メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

卍 (谷崎潤一郎)

2010-12-31 15:43:13 | 本と雑誌

「卍」(まんじ) 谷崎潤一郎 (1886-1965)
作者が1928年から1930年にかけて雑誌に書いた、どちらかというと、才気を発揮した娯楽小説に近いものである。
 
舞台は関西で、一組の夫婦、、その妻が絵画学校で知り合った独身の美人女性、女性につきまとう若い男、この四人の物語。女性二人の同性愛からはじまるなんとも驚く展開が繰り広げられる。
 
物語の決着がついたのち、妻が作者にことの顛末を語るという形式にしていて、全編大阪弁である。この形はうまいというかずるいというか、こうでなれば大阪弁で通すのも不自然だし、標準語であればなにか淫靡すぎる感じになってしまっただろう。
 
谷崎は晩年に「鍵」、「瘋癲老人日記」で、日記、カタカナという手段で、それだからこそ書けたという大きな効果を出している。「卍」ではその手段が作者への語りであって、当人が告白として一人称で書いた形であれ、作者による三人称の形であれ、そういう場合の自意識を読者に感じさせる問題から逃れてしまっている。そこが面白いと同時に、よく考えてみると、文学としてはずるいといえる。
 
とはいえ、面白ければいいではないか、と作者にいわれれば、それはそうだ。
 
こういう男女のどろどろは少し前の「痴人の愛」にも見られるし、戦中の「細雪」の四女の話を書く上での準備に結果としてなっているのかもしれない。
 
ただ「細雪」はなんといっても、次女が戦中の男女を問わない近代人の問題を内包しているという傑作であって、それと比べると一度読んでしまえば、なんか奇妙な世界だな、ということでそこから想像が膨らむということはない。
 
大阪弁の語り、会話は面白い。

この卍というタイトル、特に説明はないけれども、四人のからみあいということだろうか。


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ロメオとジュリエット(英国ロイヤル・バレエ)

2010-12-30 22:55:55 | 舞台

バレエ「ロメオとジュリエット」(プロコフィエフ作曲)
英国ロイヤル・バレエ団 日本公演 (2010年6月29日、東京文化会館)
11月19日(金)NHK教育TV「芸術劇場」の放送録画
ジュリエット:吉田都 ロメオ:スティーヴン・マクレー
振付:ケネス・マクミラン
ボリス・グルージン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
 
バレエに限らず今年観たり聴いたりしたものの中で、文句なしのベストである。
実はバレエというもの自体をじっくり見たことがない。
この間、「プロフェッショナル・仕事の流儀」(NHKTV)で吉田都がロイヤル・バレエのプリンシパルとしての最終公演にかかるところを見、彼女によるバレエ・レッスン再放送の後半数回を見るというめぐりあわせになり、このところバレエについて幾分知識がついてきた。
それにこのレッスンで「ロメオとジュリエット」は取り上げられる回数が多く、吉田都がもっとも好きで力が入っているとのことで、いくつかの視点も記憶していた。
 
それにしてもこの話、舞台、映画、ミュージカル「ウエストサイドストーリー」などいくつもの形態があるけれども、このバレエが一番ではないだろうか。これを見ると、セリフも歌もいらない。音楽と踊りで、少女ジュリエットのときめき、両家の確執、街の喧騒、そして二人の情熱の高まりと悲嘆、ジュリエットの決意が、劇的な感興とともに雄弁に語られている。
 
この曲をオーケストラ・コンサートで組曲形式で聴いてもそんなに感じるところはないかもしれないが、こうして聴くとプロコフィエフという作曲家は大変な人である。 
 
そして、吉田都。少女から親の押し付けに対するためらいと拒否、ロメオとの出会いとときめき、その迷いと燃え上がり、どれも自然な感情の裏付けがある、そしてイマジネーションがある素晴らしい演技だ。レッスンで言っていることをきいていて、常套的な言い方だが、日本人でこれほど自発性と想像力にもとづいた感情が感じられる人は珍しいと思った。
 
特に第3幕は群衆が出てこない室内劇、ラブシーン、そして仮死状態になっているジュリエットとロメオのパド・ドゥーも驚くべきもので、吉田都が何にもしてないはずはないけれども、死んでいる状態のジュリエットの体がなんとも見事。
 
最後のカーテンコール、これが彼女の最後の公演とあって舞台の上で延々と祝福が続く。こんなに盛大なものは見たことがない。彼女とバレエ団のこれまでを反映したものだろう。

 

吉田都がやっているうちに自分でたてた目標の高さに感銘をうける。
 
とにかくバレエというものの、力、奥深さを初めて知った公演だった。
 


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電子書籍奮闘記 (萩野正昭)

2010-12-17 14:48:38 | 本と雑誌

「電子書籍奮闘記」(萩野正昭著、新潮社)
 
電子書籍の紙の本に対するポジションがいよいよ現実的なものになってきているときに、これまでこの分野をある意味でひっぱってきたそして苦闘してきたボイジャー主宰者萩野正昭の、本質をついた、そして本音を出した本である。
 
この30年あまりの著者の半世紀、そして関連分野の光景は、ああやはりそうだったのかというところと、えっとびっくりするところと、両方である。
 
著者がこの分野に入り込む前、パイオニアにいてレーザー・ディスクをやっていたというのは知らなかった。この本を読んで、改めてまだ我が家に残っている比較的初期のプレーヤーを動かし、そのリモコンを見てみると、本書に書いてあるような、このメディア・方式とエキスパンド・ブックとの対応が本当に感じられ、驚く。
 
つまるところ、本も印刷された紙でなければならないということはないわけで、テキストの連なりはメディアを規定しないし、そのメディアが変わっても残らなければ、残さなければならない。
あまり、メディア、プラットフォームに頭を煩わせずに、とにかテキストをく残していくということを考えた方がいいかもしれない。
 
メーカーも出版社も、この本を一度は読んで置いたほうがいいだろう。
インターネット・アーカイブに関する言及も、この本の文脈で読むと納得した。
 


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麻生三郎展

2010-12-15 21:46:59 | 美術

麻生三郎展」(2010年11月9日-12月19日,東京国立近代美術館)

麻生三郎(1913-2000)の作品はいろいろな機会に見ているけれど、こうしてまとめてみるのは初めてである。
かなりなじみになっている初期の自画像、家族の絵、この赤が多く使われた絵の一群、まぎれもなく近代の洋画だが、独りよがりなところがなく、この人はいつも自分の内面と外界とのつながりを掴み取っていて、それが絵を描くことによるものだとすれば、幸せなことである。
 
そういうところは見る者にもつたわってきて、この人の絵は長く見ていられる。
でも、だから凡庸ということはない。題材、テーマ設定は特に後期は抽象的だが、「仰向けの人」、「死者」といったところから始まる一連の作品は、この人の静かな訴えを発している。
 
これまでも靉光、松本竣介の絵が並んでいると、近くに必ず麻生三郎の絵があって、なぜかいいバランスになっていたものだ。
 
あと、その時その時で小さい特集を企画しながら続けられている所蔵作品展では今回、奇跡的に残っていて発見され、そして幸いにも困難な修復を終えた長谷川利行「カフェ・パウリスタ」を見ることが出来た(これも12月19日まで)。 この絵、まぎれもない天才の作である。


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