メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ジスモンチのピアノ 「Alma」

2017-04-19 20:46:19 | 音楽一般
エグベルト・ジスモンチのピアノ・ソロ・アルバム「Alma」 レーベル:ECM
 
Egberto Gismonti(1947- )という多彩な面をもつ音楽家については、昨年に桑原あいのピアノ・ソロ・ライブでLoroという曲を聴くまで全く知らなかった。もっともその時も曲を聴いただけで、先日ピットインで再びその曲を聴き、少し調べてみて、Loroが入ったこのアルバムを聴いてみた。
 
アルバムを検索している段階で知ったのだが、この人はブラジル出身、演奏ではまずギターで評判となり、その後むしろピアノがいいという評価も出てきた。またその名前だけは知っているECMレコードのオーナーだそうである。
 
さてこのアルバム、テンポ感のあるものと、しっとりした瞑想的なもの、いずれも数分の長さ、が半々で、全体としてはこの人特有の語法(結果として)が見られる。もう少し変化がほしいところではあるが、この一枚だけでは評価は早いかもしれない。
 
Loroは鸚鵡(オウム)で、いわれてみればそんな感じがするけれど、短いフレーズの繰り返しで効果を出していくもの。桑原あいの演奏はこれより遅いテンポだが、彼女の演奏の方がこの曲の特徴をくっきりと表出し、聴くものを揺さぶる効果を出しているようだ。もっとも彼の演奏には別の意図があるのかもしれない。もう少し繰り返し聴いてみよう。
瞑想的なものではRuth(聖書のルツ?)が秀逸。
 
20世紀のピアノ曲としては、ドビュッシーよりはラベルに近い、それよりアルベニス、グラナドス、セヴラックの雰囲気か? 同じ南米でもピアソラとは違う。
調べたあとで知っているからか、そういえばギタリストが作った曲という感じもある。
 
さて経歴を調べていたらその中に、1969年頃にフランスでマリー・ラフォレ(女優・歌手)の編曲者、指揮者とあった。そうアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」で、船の上でギターを弾いて歌っていたあのマリー・ラフォレである。ギターはジスモンチから教わったかもしれない。
 
そしてこのころナディア・ブーランジェに師事したらしい。ブーランジェに習った人は多方面にわたるようだが、私がすぐに思いうかべるのはディヌ・リパッティ(1917-1950)で、若くして死期がせまっていた最後のリサイタル(ショパンのワルツなど)のLPレコードは今も手元にある。子供のころ母から最初にきいたピアニストの名前はホロヴィッツとリパッティだった。
気がつけば、桑原あいからリパッティまでつながった。なんと不思議な縁。




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ドノバン珊瑚礁

2017-04-18 16:57:25 | 映画
ドノバン珊瑚礁(Donovan's Reef、1963米、109分)
監督・製作:ジョン・フォード、脚本:フランク・ニュージェント、ジェームズ・E・グラント
ジョン・ウェイン(ドノバン)、リー・マーヴィン(ギルフーリー)、エリザベス・アレン(アメリア・テダム)、ジャック・ウォーデン(ウィリアム・テダム)、シーザー・ロメロ(総督アンドレ)
 
おそらく1960年ころのハワイ近海の架空の島が舞台、日本軍との激戦で生きながらえたテダム、ドノバン、ギルフーリーがここにいて、テダムは現地の医師、テダムは酒場を持っている。テダムはボストンの名家の出身で出征後に娘(アメリア)が生まれ、二人はまだ会ってないが、遺産相続問題でテダムの子供が自分だけなのか確認するために、アメリアが島にやってくる。沖の船から島に上陸するまでの船の乗り換え、出迎えなどは、典型的な南海もの(「南太平洋」、「ブルー・ハワイ」他)シーンの連続である。
 
