メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

横山操 展 ~アトリエより~

2018-09-30 10:30:14 | 美術
横山操展~アトリエより~
三鷹市美術ギャラリー 開館25年周年
8月4日(土)- 10月14日(日)
 
横山操(1920-1973)には、その何枚かの絵を東京国立近代美術館で見て興味をひかれ、1999年同館で開催された大規模回顧展で圧倒された。日本画に分類されるが、その力強い筆致と対象の本質ともいうべきものをストレートに表出した作品は、私に「感動」というものを残すと言える、こういう画家は少ない。
 
今回は、上述の回顧展にあったような大きい絵は少ないが、画業の後半住んでいた三鷹のアトリエで発見されたものを中心に、この人の本質と魅力を充分味わうことができた。使っていた筆、道具なども興味深い。
 
そういう「絵」とちがって、永井龍男の小説「石版東京図絵」(1967年 毎日新聞連載)の挿絵がほぼ全部並べ並べられていて、普通こういうものを会場で見てもさっと通り過ぎるのだが、戦前の市井の風俗が面白く、巧みに描かれていて、思わずじっくりみてしまった。
 
大きいものでは「白梅図屏風」(1963)が圧巻、大げさに言えば琳派の同種のものと比べても、引けを取らない上に、新鮮な驚きがある。
 
それにしても画家はシベリアに1950年まで抑留されたのだが、ここを生き延びた横山と香月泰男(洋画)という二人の巨人が戦後の画檀に出てきたということは、感慨深い。

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ロシュフォールの恋人たち

2018-09-28 21:25:09 | 映画
ロシュフォールの恋人たち(Les Demoiselles de Rochefort、1966仏、123分)
監督・脚本:ジャック・ドゥミ、撮影:ギスラン・クロケ、衣装:ジャクリーヌ・モロー/マリー・クロード・フーケ、振り付け:ノーマン・メーン、音楽:ミシェル・ルグラン
カトリーヌ・ドヌーブ、フランソワーズ・ドルレアック、ジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、グローヴァー・デイル、ミシェル・ピコリ、ダニエル・ダリュー、、ジャック・ペラン
 
ジャック・ドゥミが「シェルブールの雨傘」の3年後に作ったミュージカル映画。前作は台詞がすべて歌になっていたが、こちらは通常のスタイルで、ダンスの入り方、群舞など、ここにも出ているジーン・ケリーが主演したアメリカのミュージカルに共通する部分が多い。
 
海辺のリゾートのロシュフォールのお祭りに出演するためにやってきた若者二人(チャキリスとデイル)が入ったカフェの女主人(ダニエル・ダリュー)には双子の娘(ドルレアックとドヌーブ)がいて、それぞれ音楽家とダンサーを目指している。二人の女優は実際に姉妹である。これに少し年配の楽器屋(ミシェル・ピコリ)と音楽学校時代の友だちで売れているピアニスト(ジーン・ケリー)、兵役の休暇で来ている若い画家(ジャック・ペラン)、この人たちの一部は過去に互いにいろいろあったらしいのだが、その恋慕が交錯する。
 
祭りの準備の中でいくつ入る歌とダンスのシーンは楽しいが、そこにペーソスがあるわけではない。
もちろんここでも主役はミシェル・ルグランの音楽ともいえて、前作以上に好きなようにやっており、ジャズの要素も今回の方が多く、その部分は快調である。もっとも一番目立つ場面では自身の作曲ではなくて、デューク・エリントンの「スイングしなけりゃ意味ないね」(It Don't Mean a Thing)、このアレンジは効果的である。
 
本作は当時の新旧、仏米の華やかな配役で、見世物を狙ったのだろう。それ以上でも以下でもないと言えばそうだが、娯楽映画としては悪くない。何人もの相互の恋模様のジグゾーパズルとまではいかないはめ絵が、半分くらいは予想どおり出来上がっていき、最後のピースはそのままか、とおもわせて、やはりというか多分というか、映像では明に示さないで終わるところ、後味はいい。
 
ドルレアックとドヌーブはドラマの設定、流れとうまくあった配役だが、二人とも美人ではあるけれど、日本人が見るからか役の年齢より大分上に見える。それにしてもドルレアックが翌年交通事故でなくなってしまったのは悲しい。
二人に比べ驚きは母親役のダニエル・ダリュー(1917-2017)で、映画の中でも二人の姉と間違えられ、また惚れられるのももっともである。100歳まで生きたらしい、、、
 
