メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

それでもボクはやってない

2007-01-30 22:15:46 | 映画
「それでもボクはやってない」(2007年、143分)
監督・脚本: 周防正行
加瀬亮、瀬戸朝香、役所広司、もたいまさこ、山本耕史、尾美としのり、大森南朋、鈴木蘭蘭、唯野未歩子、本田博太郎、徳井優、小日向文世、高橋長英
 
周防正行11年ぶりの監督作品。電車の中での痴漢冤罪事件をもとに、その経過を精密にドラマ化したもの。
ちょっと考えると、前作「Shall We ダンス?」(1996)、そして「シコふんじゃった」(1991)、「ファンシイダンス」(1989)などと同様、心ならずもそれまで知らなかった異界、つまり社交ダンス、相撲、お寺に入ってしまった主人公、その慣れない世界にどう反応し、どう対処していくかが描かれている。
 
しかし前作などと異なるのは、それが決しておかしさにはならないということであって、笑いを取る箇所の数は、必ずしもコメディでない通常の映画と比べても多くはない。
 
従って、人間というものの解剖、それによるおかしさを期待して観ると肩透かしをくう。全体としてドラマを見たというよりは、ドキュメンタリー映画を見たような感覚で、へえーこれが裁判というものなのね、というのが終わっての感想であった。
 
俳優の中ではやはり抜擢された加瀬亮につきるだろう。他にうまい人は数多く出ているがそれは予想の範囲である。
この犯人にされてしまった主人公、加瀬は決して演技を見せようとはしない。心ならずこんな境遇になってしまった若者の困惑とじたばたが至極自然に展開していく。
彼だけが何かモノクロームのようだ。こういう直情径行と反対の、それもひねているのでもない、でも世の中に確かにいるタイプに、ピタリとはまっている。
 
映画の終わり方は見事である。しかし残念なのは裁判長が読む判決文、いくら現在の裁判に問題があるとしても、もうすこし内容のある立派な文章であってほしかった。それでこそこの結末もいきるというものである。
 
客はよく入っていたが、それにしてもこの年齢の幅広さ。

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プルートで朝食を

2007-01-28 18:06:17 | 映画

「プルートで朝食を」(BREAKFAST ON PLUTO、2005年アイルランド・英、127分)
監督: ニール・ジョーダン、原作: パトリック・マッケーブ、音楽: アンナ・ジョーダン
キリアン・マーフィ、リーアム・ニーソン、ルース・ネッガ

同じニール・ジョーダン「モナリザ」、「クライング・ゲーム」などの細かいところは忘れたが、これらでも扱われたと記憶する夜の世界、IRA、ホモセクシュアルなどがここにもあるけれども、それらがもっと自由に軽々と扱われ、母をたずねて三千里の要素も加わり、見終わっていい気持ちになる傑作である。
 
アイルランドの教会入り口に置かれたゆりかごに入っていた男の子、もらわれ育てられるが、自身の意識は女、そして母を捜してロンドンへいくが、IRAとも知り合いになり、その性ゆえにトラブルもある。コミカルな要素も交えながら主人公パトリックが生き抜いていくという形でドラマは進む。
 
IRAが、そして警察が絡むシーンは厳しいが、パトリック個人の一つ一つの出来事が、それ以上の重さで扱われているから、全体として暗くならない。こういう境遇、社会に生きていても、人一人には個人に特有な具体的な問題があり、それを見つめることによって、世界の見え方は異なるのだ。
と、いうのだろう。
 
パトリック役のキリアン・マーフィは見事というにつきる。
神父役のリーアム・ニースンは、最初立派過ぎるかなと思ったし、もう出てこないかと思ったが、どうして、、、ここらは脚本がうまい。
元IRAのチャーリー(ルース・ネッガ)が妊娠中絶に悩むところからの、彼女とパトリックのかかわりは、驚きの連続で、しかもしっとりとした味わいを残すのは、演出のうまさだろうか。
 
面白いのは、いわゆる風俗の覗き部屋が教会の告解室に対置されるていること。
 
音楽は、冒頭「シュガー・ベイビー・ラブ」(ルベッツ)から、「風のささやき」(ダスティ・スプリングフィールド)、「慕情」をはじめ、なんともうまく採用されて快調に続く。それも楽しさの一つ。
これらと物語のトーンから「ガープの世界」を連想したが、「プルートで朝食を」の方が思い切りがいいと言えるだろう。 

昨年5月からはじめたブログ、これでちょうど100本になった。

 


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ネオンと絵具箱(大竹伸朗)

2007-01-28 17:11:26 | 本と雑誌
「ネオンと絵具箱」(大竹伸朗 著、2006年10月、月曜社)
先月、東京都現代美術館で大回顧展「大竹伸朗全景」に驚かされたが、これはその作者が2003年から2006年、展覧会を予定に入れながら、雑誌に連載していたもの。
 
時に子供の頃、北海道でアルバイトをしていた頃、それをもとにロンドンに行っていた頃、それらのことを織り交ぜながら、多くは現在の創作拠点である宇和島での、創作者の生活、あるいは生活者の創作が語られ、興味深い。
 
彼も書いているが、現代アートの、時にあっといわせるものを作ったりしていても、それは白い紙にひらめきで描くというものではなく、小さい思いつきや気になったものを集めて(それが彼のあの膨大なスクラップなんだろうが)、それらのなかから、ある流れが、ある結果が出てくるというものなのだろうか。
 
