メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

雨・赤毛 (モーム)

2009-08-31 22:33:16 | 本と雑誌
「雨・赤毛 - モーム短編集Ⅰ- 」(サマセット・モーム、中野好夫訳)(新潮文庫)
 
随分前に同じ文庫で読んでいる。おそらくモーム(1874-1965)の作品で最初に読んだものだろう。
 
「雨」、「赤毛」、「ホノルル」と1921年に発表された短編集「木の葉のそよぎ(The Trembling of a Leaf)」に収録されているもので、いずれも短編としては少し長めである。訳者もいうように「南海もの」といってよい。
 
記憶が残っているのは「雨」だけで、再読して後の評価と一致する。これに比べると「赤毛」も「ホノルル」も、女というものは、男と女の仲というものは、という枠の中の「落ち」にとどまっている。ただこの「雨」も、最初に読んだときには、この島の、鬱陶しく降り続く、止まない雨が、人の神経を、本能を、官能をなで、かきたて、この場合は原罪を呼び覚まし、といったところが終結に向かう通奏低音になっていた。
 
そういうことがすでに頭にあるせいか、今度はそんなに感じない。思ったより雨の記述が少ないようだ。二回読んでどうか、ということは難しい問題である。
 
それから、最初昭和15年に出されたこの翻訳、訳者には失礼だが、文章の流れがよどみないとはいいがたく、読んでいてリズムが乱れるところが少なくない。一回目はこの小説の世界に魅入られて気にならなくても、再読するとそうでもないのだろう。

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キャデラック・レコード

2009-08-21 18:39:33 | 映画
「キャデラック・レコード~音楽でアメリカを変えた人々の物語~」
(Cadillac Records 、2008米、108分)
監督・脚本:ダーネル・マーティン
エイドリアン・ブロディ(レナード・チェス)、ジェフリー・ライト(マディ・ウォーターズ)、ビョンセ・ノウルズ(エタ・ジェイムス)、コロンバス・ショート(リトル・ウォーターズ)、モス・デフ(チャック・ベリー)、エマニュエル・シェリーキー(レベッタ・チェス)
 
1950年代を中心に、シカゴで酒場のオーナーからチェス・レコードというレーベルを作り、黒人の才能を発掘してリズム・アンド・ブルースそしてロックン・ロールをアメリカ社会の表舞台に送り出したレナード・チェスと最初の相棒でミュージシャンのマディ・ウォーターズ、この二人を中心として始まったミュージック・シーンの物語である。(チェスはポーランド系で、演じるのが「戦場のピアニスト」エイドリアン・ブロディというのは出来すぎだがにやり)
 
出てくるミュージシャンはいずれも実在、R&Bには疎くて、チャック・ベリー以外はじめてきく名前である。黒人のパワーが大きくなってきたものの、本当に社会にインパクトを与え、白人をも夢中にさせたのはチャック・ベリーのロックン・ロールからだったようだ。
 
登場人物の間の葛藤、酒、女、薬の問題、もちろんこれらに事欠かないが、映画はそれらにあまり執着せず、ミュージック・シーンの流れがとぎれないように進んでいく。これはこれでいいのだろう、あまり深刻なドラマを求めても無理というものだ。
それでも、出だしの音楽とキャデラックなど、快調できもちのいいシーンの連続は随所にあって、アメリカ映画のいいところがよく出ている。
 
タイトル中のキャデラックとは、成功のシンボルとして、オーナーが次々と買い与えたもので、後にはそれで印税の取り分をごまかされたのでは?とのいさかいも起きてくる。この時期、まだ印税に関してはこういう時代だったようで、チャック・ベリーあたりはその後を見抜いていた、と映画は指摘している。
 
そして、映画の大きな売りは、チェスが売り出したエタ・ジェイムズ。これを演じたビョンセが歌うエタの「At Last」で、オバマ就任パーティの夫妻のダンスが始まったそうだ。オバマが大統領になることを想定してこの映画は作られたとは思わないが。
こうして大画面で歌うビョンセの迫力は格別である。
 
ところで、エタ・ジェイムズは自分の生まれを悩んでおり、なぜビリヤードをやるのかときかれ、彼女の母親は娼婦で父親はミネソタ・ファッツと言われている、と答える。
おっと、あの「ハスラー」でポール・ニューマンの相手?
そしてチェスはファッツを連れてきてエタに対面させる。彼は否定した。
 
クレジットの前に、登場人物のその後が説明されるが、エタ・ジェイムズは存命で、謝辞らしきものもある。かの地のミュージシャン達は随分たくましい。
 
苦労し、悪いこともし、お互い喧嘩をしても、結局またよりを戻していくところは、ジャズ・プレイヤー達の場合と同じようで、考えさせられるし、少しほっとする。

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蜘蛛女

2009-08-20 17:21:31 | 映画
「蜘蛛女」(Romeo Is Bleeding 、1993米、110分)
監督:ピーター・メダック、脚本:ヒラリー・ヘンキン
ゲイリー・オールドマン、レナ・オリン、アナベラ・シオラ、ジュリエット・ルイス、ロイ・シャイダー
 