ミシェル・ピコリとジーン・ケリーはそれぞれの味を出しているが、ケリー(もうけ役?)はちょっと若作りか。
ジョージ・チャキリスは「ウェストサイド物語」(1961)よりむしろ甘いマスクで柔らかい感じがあった。
 
そして1960年代のフランスだから、衣装、インテリア、道具などモダン・デザインというか、今見ても特に画面の中で映える良さがある。車もルノーの大型トラック、フィアットのオープン・スポーツカーときて、バイクは?というとホンダ・ドリームというのはうれしかった。

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シェルブールの雨傘

2018-09-21 14:34:11 | 映画
シェルブールの雨傘(Les Parapuluies de Cherbourg、1963仏、91分)
監督・脚本:ジャック・ドゥミ、音楽:ミシェル・ルグラン
カトリーヌ・ドヌーヴ(ジュヌヴィエーヴ)、ニーノ・カステルヌオーヴォ(ギイ)、マルク・ミシェル(ローラン)、エレン・ファルナー(マドレーヌ)
 
何度か見ているが、今回は何十年ぶりだろうか。実は、この映画で音楽を担当している、そして誰もが知っているこのメロディーをつくり出したミシェル・ルグランが、偉大なジャズ・ピアニスでもあったということを最近まで知らなかった、ということがあり、それで放送されたことを機会に録画して見たというわけである。
 
この人のジャズ・ピアニストぶりをはじめて知ったのは2014年、ナタリー・デセイがオペラで歌うことからは引退するということで、記念のコンサートがヴェルサイユであり、そこで共演したのがルグランだった。今年、来日して公演をやったようである。
 
冒頭、タイトルとクレジットが並ぶ背景、真上からのカメラの下、様々な色の傘が、様々な方向からあらわれ動いていく見事なショットから始まる。そしていきなり台詞でなく歌で始まり、それが続いていく。そう、これはミュージカルといっても台詞はまったくなしで、すべてが歌という異例のものであった。なれてくると、そんなに言葉は多くなく、早口でもないので、このドラマの進行に自然に慣れてくる。
以前少しやっていたフランス語だが、ここではあまり難しい単語を使っていないので、わかるところもかなりある。
 
今回注意して聴いていると、あのラブソングの流麗なメロディー以外で、たとえば主人公の娘と傘屋をやっている母親が議論・口論する場面など、オペラでいえばレシタティーヴォだが、ここの音楽が全くのジャズ、それもコンボのジャズである。ああ、そうなんだ、とやっと気がついた。
 
そして映画は、ジャック・ドゥミの傑作である。話、映像、カメラ、それら全体の演出、たとえば美術だが、キャストそれぞれの場面場面での衣装の色はシンプルに、象徴的に、対照的にわかりやすく決められており、それは壁紙にもいえる。フランスの街だとアメリカなどに比べ、建物、部屋、通路など小さいから、そういう仕掛けは効果がある。
 
話は、港町の貧しくはないが裕福で余裕があるとは言えない家の、両親がいない男と、父を亡くした娘が恋をするが、母に反対されているうちに、男には兵役になり出征(おそらくアルジェリア)、そのすぐ後に娘は妊娠していることがわかる。母はつぶれそうになった店のこともあり、娘を見初めてくれ事情も理解してくれた金持ちと結婚することをすすめ、手紙も途絶えがちになった男を断念して娘は結婚する。
そして、負傷して除隊した男が帰ってきて、事情を知り、、、さてというわけである。
 
音楽でストーリーにめりはりをつけていることあり、話の進行はテンポよく進み、1時間半で一気に見せる。
さてこの話、どこかに原型があったのでは、と思ったのだが、おそらく「マリウス」(マルセル・パニョル)だろうか。「マリウス」はちゃんとしたものを見てはいなくて、そのことを書いたものを読んだことがあったのか、TVでその話があったのか、かなり昔ののことで覚えていないのだが、マルセイユの話だったと思う。
 
カトリーヌ・ドヌーヴはこれで有名になり、その後はだれもが知る大女優だが、ここでは開花する前という感じである。でもその素質は見抜かれていたということだろうか。その他は適役で、男女とも顔がきれいで嫌味がないのはミュ―ジカルにはいい。
 
さてこの作品、この前に見たのは随分前だというのに、印象強くよく覚えているのはラストシーンのせいである。
除隊後、いわゆる兵隊くずれというか、荒れていた男ギイは亡くなった両親のかわりに世話をしてくれた叔母の死に目にあい、叔母を世話してくれたマドレーヌと結婚し、叔母の遺産をもとにガソリンスタンドを始める。子供もできて迎えた雪の降るクりスマス、偶然ジュヌヴィエーヴが子供を乗せた車で給油に来る。顔を見合わせる二人、少ない言葉でお互いすべてを察する。はらはらして見ているこっちに対し、画面の二人の大人のおもいやりがじんとくる。
 
