メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ぎゅ ぎゅ ぎゅ ー (駒形克己)

2020-01-31 20:51:16 | 本と雑誌
ぎゅ ぎゅ ぎゅ ー  駒形克己 株式会社KADOKAWA
 
グラフィック・デザイナー駒形克己の絵本である。私が知っている限りでは二作目。
先にアップした展覧会の売店で見つけた。
 
このところ評判の「ごぶごぶ ごぼごぼ」は少し前から保育園でやっている絵本読み聞かせで試してみたが、今回新作の「ぎゅ ぎゅ ぎゅ ー 」もやってみた。どちらも年少組だが、前作をやったときはおそらく園児が1歳になってしばらくだったが、今回はそれから半年たっていて、ほぼ全員2歳だろう。
 
どちらもしかけ絵本だが、今回の方が色の組み合わせ、頁内の配置、リズム、動きなどが多彩であるように思われ、事実反応が豊かで、表情、ちょっとしたしぐさなどにそれがうかがえた。この時期は数か月で劇的に変わるから、そのせいがあるのかもしれない。
 
作者がいうように、胎内で見聞きしたものとのつながりがあるのだろうか。結果からみるとそうなのだろう。
ともあれ、やってみて初めてわかったことで、これは貴重な経験だったし、うれしいことであった。


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ビッグ・ケーヒル

2020-01-21 19:07:46 | 映画
ビッグ・ケーヒル (Cahill、1973米、103分)
監督:アンドリュー・V・マクラグレン、原作:バーニー・スレイター、撮影:ジョセフ・バイロック、音楽:エルマー・バーンスタイン
ジョン・ウェイン(ケーヒル)、ジョージ・ケネディ(フレイザー)、ネヴィル・ブランド(ライトフット)
 
ちょっと変わった設定の西部劇。男やもめの連邦保安官ケーヒルは仕事熱心だが、二人の息子(18くらいと12くらい?)の面倒を見切れないでいる。そんな中、息子たちはならずものたちと接触ができ、銀行強盗の手助けをしてしまうが、主犯格の大人四人は間違って保安官につかまり、冤罪で絞首刑になりそうになる。息子たちはなんとかしようとは思うが、本当の犯人フレイザーたちに脅されており、金の隠し場所をあかして渡すことを強要される。
 
ここから追跡は息子たちとケーヒルそして手伝いにやとうコマンチのライトフットの二組となるが、フレイザー一味もしたたかで、後半ははらはらさせる。
 
息子たちのことを思いながら、それまで面倒をみてやれなかった弱み、そういう情愛を基底にしながら、それでも場面展開、ガンプレイを中心にしたバトルは、その始まり、進行ともドライで素早く、ハードボイルドといってもいい色調である。
 
ウェインのライフル中心のガンプレイ、あいかわらず見事だし、途中で馬が撃たれ、調達した荒馬をなんとか乗りこなすところがあるが、考えてみればウェインは馬の扱いをちょっと見せたいということが時々ある。
 
カメラはなかなか達者で、典型的だがスピード感、画面展開など感心したので、このバイロックという撮影監督を調べてみたら、ずいぶん長生きして多くの娯楽映画を撮ったようだ。この1973年公開の作品、外のシーンが明るくてきれいなのだが、この人の意図なのか、このころのフィルムやカメラの品質によるのか、よくわからないけれど、結果としては気持ちよかった。
 
ジョージ・ケネディはいい役者だけれど、この悪漢には風貌が良すぎる。
ぶつくさ言いながらケーヒルを助けるネヴィル・ブランドがなかなかいい味を出している。
 
ところで、主人公の名前がなぜケーヒルというあまりない名前なのか、原作者など検索してみたがわからずじまいだった。ただ、西部にはアイルランド系の人が結構いるからそうかもしれない。
日本でよく知られているオーストラリアのサッカー代表で日本の天敵ティム・ケーヒルはアイルランド系らしい。

