メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

転々

2007-11-29 22:45:37 | 映画
「転々」(2007年、101分)
監督・脚本:三木聡、原作:藤田宜永
三浦友和、オダギリジョー、小泉今日子、吉高由里子、岩松了、ふせえり、松重豊
 
これまでに見た三木聡の作品としては、「亀は意外と速く泳ぐ」(2005)、「イン・ザ・プール」(2005)、「図鑑に載ってない虫」(2007)についで4本目、これが一番一般にも受け入れられそうである。
 
金がなくてぐうたらしている学生オダギリジョーの部屋に、突然借金取立て屋の三浦友和が入ってきて80万円返せとせまる。ひとまず帰るがその後意外な提案があり、それはその代金を三浦がやるかわりに霞ヶ関まで何日かかるかわからない散歩に付き合えということである。
  
なぜそんな話になったかは早くから明かされるのだが、その変なプロットも散歩という形をとることにより、ほんのりした味わいと、ゆったり見ることが出来るペースになる。
  
もちろん三木作品だから、いたるところに小さなそれも筋とは関係ないギャクが出てくる。それはドラマの要素ではなく、飽きないためというと本末転倒だが、映画としてそれでもいいいかと思ってしまう。
 
それはこれまでいくつかの映画を見ているということもあるし、とりわけ「時効警察」シリーズを見てきたからだろう。背景にある小道具、掲示板の落書きなど、見落とすまいと見てしまうから不思議である。
岩松、ふせ、松重というおなじみトリオも、ドラマの進行とはほとんど関係ない漫才みたいなものだが、常に頭には「時効警察」を思い浮かべながら見ることになってしまう。
 
映画館でも、おそらく「時効警察」を見ているであろう人たちのくすくす笑いがたびたび聞こえた。そして見てない人にはあの駐車違反摘発中の婦人警官になぜあのようにカメラが向けられたか、わかるはずはない。
 
三木聡は今後、より映画らしい映画と、本当に彼独自としかいいようのないものの二つのものを、併行してやりそうな気がする。
 
この映画の主役は三浦友和で、まあ実にぴたりである。喜劇をやろうという気を微塵も見せないところがいい。オダギリジョーは彼でなくてはという役ではないと思うが、法科の学生で時々法律について何か言ったりすると「時効警察」の気分、それもこの映画では面白い。
三浦友和と擬似家族になる小泉今日子、吉高由里子も外れ方とまとまり方が絶妙。吉高由里子はまだ子供だった時効警察のときとは随分イメージが変った。
 
散歩のコースは吉祥寺あたりからはじまりどちらかというと城北で、なじみは少ないが、画面として落ち着きがあっていい。味わいを出しているカメラもいい。
そしてラストは、わかっていた結末とはいえその処理の仕方はあっといわせるもので、やられてしまえば見事。三木聡は他の作品でも、ラストで後味がさらっとしたものにするのがうまい。
 
でも今のところ、一番の三木ワールド全開は「亀は意外に速く泳ぐ」だろう。
 
一つ私的なことで、散歩に出発するときに三浦友和が履いていた買ったばかりのジョギング・シューズは、私が持っているのとまったく同じニュー・バランス!
かなり古いモデルのはずだが、どこか安売りででも買ってきたのだろうか。わざわざそうしたのであれば、この役のイメージにぴったりで、なかなか芸が細かい。

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幸福のスイッチ

2007-11-25 22:11:25 | 映画
「幸福のスイッチ」(2006年、105分)
監督・脚本:安田真奈
上野樹里、本上まなみ、中村静香、沢田研二
 
上野樹里が出ているからというだけの動機で見たもの。
和歌山県郊外の電気屋に育った三姉妹の真ん中の子(上野樹里)が売るよりは修理、面倒見中心の父親(沢田研二)に嫌気がさし、志望のアート系の仕事を求めて上京するが、芸術家気取りで仕事先で衝突し、辞めたところに妹(中村静香)から大げさな連絡が入り帰ってくると、姉(本上まなみ)は妊娠中だが無事で、実は父が骨折し店の仕事を手伝ってほしいということがわかる。
当然、仕事のやり方には戸惑うし、勝手な要求をする客ともなかなか折り合わない。しかし、こんな電気屋さんも昔はあったよね、と見る人も少しずつ納得するから、結末までの成り行きはだいたい想像するとおりで、次第に彼女も理解を示していく。
 
