メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

アラジン

2016-05-31 10:24:42 | 映画
アラジン(ALADDIN、1992米、90分)
監督:ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ
音楽:ティム・ライス(作詞)、アラン・メンケン(作曲)、主題歌(A Whole New World):ピーボ・ブライソン
 
ディズニー・アニメは子供のころ、すなわち大昔のもの以外はあまり見ていないが、この時期のものによくあるやたら動きが大きく、主なキャラクター毎にいるうるさい付随動物、闘いの荒唐無稽とくどいほどの長さはここでも同様である。でもこれが好きな人たちも多いのだろう。好みだから、、、
 
それでも観る気になったのは、音楽教室に通うようになってからこの主題歌をよく耳にするようになったため、どんな映画で使われているのかな、一度見ておこうという、ということだ。ヴォーカル、ジャズピアノなど、広く使われている。
 
物語の後半はじめ、ジャスミン姫とアラジンが互いを意識し、こころをかよわせはじめるところに、効果的に使われている。確かにしっとりとしたいい曲だが、グラミー賞、アカデミー賞というわりには、聴いてすぐメロディーが耳につくというタイプの曲ではない。
 
見たのは字幕版すなわち音声は英語で、魔法のランプの中にいるジーニーという渋いけれど重要なキャラクターが印象に残った。クレジットを見るとロビン・ウィリアムズ、なるほど、さすが。

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キングスマン

2016-05-25 21:40:35 | 映画
キングスマン(Kingsman The Secret Service、2014英、129分)
監督:マシュ-・ヴォーン 原作:マーク・ミラー
コリン・ファース(ハリー)、マイケル・ケイン(アーサー)、タロン・エガートン(エグジー)、マーク・ストロング(マーリン)、サミュエル.L.ジャクソン(ヴァレンタイン)、ソフィア・ブデラ(ガゼル)、ソフィー・クックソン(ロキシー)
 
スパイ・サスペンス映画、それもシリアスなものより娯楽志向のものに通じる似たような形をいくつか引用(パロディというほどではないが想起させる形)している。そして場面展開、アクション場面のスピードは相当なもので、飽きがこないということはできる。
 
「007」シリーズによく出てくる世界を思うままにあやつろうとする集団とその統領(ヴァレンタイン)は、通信事業者としてうまいことを言い、SIMカードを無料で配る。そしてそれを心理学的に操って世界を恐怖の騒動に陥れ、人の選別を行おうとする。それをつぶそうとするのがイギリスの秘密騎士団(アーサー王騎士団まがい)で、ハリーは高級スーツの仕立て屋の顔を持つが、嘗て己の失敗で死なせてしまった男の息子をスカウトし、何人かの中で訓練・選別を進める中で、敵に立ち向かっていく。
 
そこで引用されている、背景を思い浮かべさせるシリーズは、会話の中で略称JBとはとして名前が出てくるもの、つまりジェームズ・ボンド、ジェイソン・ボーン(つまりボーン・アイデンティティ)、ジャック・バウアー(つまり24)が中心で、それらをCGを駆使しておもしろおかしく見せる。そういえば遺児エグジー役のタロン・エガートンはその風貌がジェイソ・ボーン役のマット・デイモンに似ている。
 
これでもかという場面が長く、多彩な動きはいいのだが、ちょっと子供っぽいというか、それはないだろう、こんなにアクションを続けるスタミナは変、という感は出てくる。
 
映倫 R+15は戦闘シーンの残虐性(マンガ的ではあるが)によるもの。
 
コリン・ファース、この人は本来ドジ、コキュなどの面をもった役柄で精細を放っていた(変ないい方だが)。今回はスマートでかっこいい役、それでも表向き仕立て屋というところでこの人になったと想像する。





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吉増剛造「我が詩的自伝」

2016-05-23 10:43:39 | 本と雑誌
我が詩的自伝 素手で焰をつかみとれ!
吉増剛造 著 2016年4月 講談社現代新書
 
この人が自伝を出そうとは思ってもみなかった。しかも編集者を前に延々としゃべったものに、詩をいくつか挿んでいくという形態で。
詩人も77歳であって、そうであればここで存分に語ってくれたのはよかった。語るというより、これが詩になってる部分もあるけれど。
 
吉増剛造の詩に接したのは1970年ころだったと思う。こんな激烈というか変わった詩があるんだという感があったのだが、なぜか拒否するという方にはいかず、受け止めてみようという流れにしばらくはなった。
 
短歌、俳句は別として、日本の近代詩、現代詩にはあまり親しんでなくて、せいぜい石川啄木、萩原朔太郎、中原中也くらい。中也だけ特別で、いくつかはそらんじているようになっていた。なぜか当時気鋭の仏文学者兼詩人たちが熱心だった宮沢賢治には親しんでいない。そのあとの現代詩となると、かなり盛んになっているのは知っていたが、あえて近づこうとはしてなかった。
 