実はテダムには現地の女王格の人(故人)との間に三人の子供がいて、それを隠すために、皆で芝居をし独身のドノバンの子供ということにする。
 
ここからは、島にいる戦後のあらくれたち、ここを訪れた他国の水兵たちなどが入り乱れ、やたら喧嘩のシーンが多く、西部劇のパロディのような典型的な殴り合い、家具などが吹っ飛び、ビール瓶が飛び交い砕け散る、といった場面が続く。これは怖さ、深刻さを超越するためにこんなにどぎつくたくさんやっているのか、とも思う。またジープがやたら乱暴に走り、後ろに乗っている人を振り落すのも、ある種のコメディのお約束。
 
日本が占領していた名残りか、テダムの家には和服の日本人召使がいて、内装も日本風。
そうこうしているうちに、だんだん内実がわかってきて、高飛車のアメリアも打ち解けてきて、フランス系の総督アンドレがちょっかいを出すのだが、最後はドノバンに典型的なじゃじゃ馬ならし(そういうシーンもある)をされ、まさか、二人は結ばれる。
 
父と娘のような年齢差だが、こういうのはジョン・ウェインの映画にはいくつかあって、日本ではちょっとだが、米国では違和感ないのだろう。もっともそういう話だと監督はジョン・フォードではなく、ハワード・ホークス(「ハタリ!」)とかヘンリー・ハサウェイ(「アラスカ魂」)といったところが似合っていたのだが。
 
この映画の存在は知っていたのだが、何か期待外れになりそうで、長い間見ていなかった。だが、先日「リバティ・バランスを射った男」(1962)というフォード/ウェインの傑作を見て、その直後、このコンビ最後が本作だと知り、まあ見てみようと思った。
 
それにしても上記のとおり、ウェインはともかくフォードがこういうのは、それも製作から、というのは意外で、これは西部劇を中心にしたハリウッド映画のパロディ、批評ではあるのだろう。それとも、本当はこういうばか騒ぎもやってみたかったんだけど、やるんならウェインがいいし、そこそこ売れるだろうし、と考えたか。
 
これで一区切りついたのか、その後二人とも病を抱えながら、渋く痛いような作品群の世界にも入っていったようだ。
 
この映画でもよく出てくる曲はきわめてなつかしい「真珠貝の歌」、この映画でヒットしその後日本でも長く親しまれているが元来はハワイ民謡「Pupu A O `Ewa」、この映画では原語で歌われている。
映画の日本公開時、ビリー・ヴォーン楽団の演奏でヒットチャートに載った記憶がある。その後パット・ブーン、日野てる子の歌で親しまれている。
 
ビリー・ヴォーン楽団といえば、ラジオ番組のタイトル曲で親しまれた「浪路はるかに」そして「峠の幌馬車」など、アメリカ西部からハワイといった感じで、日本でうけたのだろう。この時期はいわゆるムード音楽よりはこっちで、その後南地中海イメージを中心としたムードオーケストラに代わっていったと記憶している。



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ソフィー・マルソーの秘められた出会い

2017-04-13 11:03:04 | 映画
ソフィー・マルソーの秘められた出会い(Une Rencontre Quantum Love、2014仏、82分)
監督・脚本:リサ・アズエロス
ソフィー・マルソー(エルザ)、フランソワ・クリュゼ(ピエール)、リサ・アズエロス
 
ソフィー・マルソーの映画をWOWOWやDVDで見られるのはいい。これはちょっと変わったラブコメディ。
エルザは作家で夫はいないが二人子供がいて若い相手とつきあっている。ピエールは弁護士で結婚して十数年、二人の子供がいて妻は建築・不動産関係の仕事をしている。二人は出会って互いに好感を持ったけれど、不倫はしないという主義ということでそのままになったが、頭の中から相手が離れない。それがふとしたことから出会って、なんとか一緒にという機会を作るのだが、さて、、、
 
いまどきのフランスでこれはかなりじれったいという設定だが、さてどうなる? 映画としてどうする?ということを楽しみながら作ったのかもしれない。タイトルにQuantumつまり量子とあるように、場所を特定できない量子力学という会話がよく出てくる。スノッブ臭を出したいのかと最初思ったが、これは二人が頭の中で空想、妄想して、離れている相手のところにもいる、と思ったり、ということか。それは映画の手法としても出てきて、たとえば二人が離れたところで他人とおしゃべりをしていてカメラがコーヒーカップにいくとそこから離れた場所にいるもう一人のコーヒーカップにいくという形が何度か出てくる。他愛がないといえばそうだが。
 
