メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

アントニオ・ロペス 展

2013-05-28 11:43:54 | 美術

アントニオ・ロペス 展

Bunkamura ザ・ミュージアム 2013年4月27日-6月16日

アントニオ・ロペス(1936 ~)の名前を知ったのはこの展覧会が開催されてからである。日本で作品がまとめて展示されるのは初めてだそうだ。

 

スペイン・リアリズム(写実主義)の代表的な画家と言われているから、以前取り上げた礒江毅が目標としスペインに行って学びついにそのジャンルで評価を得たあの「写実」を想像したが、やはりずいぶん違うものだな、というのが感想である。

 

本人も言っているように、描く対象が第一で、写実の技法はそれについてくる。したがって時間的に、また空間的に、一見不思議な、しかしよく見ていると納得することもある絵が現れる。 

 

有名な「グラン・ビア」はマドリードのある街かどで朝の同じ短い時間帯に見たものを何年もかかって描いたもので、時間の層があるはずだが、そういわれればということもあるだろうし、評価は難しい。

 

風景特に上から見たものは、いくつかの視点、視角特に人間の眼よりは相当の広角でとらえたものもあり、見ていて飽きない。

 

植物、花の絵も写実というより、対象に吸い込まれそうなところがある。

 

それでも、基本となるリアルなデッサンの腕は大変なもので、自分の娘を描いた「マリアの肖像」など、顔の部分ももちろんいいけれど、来ている無地のオーバーの材質、風合いなど、鉛筆だけで描いたものとしては驚異である。鉛筆だけで描いた絵の威力は他の画家のもので驚かされてはいるのだが、この人の使いこなし方は特別である。

 


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ジェフリー・アーチャー「時のみぞ知る」

2013-05-24 21:26:21 | 本と雑誌

ジェフリー・アーチャー「時のみぞ知る」(Only Time Will Tell)上下  戸田裕之訳 新潮文庫

 

少し前、話を土台にした「遥かなる未踏峰」で楽しませてくれたアーチャーの最新作。これは登場する二つの家系の一つの名前を冠するクリフトン年代記というシリーズものの始まりということらしい。

第1次世界大戦後のイギリス西部ブリストルの労働者階級クリフトン家に生まれたハリーと、街の大企業オーナーであるバリントン家、その息子、娘たちを中心に、旧世代の血脈、因縁、階層など、アーチャー得意の困難、数奇な展開、それも始まったばかり。ワーグナーの「指輪」でいえば「ラインの黄金」あたりだろうか。

 

アーチャーの年代記ものといえば「ケインとアベル」、その続編「ロスノフスキ家の娘」が想起されるが、子供たちの生まれはこれらほど身分差、貧困、生きていけるかどうかの艱難に見舞われているわけではない。それでも、随所にちょっとおどろく展開、仕掛けがあってエンターテイメントとしてはさすがである。

 

いくつかの時期、場面で、複数の登場人物の視点で同じシーンが描かれており、これは初めてではないかもしれないが、面白いしかけである。

 

一人、ハリーの実質的指南役になる退役軍人が魅力たっぷり。

 

そして、あっと驚く展開の直後、あああれはここに通じていたんだと、もったいぶらないですぐわかるようになっているのも、この種の小説として親切である。

 

まだこれから先もあるし、ネタバレにもなるからこれくらいにしておこう。


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牧野邦夫-写実の精髄-展

2013-05-21 21:32:24 | 美術

牧野邦夫-写実の精髄-展

練馬区立美術館 2013年4月14日~6月2日

 

牧野邦夫(1925-1986)については、「美の巨人たち」(テレビ東京)を4月に見るまで知らなかった。現代のそれも写実ということから、その名前を目にする機会がなかったのかもしれない。

もっとも練馬区立美術館は2011年に礒江毅展をやっていて、これは極端に写実を極めたものであった。

 

牧野は写実絵画のありかたとしてドラクロワ以前の西洋絵画における写実を手本としたいと自ら述べていて、中でもレンブラントに対する思いは強い。それはここで多くの点数を見ても感じられる。

