地図のない道 :須賀敦子 著 新潮文庫
先日の松山巖「須賀敦子の方へ」を読んでいて、後ろにあった文庫広告で本書を見つけた。
二つの短い連載をまとめたもので、刊行は亡くなった後である。
著者と縁が深いヴェネツィアを訪ね歩いた時のもので、その際頭の中にあったのは一つ目がユダヤ人のゲット(最後は伸ばさない表記になっている)、二つ目は病院というか収容施設である。
ゲットの方は、彼女の仕事、そして案内してくれた人とその素性およびそのふるまい方から、さまざまに感じ考えたもの。この問題のありかたは人それぞれに多様であって、そこに須賀の思いがあるとともに、そういう観察に感心させられるところがある。
もう一つは、病院らしい表記とある絵に描かれている「高級娼婦」らしきものから話がはじまる。高級娼婦といっても後の時代のイメージと少し違って、上流階級でそれなりの技芸教養もある女性たち、日本でいえば光源氏の周囲にいた女性たち、と想定される。そこからさまざまな観察、論述が進めらて行く。
彼女の経歴などから見るとユダヤ人とその境遇に関しては、そこに入っていったのは不思議でない。しかしもう一つのテーマはその内容のかなり具体的な書き方とともにこれまで私が読んできた中では聖ばかりでなく俗な方へも目くばりがされた感じがある。それはむしろいい印象だったし、最後の着地はさすがにうまいものだった。
ところでひさしぶりに彼女の文章を読んで感じたのは、読点が多いなといういこと。最近いくつか読んだ谷崎潤一郎はまた読点が極端に少なく、これが近代日本の散文で普通だとは思はないが、読む上で困ることはなくよく流れてさすがである。
それに対して須賀の文章はかなりちがう調子になる。勝手な想像だが、イタリア語と日本語の間で双方向に翻訳を長い間やっていて、正確さを求めている中でこうなったのか、翻訳とは関係なく一つ一つの描写、考え方を確認しながらで、こうなったのだろうか。
もっともこういう姿勢は、社会に対しても、宗教に対しても、どっちかへあるいはより深い方へ飛び込まなかったということであって、それが私からすると読み続ける気持ちになる、ということだろうか。
先日の松山巖「須賀敦子の方へ」を読んでいて、後ろにあった文庫広告で本書を見つけた。
二つの短い連載をまとめたもので、刊行は亡くなった後である。
著者と縁が深いヴェネツィアを訪ね歩いた時のもので、その際頭の中にあったのは一つ目がユダヤ人のゲット(最後は伸ばさない表記になっている)、二つ目は病院というか収容施設である。
ゲットの方は、彼女の仕事、そして案内してくれた人とその素性およびそのふるまい方から、さまざまに感じ考えたもの。この問題のありかたは人それぞれに多様であって、そこに須賀の思いがあるとともに、そういう観察に感心させられるところがある。
もう一つは、病院らしい表記とある絵に描かれている「高級娼婦」らしきものから話がはじまる。高級娼婦といっても後の時代のイメージと少し違って、上流階級でそれなりの技芸教養もある女性たち、日本でいえば光源氏の周囲にいた女性たち、と想定される。そこからさまざまな観察、論述が進めらて行く。
彼女の経歴などから見るとユダヤ人とその境遇に関しては、そこに入っていったのは不思議でない。しかしもう一つのテーマはその内容のかなり具体的な書き方とともにこれまで私が読んできた中では聖ばかりでなく俗な方へも目くばりがされた感じがある。それはむしろいい印象だったし、最後の着地はさすがにうまいものだった。
ところでひさしぶりに彼女の文章を読んで感じたのは、読点が多いなといういこと。最近いくつか読んだ谷崎潤一郎はまた読点が極端に少なく、これが近代日本の散文で普通だとは思はないが、読む上で困ることはなくよく流れてさすがである。
それに対して須賀の文章はかなりちがう調子になる。勝手な想像だが、イタリア語と日本語の間で双方向に翻訳を長い間やっていて、正確さを求めている中でこうなったのか、翻訳とは関係なく一つ一つの描写、考え方を確認しながらで、こうなったのだろうか。
もっともこういう姿勢は、社会に対しても、宗教に対しても、どっちかへあるいはより深い方へ飛び込まなかったということであって、それが私からすると読み続ける気持ちになる、ということだろうか。