メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

桑原あい 「Opera」

2021-04-29 09:43:09 | 音楽
桑原あい:Opera  CDアルバム( 2021年4月発売)
デヴュー10年目、初めてのピアノソロアルバムだそうだが、そうだったか。
 
かなり前から聴くのが好きになり聴いてきて、ソロもと思ったが、確認してみたらコンサートだった。
2016年7月の今回と同じ東京オペラシティ リサイタルホール2018年7月代々木上原Musicasa2019年3月目黒パーシモンホール、など。
 
全11曲のうち5曲は、彼女を評価する人たちの選曲だそうだ。聴いてみてフィットするものもあるが、出来れば本人の一方的な考えでやってもよかったのではないか。例えば同じビル・エヴァンスでもあまりにも有名な「ワルツ・フォー・デビイ」でなく何かほかのものとか。
 
最初が「ニュー・シネマ・パラダイス」、エンニオ・モリコーネは好きなんだなと思う。2015年のアルバム「LOVE THEME」の冒頭は「アマポーラ」だった。モリコーネ、今回は入っていないがミシェル・ルグラン、レナード・バーンスタインなどの映画音楽に関する趣味は、親しみがわく。
 
いくつかのしっかりした(?)もの以外では、私も彼女からその存在を教わった天才ギタリスト/ピアニスト ジスモンチの「ロロ」、ライヴでも何度か聴いたけれど、今回も素晴らしい。

10曲目はおや?と思った「ザ・バック」(クインシー・ジョーンズの背中)、このところコンサートのアンコールはたいていこれだが、こうしてアルバムでしっとりと聴けるのはいい。今回はこれがフィナーレか。
 
そしてなんとアンコールの位置づけ(?)には、モンキーズの「デイドリーム・ビリーヴァー」、カヴァーがかなり多い曲だが、こうしてダイナミックに豪華に弾かれると、奏者、聴くもの双方、いいデザートという感じだ。
 
ところで、ジャズピアノのソロというのはありそうでそんなに多くないのではないか。そう広く聴いていないので自信はないが、聴いた記憶があるのは、セロニアス・モンク、アンドレ・プレヴィンくらいである。
 
ピアノはそれだけで音楽の多くを構成できるけれども、ジャズではやはりセッションがあって、その場に向かって弾いていくというのが自然かもしれない。
ソロだとどう弾くのか、弾いてそれが自身の頭の中に返ってくるのでは、聴くものにとってあまりなじめない。
 
それでも桑原あいの場合、ライヴでもそうだったが、音を、音楽を外に解き放っていく心地よさがあり、それが結果として聴くものに効いてくる。自己撞着のようなところはない。
こくいうソロ・アルバムは繰り返し聴いていけそうな感じがする。





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ミラノ・スカラ座2020/2021シーズン開幕ガラ公演

2021-04-25 14:46:15 | 音楽一般
ミラノ・スカラ座2020/2021シーズン開幕ガラ公演
指揮:リッカルド・シャイー、演出:ダヴィデ・リーヴ ェルモル
2020年12月3~7日、ミラノ・スカラ座 2021年3月 NHK BSP
スカラ座のシーズン開幕は華やかな行事であることは知っていたから、ガラ公演もあるのだろうと3月末に録画しておいていずれと考えていたけれど、観て驚いた。
 
2020年、イタリアは新型コロナで、近隣諸国と比べても大変な被害にあい、なんとか持ちこたえつつあったとはいえ、年末はとても通常公演という状態ではなかった。が、普通であれば無観客公演で、というところだが、このガラはもっと先を言ったハイブローなものだった。
 
どの時点でこういう映像を企画し、準備を進めたものであろうか。多くの名曲・名場面が斬新な背景、演出とカメラワークで続く。時に間に入るのは、俳優や作家による名作の一部のナレーション、シェークスピア、パヴェーゼ、グラムシ、、、普通の司会者はいない。そして当然入る観客の拍手による中断もない。何かイタリアにとってオペラは何であるかが、ずしんと効いてくる。
 
