メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

平成細雪

2018-01-30 10:04:54 | テレビ番組
平成細雪 NHK BSプレミアムドラマ 全4回(各50分)2018年1月
原作:谷崎潤一郎「細雪」、脚本:蓬莱竜太、演出:源孝志
中山美穂(長女蒔岡鶴子)、高岡早紀(次女幸子)、伊藤歩(三女雪子)、中村ゆり(四女妙子)、福士誠治(奥畑啓三)、柄本佑(板倉潤一)
 
谷崎の細雪を平成の世に置き換え、テレビドラマ化したもので、阪神淡路大震災(1995)の前という設定である。
原作「細雪」の戦争の足音がきこえる昭和10年代から平成にとび、同じ芦屋の名家の四姉妹の話というのは無理があると思っていたが、案外最後まで飽きずに見ることができた。
 
これは第一に谷崎の原作がよくできているからだろう。谷崎の作品の中では唯一といってもよいいわゆる風俗小説ではあるのだが、それにもかかわらず半世紀以上後に舞台を変えて生きているのだから。
 
ストーリーの流れは、引込み思案でなかなか結婚できない三女雪子の見合い話が毎回出てくるのと、四女妙子のモダンガールぶり、男沙汰が主であるのは原作とほぼ同じだが、映画版でもそうだったがテレビドラマになると、傾きかけた家をなんとかしようという長女の悩み、家族全体のバランスをとりながら采配をふるう次女の思いなどを、充分に描くの欲ばりというものだろう。
 
特に原作では、谷崎は次女に戦中の知識人たる自らを重ねていることが読み取れたが、それは彼の文章を読む醍醐味ではあっても、映像化は無理というもの。
 
女優の四人はこういうものに合うのかな、と心配したがそうでもなかった。もっとも時代設定がこうなれば、以前の映画とは違って当たり前なのだが。
 
その中で特に感心したのは雪子の伊藤歩で、これまで岩井俊二作品のいくつかでの印象しかなく、この何度も見合いでじれったさを見せる役、美人だけど彼女とは逆に演技はうまくなさそうな女優向きの役はどうかな、と思ったが、きれいで静的な流れを保ちつつ、たまにふっと本心を見せるこの役を実に見事に演じていた。過去複数の映画での雪子役と比べても出色である。



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ヴェルディ 「アイーダ」

2018-01-29 10:58:23 | 音楽一般
ヴェルディ:歌劇「アイーダ」
指揮:リッカルド・ムーティ、演出:シリン・ネシャット
アンナ・ネトレプコ(アイーダ)、フランチェスコ・メーリ(ラダメス)、エカテリーナ・セメンチュク(アムネリス)、ルカ・サルシ(エチオピア王アモナズロ)、ロベルト・タリアヴィーニ(エジプト王)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団(指揮:エルンスト・ラファエルスベルガー)
2017年8月9日、12日 ザルツブルグ音楽祭大劇場 2017年11月 NHK-BSPre
 
ヴェルディのオペラの中では、楽しむのも、評するのも苦手な作品である。エジプトの英雄ラダメスと相思相愛の女奴隷だが実は敵国の王女アイーダ、ラダメスをわが物にしようとしているエジプトの王女アムネリス、基本的にはこの三人の関係で話が進む。先の「ナブッコ」と多少似た三角関係である。
 
しかし、人間関係のドラマとしては起伏にとぼしく、ラダメスとアイーダが逃げようとしてつかまり、処罰が決まるというところで、この構図からいくとしょうがないな、と受け取らざるを得ない。悲劇としてそこで終わるか、という流れを、アムネリスがなんとかしようと再度動く。ここのアリアが聴きもの、というちょっと変則的なもの。
 
それでもヴェルディの円熟期だから、音楽だけ聴けば充実していて、冒頭に続くアイーダとラダメス、エジプト軍の凱旋(あの行進曲)、そしてアイーダとアムネリスの葛藤、上記アムネリスののたうち、など、オーケストラと合唱も効果満点である。
 
こういう「アイーダ」だから、ベッリーニ、ドニゼッティあたりでしっかり順序をふんでヴェルディに取り組み始めたネトレプコ、もちろんほぼ完ぺきで、彼女の声もきれいで、コンディションもよかったようだが、聴いている方としてこの役は物足りない。
 
そこへいくとアムネリスのセメンチュクは圧倒的で、拍手も一番だったように思う。このオペラはアムネリスのためにあると思われてやむを得ない。ここもナブッコと似ている。男声陣はまずまず。
 
オーケストラ、合唱はさすがで、ヴェルディの後期でのウィーンフィルは本当に実力を発揮するけれど、今回もそう。指揮もムーティだし。
 
演出はイラン系の女性だそうだが、舞台装置、動きなど、祭典劇(たしかにアリーナなどで上演されることもあるのだが)というか、舞台形式上演というか、あまりドラマチックではない。だから悪いとも言えないけれど。
 