嘗て見たときはこの場面で、こういう映画でどちらかというと男が不幸に見えるケースがありそうなのに、ここでは反対のようにみえるのが印象的だった。それはともかく、悲恋に終わる映画と紹介されることが多いが、はてそうだろうかと思った。
 
このラストシーンの本当の最後数秒でジャック・ドゥミは見せてくれる。
給油を終わった女が車をスタート、画面の左に去ると同時に、右からプレゼントを買いに行った妻と子が帰ってきて男に駆け寄り三人で喜び合う。そこで引いたカメラの映像で映画は終わる。見事である。
 
ジャック・ドゥミのメッセージ、「悲しいことはおるけれど、みんな生きて幸せになれ」


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エルヴィス・プレスリー:ザ・サーチャー(ドキュメンタリー)

2018-09-12 21:53:33 | 映画
エルヴィス・プレスリー:ザ・サーチャー(Elvis Presley The searcher、2018米、前/後 110/100分)
監督:トム・ジムニー
 
エルヴィス・プレスリー(1935-1977)の生涯を、残っている多くの映像、音源と関係者の証言で綴ったドキュメンタリーである。今年米国で発表されるや評判となったらしいのだが、それは知らなかった。たまたまWOWOWの放送予定表で見つけ、録画して見ることができたのはラッキーだった。
ストーリー全体をまとめるならこの半分の長さでも可能だろうが、そこはプレスリーの音楽、映像を味わいたい人が多いだろうから、こうならざるを得ない。
 
プレスリーが売れ出した時期のレパートリーからすると、この人の音楽はR&Bをベースにしたロックン・ロールではあるけれど、ある程度きいた人には感じ取れるように、もっともとにあるのはカントリーとゴスペルである。特に後者については、今回より強調されていて、ここに出てくるいくつものシーンからも、それは納得できる。
 
彼の死後も含め多くの人がコメントしているように、この人は白人、黒人の間を音楽で乗り越え、融合してしまった、それはアメリカ音楽をその後豊かにしたといえるだろう。あの発声法はその面でもピッタリである。
 
それからここでsearcherつまり探索者、追求者とは彼自身であり、曲を書きはしなかったが、決して作られた偶像ではなく、セルフプロデュースの人であったようだ。
 
メンフィスでヒットを出し始め、若くしてすぐに2年の兵役で西ドイツに、除隊・帰国して多くの映画に出演、それがうまくいかなくなって、晩年あまりにも多くのライブショーと、こうしてまとめられると、ずいぶん過酷な生涯だったようだ。
 
久しぶりにまとめて続けて聴くと、声と唱法に感嘆するし、いつも真摯に(ゴスペルから発しているからか)歌っていることに感銘をうける。
 
関係者の証言も興味深いが、死の少し前、ライブであまりにも家庭を留守にした結果か、離婚した妻のプリシラが的確に多くの場面で語っているのが印象的である。この結婚は彼にとって不幸ではなかったのだろう。
 
こうしてみると、ミュージシャンとして、特に歌手として20世紀最大の一人だったことは疑いない。ただ私にとってこの人は夢中になるよりもう少し落ち着いて聴くうまい人になってしまう。それは「世代」というもので、自己規定するとプレスリーとビートルズの間で、映画「アメリカン・グラフィティー」の音楽がピタリと重なる。
 
でも、もっと一般的な話としてプレスリーがすごいのは、古今東西多くの名歌手が歌ったロックでもポップスでもない曲、たとえば「オー・ソレ・ミオ」(It's now or never)など、誰が聴いても心を打たれるのではないだろうか、ということである。
 
そんなことを考えていたら、本作のクレジットの最後に流れてきたのは、私の前後の世代だったら音楽の教科書に載っていたはずの「さらばふるさと」(Wooden Heart)、そうあの「ムシデン、ムシデン」(ドイツ民謡)である。泣けてくる。
 
なお、一つ珍しい観てもうけものだったシーンは、除隊後に久しぶりに受け入れられやすいよう選んで出演したフランク・シナトラの番組。二人とも相手をうまく立て楽しそうである。シナトラは下の世代の優れた才能の評価とその起用(共演など)がうまい人だった。