こういう話だから、こういう地域の景色、人間模様にほっとしていい気持ちになる反面、ドラマ、映画としての見栄えには欠けている。
がしかし、飽きないで最後までみることが出来るのは、この親子(母親は故人の設定)4人の出演者と、淡々とした脚本、演出、カメラのせいだろう。
特にカメラは、場面ごとに固定でアングル変更、ズームもなし、そしてTV画面を見ていてもわかるのは広角レンズで焦点深度が深いせいか背景までしっかりと見えること。これが見るものに安定感を与えるのではないか。
最近の日本映画では、よくある風景を隠さず撮っても映画としてみすぼらしく見えなくなった。これも進歩だろう。
 
上野は予想通りうまいが、彼女でないとという役柄ではない。本上も違和感がない。はじめて見る三女役の中村静香には見ているうちに存在感も感じられてきた。いい素材である。
 
沢田研二の父親は、娘達が辟易しそうなところを始めとして全般にうまい。しかしもう体重は元に戻らないにしても、この人がこういううまさだけになってしまったのかな、と感慨を覚えてしまうのだ。

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ブーレーズのマーラー第8

2007-11-18 22:08:17 | 音楽一般
マーラー「交響曲第8番」
ピエール・ブーレーズ指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団、合唱団
(DG 2007年録音)
 
こう言ってはマーラーにもブーレーズにも失礼だが、想像したより素晴らしい。
マーラーの他の交響曲のように、夢想から苦悩があり、闘争があり、そして音楽はねじれ、高揚し、最後解決に向かうか諦念の静寂に落ち着く、などどいうものはここにはない。「ファウスト」の一部を下敷きにしたところはあるけれど、全体として神の賛歌、天国の賛歌であって、音楽の宇宙的とでもいうべきスケールの大きさ、美しさを味わうべきものだ。
 
だから、深い感動が残るというわけではないし、特に長い第二部は退屈になるところもある。それでもこの曲を一回目は歌詞対訳を見ながら聴き、二回目は音だけを聴いてみると、いい気持ちになってくる。おそらく作曲者の意図もそのあたりから遠くないのではないか。
 
ブーレーズはこれでマーラーの交響曲とそれに準ずるもの全てを録音したことになる。長生きしたからといえばそれまでだが、1970年にこの作曲家の「嘆きの歌」を録音したときから、いずれ5、6、7、9番あたりを録音してくれないかとは思っていたものの、なかなかかなわなかった。ところがその後録音しだしたら、この指揮者に似合いそうもないメルヘン的なものまで、結局全部そろってしまったというわけである。
 
この第8は、ブーレーズの耳のよさ、オーケストラ、合唱全体のバランスを整える能力が本当によくいきた演奏で、その結果気持ちのいい音楽になるのはマーラーの力だろう。
例えば第2部の冒頭は、場面も音楽も「パルシファル」を想像させ、本当に美しい。
 
こういう晩年の夢見る大曲というとシューベルト最後の交響曲を思い浮かべる。ただマーラーはこの後あのなんとも深遠な第9を書いたのに比べ、シューベルトという人のすごいのは、あの一曲で全て表現しつくした感があることだろうか。
 
オーケストラがシカゴ、クリーブランド、ウイーンなどこれまでのものと違い、バレンボイムの手兵シュターツカペレ・ベルリンというのは驚いたが、この大人数、金もかかる録音には、プロデュース上の事情もあるのだろう。コンサート直後のスタジオ録音とのことである。
 
因みに買って聴いたCDは輸入盤で、歌詞の対訳はショルティ指揮シカゴ(1972年録音)のLPについているものを取り出した。録音はなんとウイーン・ゾフィエンザールで行われた。
この曲、全曲聴いたのはこの2つだけである。第2部の演奏時間はほぼ同じであるが、第一部はショルティの27分に対しブーレーズの方が3分短い。

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モーツアルト・ピアノソナタのダイナミスム

2007-11-11 22:49:51 | 音楽一般
フリードリッヒ・グルダの「the GULDA MOZART tapes Ⅱ」の1枚目を聴き、先にK.310について書いた。
2枚目を聴くのはかなり後になってしまい、ようやくK.457、K.570、K.576の3曲を聴いた。
 
このあたりになると、曲想は大きな建築物を見るような、あんまり遊びがない、メロディも重厚、男性的といえばそう、となってくる。実は曲の感じが異なる1枚目ケッヘル300番前後の演奏でも、他の作曲家よりは重厚で、華やかさを抑制している感があったのだが、それは当然こちらではもっと当たり前ということになる。
  
