる風景には自然な寂しさがにじんで、エンディングクレジットの田舎道(ここは固定)も寡黙だった。ちいさな子供の目で見たような、はるかな夏の夕暮れだった。

この感性はなにかを思い出させる。うわあ、そうだ。『大人は判ってくれない』です。
けっして、くらべたいわけではない。とても違うから。でも通じるものがあるといえばたしかにそうで、この作家がえらぶ孤独の表現はこのひとのもので、このひとの鋭さで細部まで生きている。そのくらべようのなさが共通している。優れた作り手はかならずそうだ。それぞれに、みつめる細部がまったく異なる。それなのに深い普遍をうったえてくる。

監督したフロリン・セルバンはルーマニア出身。執筆には彼と、あと二人が記されていた。もとになった戯曲があるのかもしれない。くわしいことはわからない。撮影はマリウス・パンドゥル。

主人公のシルヴィウ、十八歳の青年は、絨毯のように人びとからごく自然に踏みつけられている。周囲の誰もがあたりまえに彼の上を歩いていく。絨毯をかばおうとは誰も思わないだろう。彼は忍耐強い。でも忍耐しきれないこともある。その破砕の瞬間を準備していくちいさな素材のつみかさなりが、驚くほどの繊細さをたたえていた。物語としての優れた囲碁をみているようだった。あちらの隅と、こちらの隅と、ただそれぞれに石が置かれる。ばらばらの時空がすこしずつ共鳴しはじめる。

青年は服役している。模範囚だという。もうすぐ出所できるという。
面会にきた母親は、なつかしそうに青年と話す。途中ですっと顔色をかえ、あたりまえのように彼の顔をぶつ。
青年が守ってきたちいさな弟は、結局のところその母親と引越したがっている。兄をおいて。
出所直前に問題を起こしたくはないだろうと青年を脅しながら、ほかの入所者が彼の顔をぶつ。夜になにが起こるかはわかりきっている。
青年はすてきな女性を脅して、はがいじめにして、喉にガラスをつきつけた。相手はただ静かにおびえている。彼は彼女と話をしようとする。彼女はなにも話してはくれない。にぎりしめたガラスの破片で血がにじむのは彼自身の手のほうだ。
彼は看守を殴り倒した。でも時間がたって、彼は黙って看守のひたいを手当てする。彼の目が赤い。

説明はなにもない。表現は抑制されている。だからここに言葉で書いたことは、すべて少年院のなかで彼のかたわらに立ちながら、透明なままのわたしたちが透明な目で眺めて知る以外にはない。

世界は彼をこばんでいる。世界は彼を愛していない。彼はそれを受け入れている。生まれてからずっと。



メモリータグ■彼は彼女とコーヒーを飲みたかっただけなのだ。でも彼女はコーヒーに手をつけない。たださりげなく、そっと断る。うっかりすると見逃しそうな細部だ。でも彼は知っている。彼女はそこに座って、ただがまんしているだけだと。俳優もカメラもすばらしい一体感だった。2010年ベルリン映画祭審査員グランプリ。あわせてアルフレッド・バウアー賞を受賞している。新しい視点を提示した作品にあたえられる。審査員長はヴェルナー・ヘルツォーク、さすが。金熊賞はカプランオールの『蜂蜜』が得た。この年の出品者はおそろしく豪華な顔ぶれで、やはり観客動員数も史上最多だったという。そのなかでも、きっと文句なしの二本だったろうと思います。