メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワーグナー「タンホイザー」

2019-08-30 09:56:59 | 音楽一般
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」
指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:トビアス・クラッツァー
ステファン・グールド(タンホイザー)、マルクス・アイヒェ(ウォルフラム)、リーゼ・ダヴィドセン(エリーザベト)、エレナ・ツィトコーワ(ヴェーヌス)
バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団
2019年7月25日 バイロイト祝祭歌劇場、2019年8月NHK BS
 
音楽はいいけど、この放蕩と悔悟、歌合戦、巡礼、女性の自己犠牲と救済、というワーグナー特有の組み合わせは、どうもぴんと来ないところがあった。
それが、この思い切った演出だと、はてなはてなと思いながら、タンホイザーの内面、本音をより深く想像しながら聴くことが出来る。
 
想定した舞台と衣装通りでないのは、タンホイザーとヴェーヌスそしてその一派、羊飼いあたりで、エリーザベト、ウォルフラムとその仲間、領主などは従来とそう変りない。冒頭序曲の間、タンホイザーはヴェーヌスが主催するサーカスの巡業団として田舎道をバスで走りながら、舞台に到着する、という流れでびっくりさせられる。
 
ヴェーヌスは常にこの位置づけで通され、彼女とタンホイザーとの関係は常に観客に感じとられており、それが快さも持つ官能的な音楽とともに効果的である。タンホイザーの最後がそう納得いかない異教者としても、この流れは理解できるものである。
ウォルフラムとエリーザベトの関係暗示も面白い。
 
タンホイザーのグールドは強さ、輝きもあって立派。エリーザベトのダヴィドセン、こういう強い声もありかなとは思う。ウォルフラムのアイヒェはまずまず、ちょっと小粒だが、この演出ならこれでもいいのだろう。
 
何といっても見せて、楽しませてくれたのは、ヴェーヌスのツィトコーワ、妖艶な姿で誘惑するタイプでなく、動きも表情も機敏で、音楽に合わせて様々にタンホイザーに絡んでくる。
 
ゲルギエフの指揮は、全体にダイナミックな歌い方で通していって、飽きさせない。さすがというべきか。
 
タンホイザーを見て、またオランダ人なども思い出すと、ワーグナーにとって、女性像、女性の自己犠牲は、この二作あたりでは半端で、行きつくのはイゾルデ、ブリュンヒルデということになるのだろう。
バイロイトも時にこういう演出にトライすることが、作品とこのイベントを継続することに寄与するだろう。

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ABC殺人事件(アガサ・クリスティー)(千回目)

2019-08-21 15:39:21 | 本と雑誌
ABC殺人事件 (The ABC Murders)
アガサ・クリスティー  堀内静子訳 ハヤカワ文庫
 
少し前から読み始めたアガサ・クリスティー、「そして誰もいなくなった」、「オリエント急行の殺人」に続いて三つ目で1935年発表、著者円熟期最高傑作の一つと評価されている。
 
なにしろ三作しか読んでないから、大したことは言えないが、プロット、描写、叙述(文体)など、たいへん優れたもので、しかも娯楽ものとして読み進んでいくのは快適であった。
 
すべてが人間的な葛藤を背景にしたものではないであろう連続殺人、それも場所と犠牲者の頭文字がA、B、Cと警察、ポアロに予告され、その通りに進む。さてこれを単なる殺人狂と見るか遊戯と見るか、そしてポアロの言葉は?とうまく興味をつないでいる。友人・相棒のヘイスティングズ大尉の観察による叙述をメインに、この人がいないところの流れは三人称でしかもその節の題名は「ヘイスティングズ大尉の記述ではない」というこれまで見たことのない書き方である。「こう書いていればいいでしょ?」と大御所がにやりとしている感がある。
 
大尉の叙述というのには、多分微妙なところでイギリス人の感覚が反映しているのだろう。一方のポアロはベルギー出身で、フランス語がネイティヴだから、ここに微妙なイギリスと大陸の対照を作者は織り込んでいるのだろうが、当方それはよくわからない。原語で読んだとしてもどうだろうか。
 
ところで、変な話しだが、実は読む前から犯人は知っていた。少し前からNHK-BSでBBC作成のドラマが続けて放映され、その中の一つが本作で、1時間X3回というかなり長いもの。今回原作を読んで比べてみると、ドラマの方は相当やりたいようにやっていて、登場人物、場面をジグゾーパズルのように提示、あるいはフラッシュバックさせ、また原作には暗示もされていたかどうかという性的関係も多く、いわゆるサイコパスの世界もうかがえた。また日本人から見ると多くの登場人物の見分けも大変だった。
それで、これは犯人だけはわかっていても、原作を読んでみてもいいかと考えた次第で、それは正解だった。
 
