メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

木田元「哲学散歩」

2015-02-24 10:23:35 | 本と雑誌
「哲学散歩」木田元著 2014年10月 文藝春秋社
 

昨年亡くなった著者が哲学とくに哲学者に関するさまざまな話をわかりやすく雑誌に連載したもので、ある書評を見て読む気になった。
 

私の読書でもっとも欠けているというか苦手で遠ざけられているのが哲学で、カント、ヘーゲルといったいかにもかたくて難しそうなものはもちろん、キルケゴール、ニーチェなどもすぐに放り出したし、哲学というよりなにか特定の主張が強いもの、たとえば若いころ多く読まれていたサルトルなどにもあまり近づかなかった。
 

まあ、デカルト、パスカル、ベルグソンなどで、文学系の人たちが論じたりした箇所はつまみ食い、せいぜいそんなところである。
そうはいっても、カミュの「シーシュポスの神話」は、何度か読みかけ、結局それに引用されている世界にうといからか、最後までいかなかったが、そういう意欲を起こさせるものがあって、相性があったというのか、本質的なところは理解したと考えている。
 

著者は苦労人のようで、その歩みのように謙虚なアプローチと、解釈、説明は楽しめた。それで哲学理解が進んだわけではないにしても、古今の哲学者はどういう人たちで、どうやって、また相互にどう競って書をものしてきたか、少しこの世界に近づけたと思う。
 

ところで、木田元といえばハイデガー、そしてこのところ本や映画でハイデガーと因縁の深いハンナ・アーレントに再会しているが、これはまったくの偶然、でもこういう偶然は悪いことではない。

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ヴェルディ「ファルスタッフ」(おかえりなさいレヴァインさん)

2015-02-17 21:20:57 | 音楽一般
ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」
指揮:ジェイムズ・レヴァイン、演出:ロバート・カーセン
アンブロージョ・マエストリ(ファルスタッフ)、アンジェラ・ミード(フォード夫人)、ステファニー・ブライズ(クイックリー夫人)、ジェニファー・ジョンソン・キャーノ(メグ)、リゼット・オペローザ(ナンネッタ)、パオロ・ファナーレ(フェントン)、フランコ・ヴァッサッロ(フォード)
2013年12月14日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2015年2月WOWOW
 

「指輪」の「ワルキューレ」までやって、腰と背中の治療のため休んでいたレヴァインがようやく復帰、その最初の演目がこのファルスタッフの新演出であった。ヴェルディ最後のオペラ、そしてこの人には少ないコメディというのも、この機会としてはなんとなくふさわしい。この複雑にできているけれど、最後は人生賛歌というオペラ、レヴァインの本領発揮であった。
 

年齢とともに、ヴェルディの息が詰まる悲劇は音楽的には評価できても敬遠することが多くなってきたが、作曲家がよくとりあげたシェイクスピアでも、これは喜劇である。いろんな欲望に忠実なファルスタッフ、それに困って周囲が策略を練り、彼をひっかけ懲らしめるわけだが、それに他の人たちの互いのやっつけあいが絡んでいる。
 

ヴェルディ最後の、そして終幕の音楽が高度なフーガ、などということからこのオペラ、これまで高級なあつかいをうけていたようにも思う。これまで何度か見たのはライブ・録音もすべてヨーロッパのものであったが、この内容、人世賛歌ということからは、メトロポリタンがもっともふさわしいのではないだろうか。期待どおりの出来である。
 

女性陣はメトが育ててきた人たちが主で、ブライズ、ミードの大きな体躯も舞台にぴったりだし、「ウェルテル」でシャルロットの妹ソフィーをやっていたオペローザはやはりかわいい。
もちろんなんといってもファルスタッフのマエストリ、このひと巨体と言い、陽気、豪放な演技といい、ファルスタッフそのもの。現在、世界でファルスタッフ役を独占しているようだ。最近メトに出てくる人としてはめずらしく、インタヴューで英語をしゃべらない(イタリア語で通す)。
 

カーセンの演出は1950年代の設定、これはぎりぎりうまくいった。ただあの有名な洗濯籠を窓から放り出す場面は、前後の動きなどちょっと辻褄があわないようにも見えた。
とはいえ、こまかいところに目がいって、印象が散漫になる上演もあるのだが、今回はうまくいった。
 

ところで、こういうみんなに諮られ、懲らしめられる女好きというパターンはよくある。すぐ思い浮かぶのはアルマヴィーヴァ(フィガロの結婚)とオックス(バラの騎士)。前者は新しい時代の正義・モラルに負けたわけだが、後者は言ってみれば新しい世代に負けたということだろうか。そこへいくとファルスタッフは懲らしめられたけれども、「人生は冗談」というメッセージを残し、皆も納得するという、世紀末の、そしてこの大作曲家最後の作品としては、しあわせなものだ。最後のフーガ、一見レクイエムの怒りの日なんだが、それが一転、、、
 