 

自画像、裸婦、そして何か物語を描いたようなものが多い。写実の果ての幻想といったところが多いのは、「千一夜物語」の挿絵を描いたあるいはそういうところがもともとあったのか、何かあるのだろう。自画像などは岸田劉生の、また物語の系列は青木繁など明治の画家に連なるように見えなくもない。

 

そうなると、高島野十郎や礒江毅のようには、はっきりとした牧野の写実というものが出てくるところまでは行かなかったのかもしれない。

 

自画像は画家自身がすっきりとした二枚目の顔をしていることもあってか、何かこちらから対峙しにくいところもある。

裸婦は力強い調子のものが多く、これは日本の洋画としてもなかなかユニークなものだ。

 

幻想的なもの、物語性のものを合わせると、こうした展示では見ていて焦点を結びにくいところがある。それで悪いというわけではない。

もう少し生きていれば、横尾忠則とかフラットな方向にいってもおかしくないような題材、テーマにも思えるのだが。

 

とはいえ、こうして写実の系列の画家たちを多く見ることができるのは、なかなか面白いものである。

 


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サイード音楽評論 2 (エドワード・W・サイード)

2013-05-07 09:55:00 | 本と雑誌

サイード音楽評論 2

エドワード・W・サイード 著  二木麻里 訳  2012年 みすず書房 

 

先に書いた第1巻 に続いて、1990年代から亡くなる2003年までに書かれた文章が収められている。演奏や作品についてのものも多いが、今回はかなり骨のある音楽書についての論評が目立つ。 

 

サイードのバックグラウンドはプロの演奏家、研究者とほとんど同レベルで、対象となっている音楽書のレベルも高いから、このあたりになるとついていくのは正直しんどい。

とはいえ、そういう音楽書は翻訳が出ていてもまず読む気にならないから、こうして論評されていると中には、なるほどと、これは役にたつなという記述もいくつかある。

 

バッハと他の作曲家との関係、比較、その中でのベルリオーズの特異性など。

 

メトロポリタンあるいはメトロポリタン的なものに対する批判はあいかわらずで、文面からはそうだと思うけれども、たまたまここで取り上げられているロッシーニの「チェネレントラ(シンデレラ)」は昨年放送(WOWOW)で見たものと同じチェーザレ・リエーヴィの演出、指揮がジェームズ・レヴァインでなくマウリツィオ・ベニーニ、プリマがチェチーリア・バルトリでなくエリーナ・ガランチャだった。

 

同じ演出でも放送録画で見ると、だだっ広い舞台は気にならないし、歌はいいけれど多分あの小柄なところや動きに違和感を感じるかもしれないバルトリではなく、台本からするとむしろ大人の女である主人公に完璧に似合ったガランチャで見たのは幸いだったかもしれない。おもしろいところである。

 

こうして全体を眺めてみると、対象となっている音楽について、楽譜、理論、背景など理解したうえで深く聴いていくことの重要性は理解できる。しかし、そういうものの端緒が見える程度でしかない私にとっては、ちょっとちがうことも考えるのである。

そういう聴き方でなくても、クラシック音楽およびそれにつらなる現代音楽(このあたりもっと便利な言い方はないのだろうか)のなかでかなりのものはそういう聴き方ができない人たちに人気もあり楽しまれていることは確かであって、そのあたりの解明はどうなんだろうか、ということである。 

 

バッハ、グールド、ブーレーズ、バレンボイムについては、的確に多くを挙げているが、ちょっと褒めすぎではないか。

もっとも、生きているうちにこれだけは、ということだったのかもしれない。

 

細かいところで気になったのは、第1巻もふくめてワーグナーに関する記述が多い中で、彼の反ユダヤということがあまりにも大きく扱われていることと、ワーグナーの孫兄弟のうちヴォルフガングの名前はよく出てくるが兄ヴィーラントについてはほんのわずかである、ということである。確かに早死にしたとはいえ、私の若いころのバイロイトFM放送をはじめとする情報からするとヴィーラントの象徴主義的な舞台、衣装、動き、照明などは、そのあとの反動というかヴォルフガングの「具体」にくらべカール・ベーム(この人もほとんど無視されている)の指揮とともに新鮮なものとしてよく言及されていた。今から見ても、この兄弟の扱いの軽重は逆ではないか。