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江藤淳/蓮實重彦「オールド・ファッション 普通の会話」

2020-01-17 14:30:13 | 本と雑誌
オールド・ファッション 普通の会話 江藤淳/蓮實重彦 著 講談社文芸文庫
 
その存在を全く知らなかったこの対談、二人が1985年4月8日東京ステーションホテルに一泊し、列車の往来を見聞きしながら、夕食、ブランデー、チョコレート、客室での会話、朝食ととめどなく悠々と会話を続けた。こういう奇書が再録されるのはこの文庫、なかなかのものである。まあ200頁ちょっとで1700円というのはいい値段ではあるが。
 
そしてこの取り合わせも私には不思議なもので、蓮實重彦(1936-)については仏文学者だがどちらかというと映画評論家のイメージが強く、またそれなのに東大総長にもなったということくらいしか知らないから、さてどうなのか、と読み始めた。
 
江藤淳(1932-99)が書いたものは膨大で、そのごく一部しか読んでいないが、それでもかなりになり、一世代ちょっと下のものとしては少ないほうではないと思う。
 
多分鹿島茂だったかな、江藤の「・・・と私」というタイトルが苦手と言っていた。私もそうで、「アメリカと私」、「戦後と私」、「文学と私」、、、よく考えればそういう視点はありうるが、そういう大きな概念と「私」を対置して題名とするのはたいそうな、という感じで、この人のある一面を見せられるような気がした。「夜の紅茶」、また愛犬を表に出して書くというのも、こういう人としては気持ちが悪かった。
 
それから、男にマザコンの気味があるのは普通だが、その出し方がなにか言いたいことの本質にからめられており、ちょっと引いてしまうこともあった。とはいえ「成熟と喪失 母の崩壊」、「一族再会」などは読んだ。引っ越しや自分の年齢などからのいわゆる断捨離でほとんど処分してしまったが、かなり読んでいるはずである。
 
江藤を読んで面白かった、痛快だったのは、今はもうあまり見られない「こてんぱんにやっつける」ところであった。私の少青壮年期、各新聞の文芸時評や論壇時評、それに対する反論などで、異論、評価に値しないとの指摘などが飛び交い、それは面白かったし、世代としてはその若手の代表格が江藤であった。
 
そういう江藤に、わたしからすれば江藤ほど保守ではない蓮實はうまく受けてたち、自分も楽しみながら、話を広げていっている。それが「普通の」なのか、一部エクリチュールの話になったりするとよくわからないところはあるのだが、なんとかまた戻ってきて、まとまっていった。
 
ここの話で一つ中心になるものをあげれば、やはり昭和十年ころの、政治情勢からいくとかなり緊迫したように今からはみられる世の中が、一般の生活人にはのびのびしたところがあり、それはそこで生活した創作家のものに反映しているということだろうか。この二人の今にとってもそうなのだが。
 
それとやはり面白いのは、この時よりかなり前から江藤が容赦しなかった大江健三郎についてで、大江の師渡辺一夫への言及、これは蓮實もふくめて、へえーという感じだった。
 
ところで本書は週刊文春に長期にわたって毎週一頁連載されている坪内祐三「文庫本を狙え!」で12月に取り上げられたものである。ここで紹介されてその存在を知ったり、見直したりして読んでみた文庫本は少なくない。
その坪内祐三氏が1月13日に亡くなった。61歳、「靖国」も読ませたし、この世代で福田恆存に言及、評価する貴重な人でもあった。まだこれから本の紹介、書評など楽しみにしていたが。
謹んで冥福を祈りたい

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ふたたびの「近代」

2020-01-15 21:25:45 | 美術
ふたたびの「近代」 鎌倉別館リニューアル記念展
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
2019年10月12日(土)~2020年1月19日(日)
 
ここの本館は建物の老朽化と地主である鶴岡八幡宮との契約更新不可ということから閉館となり、葉山館がそのかわりの中心であったが、葉山館も改装で6月まで閉館、このコンパクトな鎌倉別館の改装がちょうど終了したため、収蔵品をセレクトして近代を振り返るということらしい。
 