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トルストイ「戦争と平和」

2018-09-08 16:58:06 | 本と雑誌
レフ・トルストイ「戦争と平和」工藤精一郎 訳 (一)~(四)新潮文庫
 
海外の文学とくに小説については、中高校生のころつまり1960年前後に、いくつかの出版社から文学選集が出ていて、学校の図書館にもかなりそろっていたし、またよく売れたようで、本屋でも棚の見やすいところにあった。それで、その中から何を読んでいくかだが、それは個々にまつわる耳に入りやすい評判をはじめ、今から考えるととりたてて根拠のない思いこみによってはじまり、それが次から次へと連鎖していったと考えられる。
 
そして、若いうちにこれくらいは読んでおかないと、という思い込みというか見栄もあっただろう。とにかく本が好きという人たちとちがい、そんなわけで、かなり読んだとはおもうのだが、あとから見るといくつも「穴」があったようだ。
 
中年を過ぎるころから、そういう思い込みはなしに、長く高い評価を得ているものを読んでみようと思った。読んだから人生観がどうなるという感じももうなくなっていたし、暇つぶしも悪くないということだったのだろう。
 
そうして、イギリスの女流小説家の作品あたりから、つまりシャーロットとエミリのブロンテ姉妹、ジェーン・オースティン、バルザック、サマーセット・モーム、ヘミングウェイ(これは読み直し)など、読んでみるとやはり視野は広がったとは思うし、他の新しいものや映画などと結びついている(パロディも含め)ことがわかった。
 
さて、そうなってみると、まだ残っている、それもかなり多くの読者を持っていると思われる大物で、おそらくただ一つ穴になっていたのがトルストイである。ロシアの作家では、ドストエフスキーは若いころ読んでいないと恥ずかしいというか議論にならない、多分生きていけないんじゃないかと思い込み、長編は全部読んだし、チェーホフもある程度読んでいた。しかしトルストイだけは一つも雄読まずに歳を重ねてきた。
 
それはどうしてか。トルストイの長編のイメージがやはり理想主義、純粋、人類愛というあたりを明瞭に放射していて、それにかかわるのは単純であり、そこで終わってしまうのではと考えたか、単に若いうちは悪ぶりたい、その方が真実に近いと思っていたか、そういうところだろう。
 
さてそうはいっても、歳とってなにか読むものは、ということで、ミステリを続けてもなにかあまり、とそれ以上理由付けは出来ないが、読んでみようということになった。
 
しかし文庫で4巻、各約700頁である。もともと読むのがおそいからかなりかかった。昨年あたりだったかNHK Eテレの「100分で名著」で取り上げられたり、連続TVドラマ(英)を見たりしていたから、ある程度は準備ができていた。
 
読んでいくと、これらの話(筋)はこの作品の中でとぎれとぎれに出てくる主要登場人物のドラマであり、それ以外にナポレオンとロシア皇帝の戦争、貴族社会のさまざまないさかい、あてこすりなどが、かなりの頁数でつづられ、その部分は読み進むのに苦痛があった。それに、特にこういうところは多くの登場人物の名前、関係も頭に入らない。
 
それでも、アンドレイとマリヤ、ロストフとナターシャ、ピエールという三組の家族、それら相互のからみあいと結末は、それをうまく拾っていけば読んだかいはあるというものだった。
 
しかし長いエピローグで、作者の社会論、戦争論、歴史論をきかされると、つきあうのは大変だった。全体としをて作者は、世の中を動かしていくのは、特に1812年の戦争などでは、ナポレオンがあるいはロシア皇帝がどう考え、作戦を立て、戦いを進めたかではなくて、民衆(兵士もふくめ)がどう動いたか、その結果としてフランス軍によるモスクワ占領があり、その後のフランス軍敗走があったということを言っている。ただ、だからと言って、民衆の動きに何か大きな理論を立てる、つまりその後現れる社会運動を支える理論、イデオロギーに至るということではない。
 
全体として作者が書いたのは、おそらくきれいに整理され理論づけられたものでなくても、ロシアをある意味で誇りを持って、愛情を持って描ききる叙事詩なのだろう。その中でうまく拾っていくとロマンは確かにあるわけで、後の時代にそこは映画やドラマになった。
登場人物では二人の女性、マリヤとナターシャに魅力があり、それに比べると男たちは皆いま一つというところである。作者の面白いところである。
 
さて、これを読んでみると、作者の死(1910年)後しばらくしてロシア革命が起きるのだが、もしその時代に生きていたと仮定すると、この革命には否定的だったのではないか、と想像する。
 
ところで「アンア・カレーニナ」(三巻)、読むことになるかどうか。


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