歳とって、もう一度、生きるというただそれだけについて、集中する、ということでいけば、文学でもいくつか思い浮かぶ。トーマス・マン「ヴェニスに死す」もコメディではないがそうだし、日本では谷崎潤一郎「鍵」「瘋癲老人日記」、川端康成「眠れる美女」など。こういいう連想が湧いてくるのも、こっちの年齢のせいかもしれない。


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ブルージャスミン

2015-02-16 15:14:49 | 映画
ブルージャスミン(Blue Jasmine 2013米、98分)
監督・脚本:ウディ・アレン
ケイト・ブランシェット、アレック・ボールドウィン、サリー・ホーキンス
 

現代アメリカの浮ついた一見セレブ的な人たち、そのスノッブな意識、生活、また移民社会、そういものがさまざま入り組んだ中で、進行するにつれ焦点を絞っていき、細部を面白く際立たせながら見せていく、苦いけれどもまずまずうまくできたウディ・アレン・ムーヴィー。
 

ジャスミン(ケイト・ブランシェット)とジンジャー(サリー・ホーキンス)は血のつながりがなく、別々に同じ親に里子としてとられた姉妹。結婚していたが一人になったらしいジャスミンがニューヨークからサンフランシスコにやってきて(この機中のシーンが面白い)、ジンジャーのところに転がり込む。ジンジャーには二人の子供がいるが、彼女も夫と別れていて、今つきあっている男がいる。
 

ジャスミンは大学在学中に投資・事業家(アレック・ボールドウィン)につかまり上流そのものという生活を送っていたが、夫は女性に関しても発展家でそれに悩まされ、その後事業でやりすぎ逮捕され挙句の果てに首を吊ってしまう。このあたりのことは少しずつ筋の中に断片的に織り込まれ、ああそうだったの、やっぱりと、観客に少しずつ刷り込んでいく手法がとられている。
それにしてもジャスミンの、ほぼ一文無しになってもセレブ意識が抜けない、これにはジンジャーもあきれているのだが、生活・振るまいの細部はおかしく笑ってしまう。サンフランシスコに来る時も、バッグはエルメスのバーキン、いくつものスーツケースはルイ・ヴィトンというわかりやすさ。
 

結局ジャスミンも仕事を覚えなくてはならず、行動を始めるが、お嬢さん意識が抜けない。その上、妹同様に、誰か高収入のいい男はいないかと常に意識している。このあたりもあきれるが、この社会は、、、と考えれば、映画としては面白い。
そういううまい見せ方の中で、気づくのは、結局この映画はジャスミンが次第に人間として壊れていく物語だということ。見ていて思い出したのはテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」。アレンも当然それを予測しているはずだ。
 

とはいえジャスミンはそれの主役であるブランチ(姉)とはちがって、帰ってくる前は本当に金持ちだったし、それほど嘘をついているわけではない。それでも表面には出てこない意識の中での壊れ方は共通するところはある。ただラストシーンを見ると、このあと生きてはいくだろうな、とは受け取れた。
 

この映画もそうだが、アレンがアメリカを描いた映画では、貧困という要素は大きく取り入れていないようだ。それを入れるとさらに複雑になるし、そうしなくてもいいということだろう。それは納得する。
 

ケイト・ブランシェットはこれでついにオスカー(主演)をとった。大好きな女優の一人だしそれはめでたいことだったが、こういう変な役じゃないと取れない傾向はあるのはどうも、、、「アビエイター」(2004)でのキャサリン・ヘプバーン役で助演のオスカーを取ったが、こっちはまともだった。
 

アレック・ボールドウィン、意識的に太目になったんだと思うけれど、ぴたりとはまっていた。
ジンジャー役のサリー・ホーキンスがとってもいい演技で光っていた。知らない人だけれど、アカデミーの助演にノミネートされたそうで、当然だろう。
 

これだけ詰め込んで、実質(クレジット除いて)90分というのはいい。ウディ・アレンの腕だろうか。

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ラッシュ/プライドと友情

2015-02-10 09:52:41 | 映画
ラッシュ/プライドと友情(RUSH 2013米・独・英、124分)
監督:ロン・ハワード、脚本:ピーター・モーガン、音楽:ハンス・ジマー
ダニエル・ブリュール(ニキ・ラウダ)、クリス・ヘムズワース(ジェームズ・ハント)、アレクサンドラ・マリア・ララ(ラウダの妻マルレーヌ)、オリヴィア・ワイルド(ハントの妻スージー)
 

1975年~76年のF1グランプリで、ニキ・ラウダとジェームズ・ハントというレース・スタイル、性格とも両極端・対照的な二人のレーサーが繰り広げるドラマである。自動車にそれほど関心がなくても、当時ものごころついていた多くの人には知られていた二人で、このあたりからホンダ(エンジン)の再度参戦時期、F1は今から想像できないほど注目の的だった。
この時期の資料、代表的な車は残っているが、これだけの映画にするのは簡単でなかったはず。
 