「リゴレット」、「ドン・カルロ」、「仮面舞踏会」、「オテロ」と続くヴェルディ、「蝶々夫人」、「トスカ」、「トゥーランドット」のプッチーニ、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」には思い入れがあるようだ。そのほかドニゼッティ、ロッシーニ、ビゼのいくつか。
多くは死と向き合い、弱きもの、女性へのハラスメントと向き合う、そしてそれを描き切るところから、この不幸な時代を生き抜く力を見つけ、人々に与えたいということだろうか。
意外だったのは「蝶々夫人」で、若いころは日本人として気恥ずかしい印象があったが、次第に、特に全曲を聴くと、これはプッチーニ円熟期の優れた作品を思うようになった。今回は何と二回の登場で、前半に自害前の「さようなら、かわいいぼうや」、後半にはかなく消えるのだが一縷のエスペランサ(希望)として「ある晴れた日に」が歌われる。
 
「ドン・カルロ」のカルロの嘆き、ロドリーゴの死、エボリ姫の悔悟と続き、前記「さようなら、かわいいぼうや」(オポライスの名唱)と死を直視させた後、ここに少し味を変えて「ワルキューレ」第一幕「冬の嵐は過ぎ去って」でほっとさせるところもにくい。ジークリンデは前回アップした「バラの騎士」でマルシャリンを歌ったニールントで、そういうポジションなんだと知った。たしかにワーグナーでもいいだろう。
 
歌手たちはいずれも世界のトップクラスで、よくこれだけ集まったなと思う。意気に感じたというところだろうか、そして多くは一場面だけだから力一杯である。もっともイタリア人はほとんどいないと思う。往年の名歌手ではドミンゴだけ出てきて、元気なところを見せていた。
 
最期にコメントがあったが、このガラは1946年、戦後復興なったスカラの開幕でトスカニーニが久しぶりに登場、指揮したのが始まりという。そこでは、イタリアにとっての見方も敵もなく、死を悼むということだったらしい。
そう、ずっと聴いていると、イタリアにとって対コロナは戦争であり、オペラは戦闘であり、武器であるということだ。なにしろ恒例の最初の国歌(ヴェルディ)の歌詞には「スキピオの兜」とあり、コロナはハンニバルなのだろうか。
 
ある人からきいたことだが、イタリアは経済などめためたになって、政府が何にもできなくなっても、なんとか陽気な日常を保っている、それはマフィアがうまくやるからだ、そうである。後の方はともかく、死に向き合い、音楽が生きる力をというのは、外から見ても感じるところは大きい。
  
とにかく、こういうものを観ることが出来て感謝である。これだけの曲をマスクしたままで指揮をやり切ったリッカルド・シャイーさん、ごくろうさまでした、これこそ本当のブリオでした。


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リヒャルト・シュトラウス 「ばらの騎士」

2021-04-19 09:33:50 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
指揮:ズービン・メータ、演出:アンドレ・ヘラー
カミッラ・ニールント(侯爵夫人マルシャリン)ギュンター・クロイスベック(オックス男爵)、
ミシェル・ロジェ(オクタヴィアン伯爵)、ネイディーン・シェラ(ソフィー)、ローマン・トレーゲル(ファニナル)
2020年2月13、16、19日 ベルリン国立歌劇場 
            2021年4月 NHK BSP
 
「細雪」の次に「ばらの騎士」、「時」が主人公の一人という点では出来すぎの順になってしまった。
舞台、映像をあわせると一番多く観ているオペラかもしれない。
 
今回見ていて、第一幕からマルシャリンが感じる時の流れが強く感じられた。それは登場人物の配置、動きにも出ているし、その意図を受けたカメラワークにも出ている。この作品、最初に観た時からしばらくは第二幕のオクタヴィアンとソフィー、銀のばらといった陶酔するような美しさ、それに敵対するオックス男爵を機知でやりこめ二人は一緒になるが、それを見送るマルシャリン、といった受け取り方であった。
その後次第にいろいろわかってきて、オックスの立派な背中の悲しさとか、時代、世代の交代の哀歓とか加わってきた。
 