ドラマでポアロを演じるのはなんとジョン・マルコヴィッチ、TVドラマシリーズのちょっととぼけたポアロとは全く違うが、本作でそう違和感はなかった。もっともドラマの進行の中で、ポアロが多分第一次大戦中に大陸で聖職者を務めていて、戦闘の中を生き延びたトラウマが出てくるのは、シリーズの他作品を読むとわかるのだろうか。確かに「みなさん」というときに「メザンファン(mes enfants)」という口癖からは、そうかなと思わせるものはある。
 
今回放送された他の2つは「検察側の証人」と「無実はさいなむ」で、おなじみの主人公はいないが、後者で金持ちのちょっとうさんくさい父親を演じるのはこれも大物のビル・ナイ、こういう役にはぴたり、であった。
  
さて、このブログ、途中で編集ソフトの形が変わり、最初からいくつめかがわかりにくくなってしまったが、おそらくこのアップで千回目である。2006年から始め、当初は1年100回ほどだったから10年でと思ったが、ペースが落ちてきて13年かかった。
身辺雑記はここに入れず、見たり、聴いたり、読んだりしたものについて、印象、評価など、特に基準は設けなかったが、あまり時間が経たないうちに、頭の中の備忘録的に書いてきた。
何年か前のものにリンクを張るとき読んでみると、しっかり書いてるなと感心してしまうところもあり、だんだんいい加減になってきたかと思う。
 
世の中には松岡正剛の「先夜千冊」などというすごいものがあり、比ぶべくもないが、それでも千回いくと、肩が軽くなった感はあり、これからはゆっくり構えようと考えている。

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エル・ドラド

2019-08-12 18:13:41 | 映画
エル・ドラド (EL DORAD 、1966米、126分)
監督:ハワード・ホークス、脚本:リー・ブラケット、音楽:ネルソン・リドル
ジョン・ウェイン(コール)、ロバート・ミッチャム(J・P・ハラー)、ジェームズ・カーン(ミシシッピ)、アーサー・ハニカット(ブル)、エドワード・アズナー(ジェイソン)、クリストファー・ジョージ(マクロード)、シャーリーン・ホルト(モーディー)
 
このところジョン・ウェインが出る映画は比較的よく見るようにしているが、これは西部劇の楽しさに関して、あらゆる要素をそなえ、次から次へと油断のならない仕掛けが連続する、快作といってよい。さすがハワード・ホークスである。
 
ジョン・ウェインという人は射撃を別にすれば身のこなしが早いわけではなく、そして感情の表出も激しくはない。そうでありながら、次第に納得させられ、次の動きを期待していく、という流れを作ってしまう役者である。
 
この映画、縄張りを広げようとしているジェイソン一家、その憂き目にあいそうな一家と出会ったときに間違って一人を殺してしまい、自分も傷を負ったガンマンのコール、友人の保安官JPは女に振られてどうしようもない飲んだくれになる(ミッチャムははまり役)。ジェイソンが雇ったガンマン、それに関連して現れたがコールにつくミシシッピ、経験豊富で味を出すブル。役者はそろって、しかも弾が背中に残っているコール、アル中のJPというハンデも展開の面白さになっている。終盤は予想どおりにいくかと思わせて、、、
そうして最後は男の友情をきちんと成立させている。
 
細かいところで動きの工夫が面白い。たとえば銃の下手なミシシッピが悪漢の馬群の前につまずいたように飛び出し、馬が通り過ぎた途端に彼らを背後から撃つ。馬は人を踏まないから、というのが若者の理屈で、なるほど。
 
序盤、コールがジェイソン一家と話をしに行って、そこはひとまず帰るところ、すぐに後ろを見せて撃たれる危険を避けるため、相手に向いたまま馬をかなりの距離バックさせるところ、ウェインの馬術が見ものである。
 
音楽は私の好きなネルソン・リドル、ミシシッピ(?)が歌うちょっと謎めいた歌、ドタバタした展開にちょっとした詩情をうまく加えている。

繰りかえして言うと、見終わってしばらく、西部劇はこれでなくちゃ。
 
ちょっと気がついたことで、西部劇によく出てくる典型的な店の看板にSALOONとあった。辞書には、大広間、談話室という意味が本来だが、アメリカでは酒場という意味もあるようだ。そう言えば、私が知っているウェスタン音楽がかかる店の名前にも、この単語が入っている。


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坂本繁二郎展

2019-08-06 21:32:11 | 美術
坂本繁二郎展 没後50年
練馬区立美術館 7月14日(日)- 9月16日(月・祝)
 