結末は書けないが、いきなり意外なものに、でも言われてみれば、、、というもの。互いに相手がいてうまくいっていても、他人への想いはそれ自身肯定していい、とでもいうことだろうか。
 
ソフィー・マルソー、出てきたときからちょっと痩せたなと思ったのだが、この進行、結末であれば、シュッとした姿と動きで見せたかったのかも知れない。それは本人なのか、実は相手の妻も演じている監督の注文なのかどうか。
 
それでも、二人のいくつかの決めポーズのショットなど、また別の美しさがある。撮影時期は正確にはわからないが、これの数か月後に公開された「ソフィー・マルソーのSEX、LOVE&セラピー」ではいい意味でもう少し贅肉がついた姿だったから、この映画はフィットネスの結果だろう。
たるんだところのない進行だがソフィーファンとしてはちょっともの足りないというところだろうか。
 
ちょっと気になったのはドラッグ(マリファナだろうか)の扱いで、フランスではパーティなどで気軽にやりとりされるのだろうか。
 
ところでバックに使われている音楽、ハッピー・トゥゲザーが2回出てくる。先日アップした「さざなみ」にも使われていてそこでは結婚記念日に使うものとして選ばれていた。こっちは全体に世代が若いけれど、どうもヨーロッパの中高年はこれが好きらしい。今回はオリジナルのザ・タートルズではなく、最近フランス語で歌われたもののようだ。「さざなみ」はイギリスが舞台だが、この曲はひところ盛んだったフレンチ・ポップスに通じるものがあり、ここでもうまくフィットしていた。
 
ついでにいえば、この曲がどうして耳についているかといえば、今年も先日の日曜に開催された「桜花賞」、この3歳牝馬最初のGIレース、馬券をほとんど買ったことない私も若いころからTVで見ているが、フジテレビ系では各馬がコースに登場し紹介されるときに毎年かかってたのがこの曲、ういういしい牝馬の祭典にふさわしかった。ただいつからか覚えていないが、かからなくなっている。

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桑原あい 新宿ピットイン(4月9日)

2017-04-10 17:38:26 | 音楽一般
桑原あい トリオプロジェクト
新宿ピットイン 5days
4月5日(日)20時~ 新宿ピットイン
桑原あい(pf)、須川崇史(wb)、森田悠介(eb)、石若駿(ds)
 
ピットインで一週間5回、すべて別編成のたいへんなプロジェクトである。行ったのはその最終日、他に行きたい日もあったが、こちらの体力もあり、昨年のピットインから一年ぶりに本来のベーシックなトリオ(ベースは両方入る場合もある)で聴きたいと、この日にした。
 
最初の曲、タイトルはわからないが、たいへん大きくダイナミックな音、なにかこのプロジェクトが新しいステップを踏み出した館があった。
 
次いで桑原自作のSun(?)、森田自作の「水平線Ⅱ」、ミシェル・ペトルチアーニ「Home」、あとセットリストとしては全部記憶できたいないが、このところ思い入れが強いレナード・バーンスタイン「マリア~サムウェア(ウェストサイド・ストーリーより」。
 
これはますます充実度、完成度が上がってきていて、自身のトークではこのミュージカル通しのスコアを検討したことがあり、キーになるいくつかのフレーズが繰り返しいろんなところに使われていることを発見、さらに理解が深まり好きになった、と話していた。
そうか、バーンスタインはワーグナーのライト・モティーフ的な作り方をしていたのか。それだからか、この長くいつまでも続くような「サムウェア」にひたっていると、「トリスタンとイゾルデ」のフィナーレ「愛の死」を連想した。
 
最後は4人で「Loro」エグベルト・ジスモンチ(Egberto Gismonti)、彼女この曲好きみたいでアンサンブルでもソロでもやっているけれど、今度はまた長く迫力、楽しさともさらにアップしたものだった。
 