一度見たはずだとは思っていたが、そのとおりだった。レナ・オリンの怪女ぶりばかり印象に残っているものの、改めてみると全体によく出来ている。
 
マフィアに対する警察の腐敗、司法取引という背景の中で、金と妻に弱い刑事がじたばたするという典型的なストーリーを、刑事役のゲイリー・オールドマンがどんぴしゃりの演技、そしてレナ・オリンは脚本家がよくもこんなものを創造したものという役を期待以上のそれもエンターテイメント性たっぷりに演じている。
 
アナベラ・シオラ(妻)、ジュリエット・ルイス(情婦)も魅力的で、男はかなわない。ロイ・シャイダーのファルコーネ、にらまれただけでもう、というイメージがあるからこそラストがいきる?
 
最初と最後は砂漠の中の道端のバーで、そこがアリゾナかニューメキシコというのはなぜかこういう映画(アメリカカン・フィルム・ノワール?)の典型だ。

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悲しみよ こんにちは (サガン)(原作)

2009-08-18 21:55:52 | 本と雑誌
サガン「悲しみよ こんにちは」(河野万里子訳)(新潮文庫)
 
フランソワーズ・サガン(1935-2004)が1954年、18歳のときに発表した処女作。朝吹登水子訳で長く読まれていたが、今年になってこの新訳が出た。
 
サガンを描いた映画「サガン-悲しみよ こんにちは- 」が製作公開されたことが新訳のきっかけになったのかもしれない。また今回新訳を読んでみようと思ったことも同じ理由である。先日書いた映画「悲しみよこんにちは」はそれを前提に見たものだ。
朝吹訳は15年ほど前、引越しの際に処分してしまい、今回比較が出来ないのは残念。
 
さて読んでみて驚く。すばらしい、そしてこんなにいい文章とは。
1960年代前半、十代のときに朝吹訳で読んでいる。そのときにこれほどとは思わなかったのはなぜだろうか。
当時の社会状況、それもフランスはこうなのかという驚きに惑わされた、翻訳がこなれていなかった、同じ十代でもこちらはまだまだ未熟だった、多分三つ目が大きいのだろう。
 
そう、これはラディゲ「肉体の悪魔」、コクトー「恐るべき子供たち」とならべても遜色ない作品である。この二つは一時の衝撃の大きさで際立つけれども、サガンの方は、もしある程度大人の受け止め方が出来れば、長く尾を引くものだろう。ただの怒れる若者とアンニュイでなく、それが冷静、明確に描写され、そのことによってモラリストの側面をも作者が見せているということにおいて、若いということの弱さ、悲しさが見えてしまうから。
 
解説で小池真理子氏は、「真に彼女が書こうとしていたのは、恋愛ではなく、恋愛を通して描く、「現代の虚無」ではなかったか」と書いている。
それはそうだが、加えてそういう虚無の深遠を見る登場人物を冷静に書き、その後生き続けて行くこと、むしろその厳しさがこの作品の持つ意味ではないか。
 
いくつも読み返したい描写はある。例えば、セシルがシリルの部屋に行き、初めて抱かれ、帰ってきて、父が再婚しそうなアンヌと出くわしたときの、タバコに火がつかない、三本目のマッチも、というところ、絶妙。タバコを吸っていた人間だからよくわかるというのも変だが。
 
最後の最後のところ、小説のタイトルが出てくるのは覚えていたけれども、惜しむように、次の行を隠しながら読んでいた。めずらしいこと。

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誇りと復讐 (ジェフリー・アーチャー)

2009-08-10 21:39:49 | 本と雑誌
「誇りと復讐」(A Prisoner of Birth 、ジェフリー・アーチャー、2008年、永井淳 訳、新潮文庫(上下))
 
久しぶりに読むジェフリー・アーチャー、健在ではある。
少し読み進むとすぐわかるように、これは現代版「巌窟王」(モンテクリスト伯)で、何度か罪に問われ、裁判、監獄を経験するはめとなった作者の経験がいかされている。
 
この作者のものとしては、「百万ドルをとり返せ!」、「ケインとアベル」、「ロスノフスキの娘」など、いくつか読んでいて、娯楽作品としては裏切られることはない、と印象だった。この作品も、いい意味でのだましあいというのだろうかいわゆるコン・ゲームであり、復讐譚としてはそんなにどろどろしてはいなくて、枯れていて、後味がいいものとなっている。特に収容所内、最後の裁判の場面。
 
その分、はらはらどきどきの度合は以前より少ない。
魅力ある登場人物は何人かいるけれども、主人公よりは主人公がなりすます対象、そして主人公側の弁護士親子、俳優の妹、同獄の巨漢、あたりだろうか。
 
訳者の永井淳氏、6月に亡くなった(74歳)。これが遺作だろうか、ミステリー、こういう娯楽小説、これまで随分たのしませてもらった。

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