サイード音楽評論 2
エドワード・W・サイード 著 二木麻里 訳 2012年 みすず書房
先に書いた第1巻 に続いて、1990年代から亡くなる2003年までに書かれた文章が収められている。演奏や作品についてのものも多いが、今回はかなり骨のある音楽書についての論評が目立つ。
サイードのバックグラウンドはプロの演奏家、研究者とほとんど同レベルで、対象となっている音楽書のレベルも高いから、このあたりになるとついていくのは正直しんどい。
とはいえ、そういう音楽書は翻訳が出ていてもまず読む気にならないから、こうして論評されていると中には、なるほどと、これは役にたつなという記述もいくつかある。
バッハと他の作曲家との関係、比較、その中でのベルリオーズの特異性など。
メトロポリタンあるいはメトロポリタン的なものに対する批判はあいかわらずで、文面からはそうだと思うけれども、たまたまここで取り上げられているロッシーニの「チェネレントラ(シンデレラ)」は昨年放送(WOWOW)で見たものと同じチェーザレ・リエーヴィの演出、指揮がジェームズ・レヴァインでなくマウリツィオ・ベニーニ、プリマがチェチーリア・バルトリでなくエリーナ・ガランチャだった。
同じ演出でも放送録画で見ると、だだっ広い舞台は気にならないし、歌はいいけれど多分あの小柄なところや動きに違和感を感じるかもしれないバルトリではなく、台本からするとむしろ大人の女である主人公に完璧に似合ったガランチャで見たのは幸いだったかもしれない。おもしろいところである。
こうして全体を眺めてみると、対象となっている音楽について、楽譜、理論、背景など理解したうえで深く聴いていくことの重要性は理解できる。しかし、そういうものの端緒が見える程度でしかない私にとっては、ちょっとちがうことも考えるのである。
そういう聴き方でなくても、クラシック音楽およびそれにつらなる現代音楽(このあたりもっと便利な言い方はないのだろうか)のなかでかなりのものはそういう聴き方ができない人たちに人気もあり楽しまれていることは確かであって、そのあたりの解明はどうなんだろうか、ということである。
バッハ、グールド、ブーレーズ、バレンボイムについては、的確に多くを挙げているが、ちょっと褒めすぎではないか。
もっとも、生きているうちにこれだけは、ということだったのかもしれない。
細かいところで気になったのは、第1巻もふくめてワーグナーに関する記述が多い中で、彼の反ユダヤということがあまりにも大きく扱われていることと、ワーグナーの孫兄弟のうちヴォルフガングの名前はよく出てくるが兄ヴィーラントについてはほんのわずかである、ということである。確かに早死にしたとはいえ、私の若いころのバイロイトFM放送をはじめとする情報からするとヴィーラントの象徴主義的な舞台、衣装、動き、照明などは、そのあとの反動というかヴォルフガングの「具体」にくらべカール・ベーム(この人もほとんど無視されている)の指揮とともに新鮮なものとしてよく言及されていた。今から見ても、この兄弟の扱いの軽重は逆ではないか。
おそらく後のパトリス・シェローの演出なども、ヴィーラントのように大胆にやっていいいんだということを前提にしていると思うし、カラヤンなどの透明感のあるオーケストラ演奏の背景にもなっていると思う。