ところで凱旋行進曲で使われるいわゆるアイーダ・トランペット、ここでも舞台上で吹かれる。この細くて1m以上あるトランペット、ウィーン・フィルだから、おそらくヤマハ製だろう。確か1980年ザルツブルク音楽祭の「アイーダ」で使われるために復元・開発されたもので、それに先立ち1979年にカラヤンがこれを使ってウィーンで録音したもの(LP)が、今でも手元にある。

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ヴェルディ 「ナブッコ」

2018-01-19 16:52:06 | 音楽一般
ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」
指揮:ジェイムズ・レヴァイン、演出:エライジャ・モシンスキー
プラシド・ドミンゴ(ナブッコ)、リュドミラ・モナスティルスカ(アビガイッレ)、ジェイミー・バートン(フェネーナ)、ラッセル・トーマス(イズマエーレ)、ディミトリ・ベロセルスキー(ザッカーリア)
 
ヴェルディの三作目のオペラ(1842年初演)である。このところロッシーニ、ドニゼッティになじんでいて、後者などはヴェルディにつながるところもあるなと思っていた。ただこのナブッコはむしろ力強いところが目立つから、これはこれ。
 
バビロニア王ナブッコがイエルサレムを攻め落とし、ヘブライ人をバビロンに連行する。いわゆるバビロン捕囚である。ヘブライのイズマエーレはナブッコの娘フェネーナと恋仲になっておりヘブライは彼女を人質にして対抗しようとしている。ところがナブッコには奴隷に産ませた娘アビガイッレがいて、彼女もイズマエーレを射止めたいのだが拒否され、ナブッコとの軋轢もあり、自分が王になろうとする。
 
最後は稲妻に撃たれて変わってしまいことをおさめようとするナブッコとアビガイッレの争いになるが、、、
ドラマの要素は一応そろっているのだが、ナブッコが稲妻に撃たれてというきっかけは流れとしては不自然。演出上の効果としてはあるけれど。
それと、二つの国が戦争をしている中で、親族内争いがあり、力関係が刻々変わっていく。それが狭い舞台で次々とというのはどうも違和感がある。メトロポリタンでも数十年ぶりというのは、そういうところもあってかもしれない。
 
まあここは音楽を聴くしかない。レヴァイン指揮のオーケストラは序曲から流麗なところと気合が入って盛り上がるところなど、さすが楽しめる。
またメト売り物の合唱はあのイタリア第二の国歌ともいわれる「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」はもちろんとして(ここだけはなんとその場でアンコールされた)、舞台全体を盛り上げる。
 
今回はドミンゴあっての企画らしいが、それはもうピッタリの姿かたちとともに、歌唱をたっぷりと味わえる。
 
が、この公演で一番の歌唱はモナスティルスカのアビガイッレで、ドミンゴにも負けない強さもさることながら、高音で歌うときのきれいな口跡で、一つ一つの音が周囲の音に埋没せずはっきり聴こえた。これは出色で、カーテンコールもドミンゴに劣らなかった。

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サタデー・ナイト・フィーバー

2018-01-17 14:17:36 | 映画
サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977米、119分)
監督:ジョン・バダム、音楽:ザ・ビー・ジーズ、デヴィッド・シャイア
ジョン・トラヴォルタ、カレン・リン・ゴーニイ
 
このところ、評判になりどんな映画かだいたい知ってはいても見てはいなかったものを、TVで見ることがよくある。これもその一つ。
 
ブルックリンに住んでいるおそらく移民家族の20歳前の息子トニー(トラヴォルタ)が、塗料販売店で働きながらダンスの才能を発揮、ダンスコンテストでの優勝を目指して、ダンス練習場で見つけた年上の女性(ゴーニイ)と、トラブルを重ねながら、進んでいくというストーリー。
 
トニーの周りにいる男女は、皆つっぱりの悪がきで、トニーにもその傾向は少しあるものの、ダンスという目標があるからか、多少距離を置く冷静さはある。
 
全体にこの映画で使われる音楽(ほとんど聴いた記憶があるのはすごいが)に乗って快調なテンポで進んでいき、特に前半はたるみが全くない。男女二人の間柄が微妙になってくると、少ししっとりになるが、最後はあっという間の結末。
 
皆はトニーのカップルが優勝、と騒いで事実そうなるのだが、トニーは2位のプエルトリコの組が上と、トロフィーを譲って出て行ってしまう。これで、ダンスで勝つまでという成功物語、根性物語になることが避けれれていて、この時代と地域の、いい意味での風俗映画になっている。それとダンス自体の魅力も存分に味わえる。
 
ブルックリンの人たちの、特に家族内のやりとりなどは、先の佳作「ブルックリン」(2015)の記憶があったから理解しやすかった。加えて対岸のマンハッタンに対する対抗心は、この二つに加え「ジャージー・ボーイズ」(2014)にもあった。こっちはブルックリンとは反対側だが。
 