この一年、いろんな面で変化し、進化してきた彼女の音楽、ピアノ、私はコンテンポラリー(クラシック音楽の20世紀後半あたり、いわゆる「現代音楽」と重なる)なものとしても受け取ることができるところが好きなのだが、これがさらにこなれて、楽しくもなってきた。また聴いていてさらにうまくチェイス出来るようになってきたのは、私のピアノ練習・習得も少しは効いているかもしれない。
 
途中に休憩もあったが、正味2時間以上、彼女スタミナもついてきたようだ。

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夜の豹 (Pal Joey)

2017-04-07 11:41:04 | 映画
夜の豹(Pal Joey 、1957米、109分)
監督:ジョージ・シドニー、原作:ジョン・オハラ
音楽:ロレンツ・ハート(作詞)/リチャード・ロジャース(作曲)の舞台をもとに、ネルソン・リドルが編曲
フランク・シナトラ(ジョーイ)、リタ・ヘイワース(ヴェラ)、キム・ノヴァク(リンダ)
 
原作の舞台(ミュージカル)は1941年、それから時代設定もあとになり、またソフトなタッチになっているようだが、この音楽とスクリーンで映えるこの三人、文句なしに楽しめた。
 
仕事にあぶれてサンフランシスコにやってきたジョーイ、クラブでトークと歌をやる芸人だが、昔なじみがやっている店に行き、最初断られるが、予定していた芸人が来られなくなったということをききつけた途端、それじゃあ俺がと舞台に上がって楽団、ダンサーにまじって始めてしまう。このスタートが見事である。
 
踊り子たちにもてるのだが、その中の一人リンダとお互い気にすることになる。一番うぶで気が弱いこのリンダがキム・ノヴァク?というのは面白い。このあたりが日米のギャップなんだろうか。もっとも私が若いころ、この人はちょっとこわい色気という感じだったのだが、性格はそうでもないらしい。
 
クラブに来たヴェラ、ジョーイは彼女の過去つまり、クラブで人気があり、その後金持ちと結婚して今は未亡人となっている、ということをジョーイは知っていて、歌うのが「The lady is a tramp」、これをこう楽々と歌える人が他にいるとは思えない。実はこれを聴くためにDVDを買ったようなものである。
 
ヴェラをよく知っているジョーイは、寄付金集めチャリティー・パーティで彼女の歌を勝手にセリにかけてしまう。ストーリーはリンダを加えた三人をめぐる恋のさやあてで、ドラマとして堪能するというものではないけれど、この時代の能天気に豊かなアメリカ、わかりやすいスノッブ気分など、先の「上流社会」のように楽しんでいればいい。ただ、上流社会のシナトラも素晴らしいが、あっちの男の主演はビング・クロスビー、シナトラは助演であった。今回男は彼ひとりといってよく、ヘイワースとノヴァクがそれぞれの役割でチャーミングに見せてくれる。
 
ジョーイと一夜を共にした翌朝、ヘイワースがうっとりとして歌う「Bewitched」、ジョーイがヴェラと一緒に念願のクラブを立ち上げるとき、リハーサルでリンダが歌う「My funny Valentine」、ぴったりとはまっている。この二つは吹き替えらしいが(確証は得てない)、場面としてこれだけよくできていれば問題ない。
 
上記の三曲のうち、Bewitched は元の舞台のために作られたものだが、あとの2曲は別のミュージカルで最初に歌われている。Pal Joey の舞台でも使われたのかどうか。すべてロジャース/ハートの名曲。
 
そして編曲はネルソン・リドル、この時期シナトラとのコンビで作ったいくつかのアルバムは、この歌手の頂点だと思うが、この映画もこの人ならではのもの。
 
なお、The lady is a tramp のtramp は放浪者、渡り者と辞書にはある。字幕、訳詞などでは尻軽女、気まぐれなどと書かれているが、どうももう少し下品な意味があるらしい。映画でもヴェラはそのニュアンスを感じながらその場を取り繕っていたのだろう。現代風な表現で品よくいうなら「飛んでる」とでもいったらいいか。
 
もうひとつ、Pal Joey のpal は仲間、相棒という意味らしい。つまりペン・パルのパル(そうか)。相棒ジョーイということだろう。

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