ここの収蔵品は、特に日本の洋画については非常に優れたものだから、気が向いて訪れてみた。開催に気がつかず、あやうく見逃すところだった。
洋画を中心とする近代日本美術を概観する54点、ほとんど一人一点ずつで、このあたりはよく見てきたから、もう一度確認するにはちょうどよい。
 
もともと好きなものとの再会(古賀春江の「窓外の化粧」とか)もあったが、今回こうしてみると、抽象的な作品のいくつかが印象的だった。こういうものはある程度の数が並べられるのが通常だが、今回は一つ一つ違う傾向の抽象画がぽつんぽつんと入っていて、吉原治良、村井正誠、阿部展也、斎藤義重の作品など、強いインパクトを受けたし、理解も進んだと思う。
 
この別館、今後もこの大きくはないスペースで、一年に一度はなんらかの収蔵品展をやってくれるとうれしい。葉山館とちがい駅(鎌倉)から歩いて行けるところだし。



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グルック 「オルフェオとエウリディーチェ」

2020-01-13 21:35:15 | 舞台
グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」
指揮:ディエゴ・ファソリス、演出:ロバート・カーセン
フィリップ・ジャルスキー(オルフェオ)、パトリシア・プティボン(エウリディーチェ)、エムーケ・バラート(アモーレ)
イ・バロッキスティ(管弦楽)、フランス放送合唱団
2018年5月28・31日 シャンゼリゼ劇場(パリ) 2019年12月 NHK BS
 
先にアップした「天国と地獄」の後に続けて放送されたもの。再放送らしいが、最初がいつだったか記憶はない。
この物語はオペラばかりでなく、演劇、映画など数多くの表現がなされてきた。「天国と地獄」もそのパロディである。
グルックのこれはおそらくオーソドックスな物語なんだろう。この放送録画を見ることができてよかった。
 
グルックが生きた時代は、バッハ、ヘンデル、ラモーなどと重なるけれども、音楽でドラマを描くということからすれば、トップだと思う。この時代の典型的な音作りはあるものの、それがくどかったり、マンネリになったりせず、近代オペラにつながるものを持っている。
 
オルフェオはカウンター・テナー、この高声域の男声はこれまでしっくりこなかったのだが、今回はそうでもなく、グルックの管弦楽の中で、こういう役割で表現させるのであれば、一つの楽器としてもこの音域でよかったのかと思った。通常の男声テノールではオーケストラとの対照が強すぎるのかもしれない。男が歌っているからちょっと珍しく感じるので、後の時代でよくあるように男装の女性に歌わせれば、いわゆるズボン役として受け取ってしまうから、考えようによっては変なものである。宝塚の男役に例えるのは行き過ぎか?
 
演出は全体に黒の衣装と背景、影絵調の照明で、コーラス以外はオルフェオとエウリディーチェ、それにアモーレだけだから、このほうが観るものも集中できてよい。
 
一つ、演出カーセンの解釈なのだろうか、オルフェオが我慢できなくなって振り向いてしまうところ、その少し前にエウリディーチェはそれを予期するかのように白い布を身に纏い始め、神の裁きが下る。こういうタイミングにしたのは、二人の同じ思いがこの結末に結びついたことの表現なのだろうか。ちょっとどきっとした。
 
さて、始まりから出ずっぱりのジャルスキー、これが若者の思いを乗せて見事。プティボンも出てきてから強い表現で聴かせる。この音域だと女声の方が強く感じられるが、これはグルックの意図したものだろう。
愛の神アモーレは女性のバラート、オルフェオの立場にかかわるところは男装、エウリディーチェのフィナーレ近くでは女装で、それぞれ衣装はほとんど同じ、これはなかなかうまい演出だった。バラートはとてもチャーミング。
 
考えるに、やはり振り向いてしまう、見てしまう、人の愛はこうでなければいけないんだろう。日本の「夕鶴」とか、似たようなものはある。
 
この作品のまともな上演といまごろ初めて観るのも、これだったら悪くない。


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