そこに吉増剛造である。なにしろ、
下北沢裂くべし
マリリア剛造に渦巻き流れよ
である(マリリアは詩人の夫人)。
 
出てくる言葉をつらなりの中で理解してはいけない、ということは読んでいるとわかってきて、発語が他のものと照応していると感じたり、ただ屹立したり、それもイメージ、字面、音などが飛び交い交響、不協する、その世界を泳いでいく、という感じであった。そう、詩の世界はそういうものかもしれないと思ったものだ。
 
この本で語っていることで、出自、家庭環境、学校、出会い、試作を中心とした仕事などについてはかなり詳細、具体的で、おもしろい。一方で、詩とはなにか、詩人が詩を作る、とはどういうことか、ということについては、この人の詩のように、部分部分はよくわからない形で、一気呵成に語られる。あたかもこのひとの詩のように。
 
詩人が詩を作る、出していく根幹には、何度も語っていることだが「言葉を枯らす、限界に触る」があって、そこまであるときは自身を意識的に追い込むことがあるようだ。
 
詩というものは特別なもの、詩人はクリエイターでも別格、ということはいろいろなところでいわれるまま、漠然とそういうものかなと思っていたが、本書に出会って、かなり納得した。詩だからこういう表現は適当でないかもしれないが。
 
細かいことで面白かったこといくつか。
作曲家とのつきあいで第一が柴田南雄とは、、、武満徹ではない。吉増に言わせると武満が嫌いというほどではないにしろ、あの人は岩波優良文化人で、ということで、これはよくわかる。時代の政治的状況から、いろんな呼びかけが詩人にきたようだが、あくまでこの人は詩に集中した。
 
代表的な詩集「黄金詩編」の装丁は、当初田畑あきら子(1940-1969)の予定だったが、うまくいかず赤瀬川源平になったそうだ。田畑あきら子の名前を洲之内徹の著作、彼のコレクション以外で見るのは、初めてだと思うし、意外だった。もし装丁していれば彼女の遺作の一つになっただろう。
「黄金詩編」の黄色い表紙はよく覚えている。実は出てまもなく買ったのだが、乱丁というか製本が悪かったというか、替えてもらったけれどそれも万全ではなく、そうこうしているうち、引越しの時になくなってしまった。思潮社の現代詩文庫を持っているだけである。
 
エドガー・アラン・ポーの「大鴉」が言及されている。これ、ミステリ小説などでも高額な古書として扱われたりして、作品名だけは知っていたのだが、この神話の世界に出てくる鴉は、人間が何を言ってもNevermore(二度とない)と答える。名前をきかれてもである。失恋した男性の胸の上に来て「Nevermore」と言ったり、、、
ここで思い当たったのが、ジャズのセッションでよく演奏される「酒とバラの日々(The days of wine and roses)」、歌詞に、
牧草地を駆け抜け、閉じようとしている扉へ、そこには Nevermoreと書かれていて、この扉は以前なかった、、、
 
歌ってるときは何かよくわからず、この本を読んだ後わかったというほどではないが、少なくとも「大鴉」が背景として引用されていることはわかった。これ同名の映画の主題曲でヒット、作詞がジョニー・マーサー、作曲はヘンリー・マンシーニ。ジョニー・マーサーは「枯葉」の訳詞、「ムーン・リバー」などいくつかヒットがあるけれど、キャピトルレコード経営者の一人で、プロデューサーというイメージがあったから、このNevermore、なかなかである。



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レハール「メリー・ウィドゥ」(メトロポリタン)

2016-05-10 20:41:18 | 音楽一般
レハール:歌劇「メリー・ウィドゥ」 英語版
指揮:アンドリュー・デイヴィス、演出:スーザン・ストローマン
ルネ・フレミング(ハンナ)、ネイサン・ガン(ダニロ)、ケリー・オハラ(ヴァランシェンヌ)、アレック・シュレイダー(カミーユ)、トーマス・アレン(ツェータ男爵)、カーソン・エルロッド(ニェグシュ)
2015年1月17日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2016年2月 WOWOW
 
オペレッタとしては、「こうもり」、「チャールダッシュの女王」と並んでもっと人気がある演目である。こう並べるとやはり「こうもり」はコミカルなオペラとしても不思議ない。それに比べると「メリー・ウィドゥ」はその筋がコントを連ねたようなところがあって、これは歌とダンス、舞台構成の見栄えがないと、興味が続かないが、そこはニューヨーク、ブロードウェイで名高いスーザン・ストローマンの演出、そしてルネ・フレミングに対するもう一人のヒロインにやはりブロードウェイで今最も輝いているケリー・オハラ(最近ではあの「王様と私」)を配し、コーラスとダンスもメトの実力を発揮したものとなっている。
 