今回、ますこれまでのの他の演出とくらべ、あのハプスブルグ時代の豪華な背景装置、衣装ではないことが一つ、そしてオックスを中心とした騒ぎはあるが、これも舞台上の動きと見え方よりはオックスの歌と演技に集中しているようだ。
 
映像では各幕の冒頭に台本作者ホーフマンスタールのコメントが流れ、これは興味深かった。第三幕では、オックス男爵の内面も見てほしい、オクタヴィアンと全くちがうというわけではないのだ、ということだった。
 
そう、オックスは没落を感じつつ、つかみ取りかけたものをあきらめるのだが、オクタヴィアンは時間的には逆にマルシャリンとその世界を失うわけで、そういわれるとこの次は初めからそこに注意してもいい。
 
指揮はズービン・メータ(1936-)、最初から椅子に座っているけれど、考えてみたらこのとき83歳、20代でLAのオーケストラにデビューして評判になり、NHK第2放送(旧いね)でブラームスだったか聴いた記憶があるが、いつの間にかこんな歳になってしまった。でもこれは素晴らしい指揮、シュトラウスの交響詩は若いころからよく指揮していて、レコードもベストセラーになっていた。カラヤンのあとシュトラウスではこの人といってもいいのかもしれない。「ばらの騎士」もカルロス・クライバーのあと、これだけ充実したオケは久しぶりで、メータに感謝したい。
 
歌手ではニールントとクロイスベックが、上記の位置づけからしてもぴったりしていたし、楽しめた。
久しぶりに思い出したが、はじめて観たのははじめての海外旅行、パリのオペラ座だった。たしか到着した日で、睡魔と闘いながらだったと思う。指揮はシルヴィオ・ヴァルヴィーソ、マルシャリンがクリスタ・ルートヴィッヒ、オックスはハンス・ゾーティンとメモに書いてあった。
 

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『細雪』とその時代( 川本三郎)

2021-04-14 15:31:41 | 本と雑誌
『細雪』とその時代
 川本三郎 著 中央公論新社(2020)
 
ある程度の年齢になってから、日本の近代文学では谷崎潤一郎の小説を好むようになってきた。なかでも「細雪」は読む前の予想とことなり、その味わい、独特の充実感は格別だった。
 
本書はその「細雪」の舞台である阪神すなわち大阪の船場から芦屋、神戸にわたる舞台について、作品、登場人物に沿いながら、詳述していく。時代は昭和10年代前半、日中戦争は始まるが、米国との開戦前である。
 
谷崎は関東大震災(大正12年、1923年)の後、東京から阪神間に移住している。著者によると、震災で東京が打撃を受けた分、関西の経済が発展したが、昭和10年あたりになると、栄華を誇った名家も傾いてくる。主人公四姉妹の蒔岡家も例外ではなく、それがこの小説全体のトーンになっている。もちろんそのいわばほろびの美しさの描写は谷崎ならではである。
 
本書ではそういう細部、登場人物、舞台となった様々な場所、またそれらが谷崎自身と関係者のどういう部分を反映しているのか、そしてそれは時代のうつりかわりとどのように交錯するか。詳しい資料と解釈で書かれており、面白く読めた。
 
映画も二つくらい見ているけれども、思い出しながらなるほどと納得した場面もいくつかあった。
著者は三女の雪子がにがてだという。物語はもう年頃を過ぎようとしている雪子の見合い話の連続ともいえるが、まだるっこしくもあり、私も同様である。それに比べると末娘(こいさん)の妙子はいわばモダンガールで、仕事、恋愛について自立してゆくが、そのたひどい目にもあう。著者は妙子を評価し、この滅びゆく美の物語の中での、その意味を説く。
 