ただ最初おやっと感じてから少したつと、むしろこのモーツアルトのピアノ曲というものは、同じ作曲家の他のジャンルと比べもっぱら音の粒のダイナミスム中心で出来ているということに気がつく。
よくモーツアルトの曲は、多くの部分でスケールで駆け上がってまたターンして降りてくるとか指摘されており、その単純さはその通りだがそれがなんともいえない効果をもたらす、他の人のものではないモーツアルトのものということが感じ取れる。
  
それをグルダは大変な技術正確なコントロール、自己抑制で出してくる。これは表現というより作曲を音にしたということなのだろうが、それにしてもなんという力学の妙の再現だろうか。
 
こういってしまうと、味を付けないで正確に弾けばと考えるのだが、ゆっくりした2楽章、例えばK.570のそれなど、音の粒が力学的に空間を動くさまをスローモーションで正確に表出して見せたとでもいえるだろうか。これは大変なピアニスムであり、こんな演奏は始めてである。
 
そしてモーツアルトだけであろう、こういうダイナミスムだけでピアノソナタを聴かせるというのは。
 
グルダはベートーヴェンのピアノソナタ全集でも、どちらかというと意識して味をつける、演奏していて出てくる感興を出していく、といった演奏ではなく、少し早めのテンポで進行のダイナミスムから何が出てくるか、その可能性の追求に面白さがある。
 
ただここで思うのだが、モーツアルトのピアノソナタには、こうやってダイナミスムの面白さ、美しさはあるけれども、それに加えてベートーヴェンのピアノソナタに見られる自然に沸き立つもの(それは時にユーモアだったりする)はない。
 
それが、なかなか聴く頻度が少ないということになるのだろう。自分で弾く人はちがうかもしれないが。

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マイルス・デイビス自叙伝

2007-11-02 22:43:46 | 本と雑誌
「マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ、Ⅱ」(マイルス・デイビス、クインシー・トループ、訳:中山康樹)(宝島社文庫)
Miles:The Autobiography   by Miles Davis with QuincyTroupe
マイルス・デイビス(1926-1991)がクインシー・トループのインタビューにこたえたものから作られた自叙伝で、発表は死の2年前である。
大変な分量で、しかも詳細を極めているが、これがマイルスの記憶力によるものなのか、トループがかなり準備してマイルスがそれを認めたのかわからないが、どちらにしてもマイルスの記憶力は相当なものである。
 
読むきっかけになったのはNHK「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で菊地成孔がマイルスを語ったこと。 ここで注意をひかれたマイルスの、黒人の中で上層階級の出身、父親の強い影響、クラシックを含めた音楽的教養、次から次へと音楽を革新していき同じところにとどまらない、などはここでもその通りである。
 
クラシック系統で彼が聴いたり楽譜を読んだりしていた作曲家が、ラベル、シェーンベルク、ベルク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ハチャトリアン、バルトーク、シュトックハウゼン、、、とくると驚く。これはジュリアード中退だからというわけではない。
 
マイルスの音楽についてはリアルタイムで追っかけていたわけではなくて、「クールの誕生」から「カインド・オブ・ブルー」までの数枚を名作LPとして聴いたのが「ビッチェズ・ブリュー」(1969)のころからであり、しかも「ビッチェズ・ブリュー」自体を聴いたのは最近という、なんとも自叙伝をの読者としてはあまりふさわしくない。
 
それでも、マイルスの音楽への対し方、新しいということの押さえかたは、とても説得力があり、そして一緒に音楽をやった人たちに対するコメントは実に落ち着いていて、冷静に評価はするが、悪口をいうことはまずなく、それは非常に気持ちよい。これはなかなかないことである。中で、ドラムスのマックス・ローチ、トニー・ウイリアムスについての評価は予想通りで納得。
 
ただこの中で彼の麻薬への耽溺とその脱却への闘いの記述が、同じく麻薬をやっていた仲間の記述とともに詳細に延々と続くのは、読み続けるのに苦労する。しかし、これを書いたことによって全体の重み、信憑性は確保されたのだろう。これがあってそこから脱却したからえらいとか音楽に何か反映されたとか、そういうことは何も語らず、言い訳もしていないのには感心した
 
「ビッチェズ・ブリュー」以降の録音をこれから積極的に聴きたくなってきた。

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