坂本繁二郎(1882-1969)の名前はこの人の生前たしかに記憶がある。ただその後、描く対象や画風から、必ずしも理解したとは言えず、高い評価も何故?という感があった。
それでも今回は没後50年ということから、その全体を眺めておくのもいいだろう、と出かけてみた。
 
坂本が久留米の出身ということは知っていたが、同じ久留米出身の青木繁(1882-1911)と小学校同級ということは初めて知った。その後やはり同郷の石橋正二郎が二人の作品収集に力を注いだこともあり、今回の展覧会にもブリヂストン美術館で見た記憶がある青木の作品が参考として展示されている。こうしてみると、やはり私には青木の絵の方が訴求力がある。

坂本といえば牛の絵のイメージが強いが(牛は坂本自身であるといわれたこともあるそうだ)、ここで見ると少し遅い渡欧の前が牛、その後は馬、そして静物、視力が弱くなった晩年は月が多くなったようだ。

それでも描き方は共通するところが多く、なにか擦りガラスを透したような茶や青が多用されていて、どうしてもぼおっとした感じが抜けない。モネのように、少し離れてみるとはっきりしてきて浮き上がってくるという風でもない。
 
ただ試しに、より近く寄ってみて、瞳の開きかたを変化させてみようとしているうちに、「水より上がる馬」や果物、卵などの静物などが少し鮮明になることはあった。これが何か本質的なものなのかどうかはわからないが。
 
今回初めて見るものとして、能面を描いたいくつかには、何かほかの対象とはちがった不思議な印象があった。
 
人物画としては「帽子を持てる女」、何度か見た記憶があるが、そうよく描く題材ではないためか、むしろ画家がうけた刺激と発揮した力が感じられた。
 
結果として、これまでの印象とそう変わったわけではないが、こうしてまとめて展示してくれた甲斐は、少しあったということができるだろう。



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ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

2019-08-05 09:15:05 | 映画
ボルグ/マッケンロー (BORG McENROE, 2017、スウェーデン/デンマーク/フィンランド、107分)
監督:ヤヌス・メッツ
スヴェリル・グドナソン(ボルグ)、シャイア・ラブーフ(マッケンロー)ステファン・スカルスガルド(レナート)、ツヴァ・ノヴォトニー(マリアナ)
 
ビヨン・ボルグがウィンブルドン5連覇をかけた1980年のジョン・マッケンローとの決勝戦に至る半生を、その冷静沈着なイメージの裏に隠された神経質でピリピリした性格、生活とうまく作られた試合のシーンが中心、彼と対照するようにマッケンローも描かれるが、こっちはよく知られているイメージの裏側を掘り下げるところまではいっていない。
 
私もこの時代、へぼな素人テニスをちょっとやっていたし、ブームでもあったから、ここに名前が出てくる選手たち、それぞれのラケット、ウェアなど、記憶に残っていて、時間を引き戻された感はある。
 
やはり中心は、ボルグの苦闘で、4連覇したものにしかわからないものの次なる挑戦というのは、本当に納得させられる。
 
こういう映画ではキャスティングが難しいとは思うのだが、ボルグは本当にそっくり。この人は「ストックホルムでワルツを(2013)」でなかなかいい味を出していた。一方、マッケンローの風貌はちょっとかわいすぎるが、左利きのサーブなど、体の動きはよほどよく練習したのだろう、感じは出ていて、記憶がよみがえってきた。彼の有名なお父さん、よく似ている。
 
この決勝戦、なんといってもハイライトは第4セット、マッケンローがマッチポイントを何度か切り抜けて臨んだタイブレーク、ここでもマッチポイントに何度もなるのだが、ここをマッケンローは切り抜ける。ファイナルセットはマッケンローも疲れたのか、ボルグがわりあいすんなりとってしまう。
 
この30分を超えるタイブレーク、TVで夜中に生で見てはいなかったかもしれないが、録画放送では堪能し、保存していたビデオは何度か見た。どちらかというとマッケンローのファンだった。
 
二人はこの試合ののち、友人なったそうだ。それぞれ引退して、1990年代だったか有明テニスの森で開催されたエキジビションで楽しそうにプレイする彼ら(ジミー・コナーズもいた)を見たのを思いだす。
 
さて、見る前に思い出したのだが、この映画を創った人の頭の中にはおそらく「ラッシュ/プライドと友情(2013)」が少しはあっただろう。こっちはF1でのニキ・ラウダとジェームズ・ハントの年間チャンピオン争いで、時代もボルグの連覇期間とほぼ重なる。もっともF1はかかわる人、組織も多いし、全体の見え方は派手、創り方は当然違う。世界的な集客は見込めるからそれはもっとも、そして監督はあのロン・ハワードであった。

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