舞台上での動き、展開はグランドオペラのように大きくないように見えるが、映像で見るにはこのほうがいい。もっともミュージカルのようにマイク(ヘッドセット)をつけて歌わないのはもちろんなのだが、ライヴ・ビューイングを提供するには音を的確に拾わねばならず、そうなると舞台はある程度コンパクトな方がいいのだろう。
 
なお、ケリー・オハラも普段と違ってマイクなしなのだが、学校ではオペラ専攻だったそうで、声量はまずまずだった。もっともやはりルネ・フレミングと比べると、声の艶が出にくかったようだ。
ダニロのネイサン・ガンはフィナーレに近づくにしたがい、次第に歌が充実していく(おそらく意識的に)ところが、説得力あったし、なにしろ姿がいい。ツェータ男爵のトーマス・アレンは、本格的なオペラでこれまでよく聴いたが、こういうことやっても達者である。体躯が立派なのも結末との対応で面白い。
 
アンドリュー・デイヴィスは、このオペラ、オペレッタからミュージカル、そしてレビュー(特にキャバレー(マキシム)での場面が多い)までの、息を抜けない面白さを、うまく駆っていった。そういえばこの人、ロンドンのプロムナード・コンサートで何度もメインになっていたから、こういうのは得意なんだろう。
ストローマンの演出は、ほかの演出を覚えていないので比較はできないが、レビュー的な舞台をうまく使って効果を出していた。豪華で面白いカーテン・コールもそう。
 
今回気がついたことだが、フィナーレで歌われるハンナとダニロの音楽はあの有名なワルツをうまく(多少控えめに)ベースにしていて、効果的である。それから、庭の東屋でのドタバタと最後に男爵がやりこめられるところ、これは「フィガロの結婚」の引用(パロディというほどではない)だろう。


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小川洋子「まぶた」(短編集)

2016-05-04 10:39:29 | 本と雑誌
まぶた
小川洋子 著 2001年刊行、2004年に新潮文庫
 
八つの短編、著者の作品を読むのは初めてで、全体に共通したトーンがあり、どきっとさせる仕掛けはあるが、その文章とともにエンターテインメントとしても満足できるものとなっている。
 
冒頭の「飛行機で眠るのは難しい」は特に場の設定、人間関係、その展開が優れている。またこの作品も含め、最後は主人公(私)が何かをうけとめ(理解し、許容し)、それで眠れるという流れになるもの、それと同等に読み取れるものがいくつかある。
「中国野菜の育て方」、「お料理教室」などは、こまってしまう最後になるのだが、ここでも読者には何かが残る。
 
「匂いの収集」だけは、最後の少し前からちょっと結末は推測できるものの、ぞっとする。タイトルの「まぶた」は読んでいる方がだんだん困っていくのだが、最後は女性の生理的な感覚に呼応するものなのだろうか、ちょっとわからない。描写、文章はいいけれど。
「詩人の卵巣」、「リンデンバウムの双子」はそれぞれヨーロッパのどこかとウィーンの、不思議な家族のこれまでを聴いているうちに、主人公の何かが解けていく過程が見事である。
 
ところで今回読もうとしたきっかけは、日経新聞にこの短編集に入っている「バックストローク」が紹介されていたことである。私も水泳をやるので、主人公の弟がバックストロークが得意で将来を嘱望されていたが、あるとき突然左手がのびたまま動かなくなってしまう、という作品がどんなものかという興味であった。ここで左手は動かなくなっても、右手だけで背泳ぎは出来るし、ターン(これはかなり難しい)もできる。そして選手としての望みは絶たれても、弟は特に手がつけられなくなるわけではない。この主人公(姉)は大戦時の捕虜収容所を旅行で訪れたとき、そのそばにあったプール跡で、囚人が作り収容所の看守と家族が使ったことを知り、そこで気持ちが悪くなり、以前家にあったプールと弟の記憶の話になる。
 
この二つのプールの意味するところはよくわからない。短編に入れるにはあまりにも大きい話のようにも思える。作者が「アンネの日記」の愛読者であることは知っているけれど。こう言っても、私は「アンネの日記」を読んだことはないが。
弟は今でもある施設で健在であることが最後に明かされる。そして収容所で気持ちが悪くなった主人公はホテルに帰って休もうということになる。結果として、他人がいろいろ考えること、心配すること、思い、それらにかかわらず人は生きていくのかもしれない、ということが、読んでいる私には受け取れる。
 
作者の文章は、言葉とくに名詞を的確に選び、形容詞は少数の明解なものにとどめているように見える。ちょっと大げさだし、一見似合わないが、ヘミングウェイみたいと最初感じた。
 
ところで、私はバックストロークが苦手だし、好きではない。

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