メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

須賀敦子「地図のない道」

2021-10-31 16:34:35 | 本と雑誌
地図のない道 :須賀敦子 著  新潮文庫
先日の松山巖「須賀敦子の方へ」を読んでいて、後ろにあった文庫広告で本書を見つけた。
二つの短い連載をまとめたもので、刊行は亡くなった後である。
 
著者と縁が深いヴェネツィアを訪ね歩いた時のもので、その際頭の中にあったのは一つ目がユダヤ人のゲット(最後は伸ばさない表記になっている)、二つ目は病院というか収容施設である。
 
ゲットの方は、彼女の仕事、そして案内してくれた人とその素性およびそのふるまい方から、さまざまに感じ考えたもの。この問題のありかたは人それぞれに多様であって、そこに須賀の思いがあるとともに、そういう観察に感心させられるところがある。
 
もう一つは、病院らしい表記とある絵に描かれている「高級娼婦」らしきものから話がはじまる。高級娼婦といっても後の時代のイメージと少し違って、上流階級でそれなりの技芸教養もある女性たち、日本でいえば光源氏の周囲にいた女性たち、と想定される。そこからさまざまな観察、論述が進めらて行く。
 
彼女の経歴などから見るとユダヤ人とその境遇に関しては、そこに入っていったのは不思議でない。しかしもう一つのテーマはその内容のかなり具体的な書き方とともにこれまで私が読んできた中では聖ばかりでなく俗な方へも目くばりがされた感じがある。それはむしろいい印象だったし、最後の着地はさすがにうまいものだった。
 
ところでひさしぶりに彼女の文章を読んで感じたのは、読点が多いなといういこと。最近いくつか読んだ谷崎潤一郎はまた読点が極端に少なく、これが近代日本の散文で普通だとは思はないが、読む上で困ることはなくよく流れてさすがである。
 
それに対して須賀の文章はかなりちがう調子になる。勝手な想像だが、イタリア語と日本語の間で双方向に翻訳を長い間やっていて、正確さを求めている中でこうなったのか、翻訳とは関係なく一つ一つの描写、考え方を確認しながらで、こうなったのだろうか。
 
もっともこういう姿勢は、社会に対しても、宗教に対しても、どっちかへあるいはより深い方へ飛び込まなかったということであって、それが私からすると読み続ける気持ちになる、ということだろうか。



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R. シュトラウス「カプリッチョ」

2021-10-14 14:46:35 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」
指揮:クリスティアン・ティーレマン、演出:イェンス・ダニエル・ヘルツォーク
カミッラ・ニールント(伯爵夫人マドレーヌ)、クリストフ・ポール(マドレーヌの兄)、ダニエル・ベーレ(作曲家フラマン)、ニコライ・ボルチェフ(詩人オリヴィエ)ゲオルク・ツェッペンフェルト(演出家)、クリスタ・マイア(女優)
ドレスデン国立歌劇場 2021年8月4,6,8日 無観客上演で収録 2021年8月NHKBSP

シュトラウス最後のオペラで、これと「最後の四つの歌」、「メタモルフォ―ゼン(変容)」が最晩年の作品である。

ちょっと変わった作品で上演されることは少ないようだが、そのわりには映像で見る機会がこれまで何回かあって、メトロポリタン(2011)パリオペラ座(2004)(いずれもマドレーヌはルネ・フレミング)、それと今回思い出したのだがフェリシティ・ロットが主役のものをレーザー・ディスクで見た記憶がある。何かとてもソフィスティケイテッドで、よかった。
 
伯爵夫人で未亡人のマドレーヌ、誕生日に舞台が企画されていて、マドレーヌに言い寄っている作曲家と詩人が我こそはと競い、また劇場支配人の演出家は彼なりの主張をする。マドレーヌの兄と女優とのからみもあって、一見ごたごたしながら進むのだが、そこはシュトラウスと彼に協力してこれを作ったクレメンス・クラウスのおかげだろうか、幕の切れ間のない2時間半が飽きさせずに進んでいく。
 
結末は途中で暗示されるけれど、今回気がついたのは、演出家にシュトラウスの本音がカリカチュアのように出てきていて、この人のオペラ、音楽人生の余裕ある総括といったらよいか。
 
主役のカミッラ・ニールントは先日の「ばらの騎士」で感心した通り、ただマルシャリンと比べるとこのマドレーヌはそう達観していないので、それが出たらとは思う。最期のところの演出、確か台本では鏡に映る自分を未来の老いと見るのだが、ここでは風貌の似た女性を暗い照明で出していた。
その他の歌手たちはいずれも安心して楽しめた。
 
演出は初演の戦時中を想定した衣装、装置らしいが、やはり世紀末の方が、とは思う。
指揮のティーレマン、このところシュトラウスは手の内に入った気持ちよく聴けるものとなっていた。
 
ところで序奏の弦楽六重奏は大好きで独立して演奏されることもあり、何度も聴いている。今回はテンポがはやくさらっとしているなと感じたが、オペラが進行していくと、実はここで使われたフレーズが形を変え、いろいろ複雑に組み合わされて出てきていること(素晴らしい)に気がつき、オペラ全曲の序奏としてはこれでいいのだと納得した。
 
それにしても、シュトラウスという人、時代と人間を深く描きつくすということでは「影のない女」、作曲家自身の美しいカリカチュアとして「カプリッチョ」、内心の後悔の韜晦的表出として「メタモルフォーゼン」、なんという堂々たる一生だろうか。


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松山 巖「須賀敦子の方へ」

2021-10-09 14:30:35 | 本と雑誌
須賀敦子の方へ :松山巖 著  新潮文庫
こういう本が出ているのは知らなかった。
 
須賀敦子(1929-1998)の著作が世に出たのは1990年あたりからで、いずれも評判になり、文庫化も早かったから、主要ないくつかは読んでいる。
  
イタリアを中心としたヨーロッパが背景にあって、地に足がついた知識、教養と、よく練られた文章で、読み応えがあった。
その一方で、そうだからこそだろうか、多少の疲労感が残った記憶がある。本書を読んで、幾分それがわかった気がする。
 
本書の著者は毎日新聞の書評委員の同僚として須賀と付き合いがあり、その後も彼女が亡くなるまでやりとりがあったようだ。
この本は須賀敦子について、;様々な角度から調べ、関係者から話をきき、彼女の生涯と作品の全貌を描き出しているが、評伝という感じではなく、著者が気になったいくつかの点を掘り下げていったという形である。一種のファンレターでもある。
 
それでも、須賀敦子が戦前ある程度上流の家に生まれ、多少の困難もあったが関西芦屋を中心に育ち、戦後は聖心女子大学の第一期となり、慶應の大学院からフランス留学、そしてイタリアという経緯はこれまでよりよくわかってきた。
 
そして本書を読んで、須賀が戦中の思い、カトリック左派との親和性、親友がカルメル会修道院に入ったことの衝撃など(これはあのプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」の会派である)ありながら、社会の運動、宗教の世界にのめりこむことはなく、考え、書くことで生き続けたことが、少し理解できたように思う。
 
少しちがえば、彼女が憧れたシモーヌ・ヴェイユのようになっていたかもしれない。あの時代でいえば、どちらかというとカミュとの類似を勝手に思うのだが。それが上記、読後の多少の疲労感につながるのかもしれない。
これからゆっくり再読してみようと思っている。
 
なお本書で残念なのは、文庫化されたときにでももう少し良い校正が入っていればもっと読みやすかったのかもしれない。新潮文庫としては今一つのところがいくつかあった。





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