トラヴォルタは後のアクションスターとしての姿よりは荒削りだが、この役にはぴったり。相手役のゴーニイは年上のという設定にしても、嘘で固めたところもある見せかけの上昇志向という役柄には、ちょっとおとなしい感じ。
 
それにしてもザ・ビー・ジーズは、ポップでありロックでありダンサブルでありセンチメンタルでありという多面的な音楽性、才能を発揮していて驚きである。この映画の中でも、全く違うシチュエーションで使われる一見違う音楽が、よく聴くと根本が同じという、なかなかのもの。
 
ところで「小さな恋のメロディ」とこれという対比も面白いが、以前から感心しているのは、キャロル・キングの大ヒットアルバム「Tapestry(つづれおり)」のトリビュートアルバム、つまりオリジナル・アルバムと同じ曲と並びで、いろんなミュージシャンがカヴァーして作られたもので、中でもザ・ビー・ジーズが歌っている「Will You Love Me Tomorrow?」が素晴らしい。


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渡辺京二「逝きし世の面影」

2018-01-09 20:44:03 | 本と雑誌
逝きし世の面影 渡辺京二 著  
1998年に刊行され、2005年に平凡社ライブラリーに入った(約600頁)。
著者とこの内容、そして分量からいって、いい意味で奇書である。
 
著者は1930年生まれで主に編集者畑を歩んだ人のようだ。「逝きし世」とは江戸時代後半から明治の途中まで、つまり主に19世紀の日本のことで、その時代の主に市井の生活、労働、身分、女性、植物、風景、信仰、祭礼などなど、政治を中心とした流れではない、また文化(アート)から見たものではない、著者からすれば「文明」というべきものを、この時期に西欧から訪れた人たちが見て書いた著述から、その「面影」として描き、それはここで終わってしまったものであると説いている。

訪れた外国人は、オールコック、ハリスなどよく知られた人たちを含め、かなり多くにおよぶ。
彼らの著述によれば、日本は初対面の外国人にも友好的で愛想がよく、あらそいごとを好まず、日常生活諸般を大事にきれいにし、笑顔が絶えず、特に子供の可愛らしさは他の国に例がない、など、これまで普通に知識として植え込まれがちな面とはちがう様相を描き出す。どうも、武士階級などの支配層は、諸般かた苦しかったが、庶民はそうでなくて、朗らかに過ごしていたらしい。もちろんそうでない面はあるにしても、これだけの外国人がそう描く資料を残していたからには、そういう面はあったのだろう。
 
著者がはじめの方で書いていることだが、いわゆるオリエンタリズムつまり美術などにおける東洋趣味、エキゾティシズムなどが、西洋のキリスト教文明、それから出てきたヒューマニズムを前提とする一方、人種主義的、帝国主義的なものであると、サイードがその著書「オリエンタリズム」で批判してから(サイードのオリエントは中東、アラブだが)、今日の日本の多くの論客は、上記の日本賛美をオリエンタリズム的幻影として批判する一方、同じ彼らがその一方で書いている日本批判については鬼の首を取ったように引用し、まったく無批判に受容している、ということは、納得できる。
 
著者が一時代の終わった文明というとき、この文明は明治に入ってからの西欧志向の近代化による社会の変化と、西欧と違うことは否定したいという思考形態で、おそらく忘れられてきたのだろうし、同じ動きは先の敗戦後も再度続いたと言える。
 
いくつかの視点で分けられた章に出てくる訪日者による資料はかなり多く、似たようなこともあって饒舌で、斜め読みで章末のまとめを読んでもいいと思ったこともあるが、これはそれだけの証拠をそろえて説得性をもたせるということからはやむをえないだろう。資料から採録された多くの挿絵は楽しい。
 
なお偶然だが、どうもサイードに縁があるようで、このところ続けて出くわす。その「オリエンタリズム」も同じ平凡社ライブラリーに入っている。
 
また、読んでいる途中で「蝶々夫人」をアップしたが、これは本書に少し言及があるロティ―の「お菊さん」をもとにしている。だが、本書を読んでいると、この時代、日本人は死を恐れなかったらしいが、それでもあの状況で自死はしないだろうと思った。オペラが長く人気を得ていることからも、またこれから「ミス・サイゴン」が出ていることからも、西欧人には鑑賞に不都合はないのだろうが、あのミンゲラ演出で、誤解された「日本」でなく、主人公の理想とする世界、結末として表出することが、一つの解として納得できる。
 
著者は終わった文明と言っているが、少しだけそうでもないということを巧妙に言っているようでもあって、我々のどこかに「記憶の底」というものがあるとすれば、そこに時々現れてくるような気がするのである。それはこの本を読んだ人のよろこびであるだろう。




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