メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

シャルリとは誰か?(エマニュエル・トッド)

2016-03-30 10:03:48 | 本と雑誌
シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧
エマニュエル・トッド著 堀茂樹訳 2016年1月 文春新書
 
メルケルのドイツ帝国について書いた(もっともインタヴューによるもの)トッドが2015年1月の「シャルリ・エブド」襲撃事件を受けた「私はシャルリ」デモを中心とした動きに焦点をあて、それが意味するフランスおよび諸国についての分析を述べたものである。
 
となるともちろん興味はあるわけだが、表面的にであれ読み通すのがこんなに困難、苦しい本はちょっとない。トッドの専門は文化人類学と人口学だから、統計が出てくるのは理解できるのだが、ここまでとは。とにかく「新書」でこんな本は異例だろう。

雑誌「シャルリ・エブド」がムハンマドを極めて卑劣に風刺していても、それに対する襲撃はフランスの「表現の自由」からすれば当然であり譲れないものである、というのがこの社会の共通理解のように報じられていた、となんとなくではあるが思う。だから社会党出身のオランド大統領を中心に国内国外の首脳、党首などがそろって想像外の大きなデモを繰り広げたのだろう。
 
ところがトッドの分析によると、フランス全土を細かく分けてその参加者を分析すると、少し前までカトリックであったか世俗主義(ライシテ)であるか、高収入か中産階級か労働者か、高学歴か、また以前から兄弟姉妹で財産分与などが平等であったか、などで強い相関がみられ、この事件特にイスラムに対するイデオロギー的なものが主因ではないようだ。この本ではそこは信用するしかない。
解説にもあるとおり、このデモとそれに続く動きは自己欺瞞的、無自覚に排外主義的であり、したがって反イスラムのみならず、反ユダヤが見られるという。
 
そして実はフランスでイスラム系といわれる人たちは10%程度いるが、それらの多くはアフリカ北西部のマグレブ(リビア~モロッコ)といわれる人たちが多く、フランスにはかなり同化しており、イスラム教ではない人たちとの結婚も多く、その場合は宗教にそんなにこだわっていない。昨今のISに関係したイスラムおよびその動きはむしろそういう理解から外れたところから来る双方のニヒリズムと見ているようだ。
 
トッドは今後についていくつかのストーリーを提示しているが、とにかく悲観的ではある。しかし行間からは、今後も相互の結婚による融合が少しずつ進んできて、EU(トッドは愚かなものとしている)との関係が見直され、などじっくり進行することが可能であれば、フランスの多元的な価値観というか、古来からの諸文化の許容・融合などから、極端に変なところに固まることはないだろう、という感じもする。悲観を断言してはいない。ドイツみたいに変に一つにならないよ、とでもいいたいのか。
 
私も、どっかで戦後からアルジェリア、1968あたりまでのドゴールのような「政治」が出てくる可能性はあると思っている。

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キャロル・キング「君の友だち」

2016-03-28 20:46:31 | 音楽
何年かヴォーカルを習っているが、同じ先生についている生徒のクラス・コンサートを初めてやった。伴奏者なしで、デジタル音源が入手できるものから曲を選ぶ。このかたちだとキーは変えられる。
 
さて歌ったのはキャロル・キングの「君の友だち」(You've Got A Friend)(1971)。本当は数年前、初めて参加した教室発表会で歌うはずだったのだが、他に3組くらいの希望が出て、4組も歌うのはと辞退し、同じキャロルの「So Far Away」を歌った。これはこれで副産物があって、この歌詞が「風立ちぬ」(松本隆)に影響を与えたのではないかと推測を楽しんだり、ロッド・スチュアートのカバーを知ったりした。
 
このときは提供できるバンド譜がキャロル自身のオリジナル・キーで、もし歌ったとしてもかなり低くて、苦労したと思う。そして2年前にレッスンで歌ってみた時には半音5つ上げていたのだが、またこの2月に準備を初めてしばらく、どうも落ち着きすぎているかなと思い、もう半音一つあげてみるかとやってみたら、これが全然ちがってきて、テンションがあがり、表情が出るというか出したい感じになってきた。これで決定。
 
そういえば昨秋の「Anything Goes」(Cole Porter)でも最後の繰り返しを半音あげるというシナトラ盤の真似をした時も、より明るい気分が出た。どの曲でもそうではないんだろうが、自分のキーのかなり高い方まで使っていても、ちょっと平板になっているなと思ったらもう一つあげてみるのは、これからもいいかもしれない。
 
ところで思い出したのはコンサート・ピッチというもので、普通の標準ピッチは440Hz(A)だが、コンサート特にオーケストラでは442Hzにすることが多い。これ、広い空間だとこの方がということもあるだろうが、個別の楽器の普段の練習では440でやり、コンサートではよりテンションをあげてという効果もあるのではないだろうか。もっとも最近は、ホールのそう簡単にピッチを変えられないピアノが高い方にしてあって、それなら自分の楽器も最初からそっちにということが多いらしい。自分で合わせる弦楽器でもそうするんだろうか。誰でもプロ並みの活動をするわけでもないんだから、そうまでしなくもと思うのだが。
 
ともかく、前記のような経験を少しすると、コンサート・ピッチの存在と意味も少しわかる気がする。

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バート・バカラック ライブ・イン・ロンドン

2016-03-06 09:04:00 | 音楽
バート・バカラック(1928- )へのトリビュート企画なんだろうか、2015年5月にロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたライブBBCが収録したもので、2016年2月にWOWOWで放送された。
 
このとき87歳、こういうものに本人が出てくること、そんなにないだろう。インタビュワーと向き合って座り、話をしながら、そこに出てきた歌を、何人かの歌手が歌う。
 
聴き手は当然だがバカラックの自伝を読んでいて、そのなかからいくつかをキーにして話を進めていく。普通なら聴かれるとちょっとなあということも、自伝に書いているから、本人いやな顔はしない。
 
バカラックの作品は好きだから、一人の歌手のバカラック・アルバムや、多くの歌手による代表的な歌唱を集めたアンソロジー・アルバムをいくつか持っているし、ハル・デヴィッド(作詞)とのコンビによる楽譜集も持っていて、自分で歌ってみたりしてきた。
それでも、こうして聴くと、あらためてそのヴァラエティ豊かな世界に驚くが、あの本にもあるように、本人にいわせるとこれらは労力を惜しまない仕事の産物のようで、それも驚嘆である。
 
この歳で出てきてくれた上に、後半はピアノの前に座って、自らの歌唱も交え、メドレーをずいぶんやってくれたのはありがたかった。それらは自作の中でも気に入っているものなんだろうが、私も好きで歌っているもの、たとえば「WIVES AND LOVERS」、「ALFIE」、「THAT'S WHAT FRIENDS ARE FOR」などが最後の方にあったのは、なるほどとうれしかった。好みをいえば最後の曲はここでもスーパー・セッション的に全員でやったが、これ本当はギター一本にあわせたソロがいいんだけれど。
 
話の中でいくつか確認できたこといくつか。歌詞が先か曲が先かということでは、原則として歌詞が先のようで、曲が先だとあらぬところに行ってしまうことがあり難しいとのこと。そして印象に残ることばとしては、音楽の師ダリウス・ミョー(フランスのクラシック作曲家)に、曲の一部が有名になってしまってもそれを悔やまないことだそうで、ヒット・フレーズで記憶されることもいいことだということだろう。本格的な作曲家と自認している人は、案外それを気にしているのかもしれない。

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