さて、「細雪」はこのようにすぐれた風俗小説なのだが、著者も書いているように二女幸子の眼を通して描かれている。そして幸子の夫のモデルが谷崎らしい。私の感想だが、それは夫の外面であって、幸子こそ作者谷崎だと考える。軍の忌譚に触れ途中で掲載続行できなくなったのは、、それが察せられたのであろうが、作者が女性の内面というのは、処分をそこまでにするという谷崎の巧妙な策ではなかったか。
本書では著述の主たる内容とバランスから、そういう文学論までは踏み込んでいないが、いたしかたないだろう。
 
実は著者とははるか昔に面識がある。川本氏は私の中学高校の2年先輩で、図書室の委員会で何度か話をうかがった記憶がある。氏は委員長で、先輩とはいえ、聞いたこともない作家の名前がいくつも出てきた。その一方で落ち着いた、どこか老成したところもある話し方だった。それはこの本のトーンにも感じられ、プラスにはたらいている。
本書では当時の服飾、美容などかなり詳しいが、それは亡くなった恵子夫人(著名なファッション・ライター)の影響もあるのだろうか。



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フォードvsフェラーリ

2021-04-13 16:47:12 | 映画
フォードvsフェラーリ ( Ford v Ferrari、2019米、153分)
監督:ジェームズ・マンゴールド
マット・デイモン(キャロル・シェルビー)、クリスチャン・ベール(ケン・マイルズ)、カトリーナ・バルフ(モリー・マイルズ)
 
ある自動車評論家が新聞に書いていた記事から見る気になった。2時間半は長いが、期待以上であった。
第2次世界大戦後1960年代、若者たちを相手にした自動車商戦で苦境に立っていたフォード、イメージアップのためル・マン24時間に乗り出す。
 
大企業フォードらしく、レースでは強いが経営は危なくなっているフェラーリを取り込もうとするが、創業者エンツォ・フェラーリはフォードを醜い工場で作られた醜い車と酷評、初代の創業者フォードは立派だったが当時の2代目は、とこけにする。しかもフォードとの話は買収話が進んでいたフィアットに高く買わせるための策略だった。
 
このとき交渉に行ったのが後にクライスラーに移るリー・アイアコッカ。アイアコッカは米国人でただ一人勝ったことがある(車は英アストン・マーチン)キャロル・シェルビーを採用してレーシング・カーの開発を進めていく。
 
そこに、シェルビー同様ちょっと外れていたドライバーのケン・マイルズが加わり、フォードとの意見の相違で苦闘しながら、1966年のル・マン、ここからの1時間は演技、カメラ、音響と見るものを飽きさせない。

ゴールでの信じられない(有名な話らしいが)エピソードは、その時のフォードの体質を反映したもの。
シェルビーは一人だが、ケン・マイルズの妻(モリー)と息子の話が、うまく交錯している。
レースの細かいシーンは、詳しい人にはたまらないだろう。
 
シェルビーのマット・デイモンは、内に抱えた複雑な思いを極端に見せないところがさすがである。これで見ている人にはわかる。
 
ケン・マイルズのクリスチャン・ベール、ドライバーとしてはちょっと華奢だけれども、冒頭から最後まで想定内ではないものを出していくキャラクターを、終わってみて気がつく見事な演技だった。
 
ケンの妻モリーのカトリーナ・バルフはモデル出身と聞くとなるほどだが、きれいなだけでなく、しっとりしたケンのよき理解者をうまく演じていた。
 
タイトルからするとフェラーリについてもっと突っ込んで描いていると期待する人もいるだろうが、それはない。ル・マンで打ち負かす相手として、レース走行と隣のピットの騒ぎを見られるにとどまっている。
 
何か不機嫌そうなケン・マイルズ、こういうタイプは?と思っていたら、しばらくして思い出した。映画「ライトスタッフ」のチャック・イエーガー。
 

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