この2年がとりわけ注目されたのは、同世代の二人だが、冷静で計画的なラウダはうまくチームに取り込み実績を上げ、驚くほど早くフェラーリに選ばれ1975年に年間チャンピオンになる。一方、私生活もやりたい放題のくせに走れば速い天才肌のハントが次第に追いついてくるがそれでもかなり引き離された2位だった1976年の夏、ドイツはニュルンブルクリンク、1周23㎞と通常の何倍もあり、F1では危険視されていたコースで事件は起きる。自身でレース中止を提唱しながら多数決に至らず開始されたレースでラウダはスピンし炎に包まれかろうじて命をつなぎとめるという目にあう。おそらくこの報道はほとんどの人が知っていただろう。このあと同様なものといえばアイルトン・セナの死くらいだろうか。
 

ところが、ここからがすごいストーリーで、顔が焼けただれたままのラウダは、年間の点数で追い上げるハントをいTVで見ながら無理とも見えるリハビリに耐え、なんと1ヵ月半後に復帰してしまう。そしてハントがあと3点に追いすがった最終戦は日本グランプリ、雨の富士スピードウェイ。
 

この二人とそれぞれの妻となる女性のほかは、特にどうという演出もない。そして二人とも見ている方は好きになれるという感じには描かれていない。それでも第3の主役ともいうべきレースシーンの魅力で、映画としては面白く、痛快である。そしてレースとしてはどうもという日本グランプリの顛末を二人のドラマのクライマックスとして描ききったのは見事だった。さすがロン・ハワード。
 

なお、英語ネイティブでない人には、吹替え版で見ることをすすめる。眼の動きの測定によれば、字幕だと70~80%そっちを注視しているそうで、おそらくこういう動きが早い映像の魅力はとらえがたいのでは、と思う。

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ヴェルディ「椿姫」(グラインドボーン)

2015-02-06 21:26:03 | 音楽一般
ヴェルディ:歌劇「椿姫」
指揮:マーク・エルダー ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、演出:トム・ケアンズ
ヴェネラ・ギマディエワ(ヴィオレッタ)、マイケル・ファビアーノ(アルフレード)、タシス・クリストヤニス(ジョウジュ・ジェルモン)
2014年8月5日 グラインドボーン歌劇場 2014年10月 NHK BS
 

このところ椿姫の映像を見る機会が多い。もちろん傑作だし、人気も高いが、ある意味で再評価なのかもしれない。
ずっといろいろ見てきて、これは男と女、男の父のドラマというよりはヴィオレッタの生涯、その思いに集中した作品であり、それを前提にした舞台が望ましいと考えるようになった。最近の演出、演奏もその傾向が強い。
 

このギマディエワのヴィオレッタはなかなか聴かせるし、見入ってしまう。ヴィオレッタは高級娼婦であり、一途で純情な女でもあるわけで、風貌、演技、歌唱がそろうということは、実は難しいのだけれど、彼女はぴたりであった。
あまり大げさな動きをするわけでもなく、歌唱もきれいなロングトーンが魅力で、それをうまく使い、ヴィブラ―ト控えめで劇的な表現が出てくるから聴いていて疲れない
 

アルフレードとその父ジョルジュはまずまずだが、役柄がいま一つ感情移入できないものだから、これでもいい。長年聴いていると、ジョルジュ・ジェルモンという人は本当にとんでもない人で、あの「プロヴァンスの空と海、、、」なんてアリアに以前聴き入っていたのは、ヴェルディの作曲はともかく、なんだったんだろうと、今では思う。
 

ジェルモンがヴィオレッタを訪ね、なんとか息子と別れてくれ、それ相応のことはするからと、懐から札(小切手?)をヴィオレッタに差し出すが、彼女はそれを振り払う。落ちたあとそれをジェルモンに拾わせる演出はそういう役柄を強調するためだろう。あまりこんなこと考えていると、楽しめないけど。
 

マーク・エルダーの指揮は手堅いが、ところどころ、たとえば中盤にヴィオレッタが一人でアルフレードへの思いを爆発させるところで通常の倍以上に低音を効かせる。ライブならこういうことは効果的だし、やっていいだろう。
 

演出では、パーティ場面など普通より小さく暗めの高級ナイトクラブみたいなところ、郊外の邸宅もほとんど背景なし、ヴィオレッタに注意集中させるということからすれば、はずれてはいない。
 

なお、グラインドボーンの劇場、音楽祭は始まってからちょうど80年とかで、創設者ジョン・クリスティ、音楽祭の特徴、これまでの歩みなどをまとめた番組があわせて放送された。イギリスの玄人好みのちょっと地味な音楽祭というイメージを持っていたが、新人を積極的に起用するという原則もあるようで、これははじめて知った。

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