 

おそらく後のパトリス・シェローの演出なども、ヴィーラントのように大胆にやっていいいんだということを前提にしていると思うし、カラヤンなどの透明感のあるオーケストラ演奏の背景にもなっていると思う。

 

 


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ワーグナー「ジークフリート」(ミラノ・スカラ座)

2013-05-06 16:24:16 | 音楽一般

ワーグナー:楽劇「ジークフリート」

指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:ギー・カシアス

ランス・ライアン(ジークフリート)、ニナ・シュテンメ(ブリュンヒルデ)、ペーター・ブロンター(ミーメ)、テリエ・ステンスヴォルト(さすらい人、ヴォータン)、ヨハネス・マルティン・クレンツレ(アルベリヒ)、アレクサンドル・ツィムバリョク(ファフナー)、アンナ・ラーション(エルダ)、リナット・モリア(鳥の声)

2012年10月 ミラノ・スカラ座  2012年12月 NHK BS-Pre

 

このワーグナー「指輪」4部作、特にワルキューレとジークフリートは一度に登場する人物も少なく、2~3人の対話がほとんどだから、おそらくメトロポリタンより舞台の間口が小さいスカラの方が向いているかもしれない。今回の光の投影を主とした演出もその特徴に沿っているし、なによりバレンボイムが指揮するオーケストラの音が、大きい広がりがある音というより、もちろんすべてを出してはいるのだが、その場面で何か本質的に重要かということを丹念に表出したもので、それはバレンボイムの解釈の確かさとある意味で勇気というものである。

だから、聴くものとしては集中して音楽に浸ることができた。

 

ジークフリートとミーメの最初の場面、室内(書庫?)の本棚みたいなセットで、二人を上下に配置したりして、観客が見やすく集中しやすくしている。ジークフリートのライアンは最初ちょっときんきんする声に感じたけれど、ここはまだ幼くやんちゃなジークフリートなわけで、だんだん気にならなくなった。次の神々の黄昏も彼であればまだわからないが、少なくとも今回はこれで適役だろう。

 

さすらい人(ヴォータン)のステンスヴォルトはラインの黄金のルネ・パーペ、ワルキューレのコワリョフと比べるとちょっと小粒という感じだが、もう衰えているという前提ならこれでいいのだろうか。3つとも歌手がちがうというものも珍しい。

 

ミーメはメイクが年寄り過ぎているがまずまず、アルベリヒもこのあとまだ黄昏があるにしては年寄り過ぎた風采、こっちも歌唱はまずまず。

エルダのアンナ・ラーションは期待通り。

 

さてニナ・シュテンメのブリュンヒルデだが、ワルキューレで期待した手前、もう少し溌剌としたところがあれば、という感じがある。まあ、ここでも最後の長丁場は大変だけれど。

そしてこれは演出というか振付だが、この場面で、ジークフリートの口づけでブリュンヒルデが目をさましていくところはゆったりしていていい。しかしそのあと、最後に彼女が理解し、二人が結びついて、世界の、社会のもろもろなど破滅してしまえ、と愛の勝利で終わるまで、二人を高さのある岩の上でいそがしく動かすのは疑問。

ここは、二人のあいだのさまざまな隠喩を見事な音楽が語っていくわけで、あまり余計なことはしない方がいい。ジークフリートが最後の少し前まで、ノートトゥング(刀、「指輪」では男性の象徴でもある)を手にもったままというのも、見えすいていてどうか。

 

「ジークフリート」を聴いていつも思うのは、ここに登場する小鳥と大蛇の魅力。小鳥はもちろんだが、大蛇(ファフナー)が死んでいくときのジークフリートへの歌は、何度聴いてもいい。ここは作曲者もセンチメンタルになったのだろうか。

 

 


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