この回顧展を開くにあたり、過去の作品、スクラップなど、順に並べて、カメラマンとともに延々と記録したようで、計測によればスクラップは1万ページ以上、重量200kg以上だったという。
自身驚いたそうだが、やはり日々の営為が利いてくるということだろうか。何か道徳的な響きになってしまうが。
 
彼はメモをよく取っていて、好きであるらしく、その9割はまだ作品に反映していないと言っている。
 
こういう当人による、生きている内の自分のアーカイブというのは、その当否は決めがたいけれども、一度やってみたくなるという誘惑は理解できる。
 
最後の方の、宇和島に張り付いたようないくつかの話は、話そのものとして面白い。展覧会場でギターを弾いていた作者はきわめてまじめそうな風貌だったけれど。
 
昨年末、朝日新聞の読書欄で、多くの有名人によるその年の3冊というのがあった。その中で角田光代さん(「対岸の彼女」)は、カズオ・イシグロ「私を離さないで」と「ネオンと絵具箱」をあげていた(もう一つは忘れた)。彼女とは波長が合うと思っていたが、2冊までとは。

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AKIRA

2007-01-27 19:18:41 | 映画
「AKIRA」(1988年、東宝、124分)
監督・原作・脚本: 大友克洋、音楽: 芸能山城組
声の出演: 岩田光央(金田)、佐々木望(鉄雄)、小山茉美(ケイ)、  石田太郎(大佐)、北村光一(ミヤコ)
 
普段コミックを読まず、アニメもほとんど見ていないということは、こういう作品に出会うと利いてくる。始まってしばらくいろいろ戸惑ってしまう。先日の「鉄コン筋クリート」に比べるとドラマの部分が特殊であるからかもしれない。
 
しかし通して2回見ると、これが日本のアニメの、特に昨今の海外から憧れの眼差しで見られるものそれもトップクラスのものである、ということも少し納得がいく。
 
おそらく、ゲームをやる感覚で見る人もいるだろうから、実写ドラマに比べると、一つ一つの要素としてのシーンが長くくどい。がそれはその細かくスピード感ある描写、絵を楽しみたいわけであるから、それは理由があるのだろう。
事実、冒頭からのバイクのチェイス、そしてSF的、宇宙的な、非現実的なアクションシーンというか怪物的な力との戦いのシーン、これらは圧倒的である。
 
「鉄コン筋クリート」監督のマイケル・アリアスは、この作品に最初夢中になったらしい。
有名なバイクのテールランプの残光、破壊が続くシーンの重ね描き、AKIRA的な力の飛び交う画面、これらが20年前にセル画で作られたというのは驚くが、単にその腕と労力にではなく、それらがもたらした描写と効果に感心する。
 
物語は、1988年つまり公開の年に第3次世界大戦がおこり、その30年後2019年の東京、日本は2020年のオリンピック開催を目指している。鉄雄はバイクで疾走中に転倒後、日本のアーミーに連れ去られ薬の投与で不思議な力を持ち始めるのだが、それがある秘密であるAKIRAとどう関係するのか、鉄雄の仲間であった金田、もと反政府組織にいたが金田と知り合って鉄雄を追う少女ケイ、アーミーの大佐、そして冥界からこれらにかかわる老人の顔をした子供のような三人、、、 ここらは勝手に解釈するしかない。
 
せりふにもあるようにAKIRAとは絶対のエネルギーとでもいうべきもので、これを解明し力を出させるということは宇宙生成の追試とでもいうべきものだろう。
 
最後は鉄雄と女の子が犠牲になって他の連中を助けるということに、結果的になったのだろうか。
 
この種の話として、見る前の想像と違っていたのは、ここにはアポカリプスがないということである。つまり、人間世界は堕落しているのだが、それを怒ったものが罰を下すという図式にはなってない。一部の強欲な連中は滅びるが、それは日本にある普通の因果応報である。
最後は、少年・少女達がなんとか片付けていくのである。
 
案外、こういうところが海外から見て新鮮なのではないだろうか。アポカリプスでないというのは良いことではあるが、今後もう一つ別の次元に突き抜けるとどうなるか、期待はある。
 
絵で気になったのは、登場人物の顔に類型が少なく、また女性も男性と変らないから、最初のうち見ていてわかりにいこと。
 
冒頭から音響、音楽の質が高いと思ったら、クレジットに芸能山城組、なるほど。
 
AKIRAのエネルギーが大友克洋の作画の源泉だったのだろうか、そんなことを思った。

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ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」(カラヤン ウイーン)

2007-01-21 21:25:54 | 音楽一般

ヴェルディの歌劇「イル・トロヴァトーレ」、1978年5月1日ウイーン国立歌劇場、オーストリア放送協会(ORF)によるライブ録画DVD(発売TDK)。
指揮・演出:ヘルベルト・フォン・カラヤン、
ピエロ・カップチルリ(ルーナ伯爵)、ライナ・カバイヴァンスカ(レオノーラ)、フィオレンツィア・コッソット(アズチェーナ)、プラシド・ドミンゴ(マンリーコ)

このオペラを目で見るのは、レヴァイン指揮メトロポリタン(1988)のビデオ以来だが、このヴェルディ中期の作品がどうしてこんなに人気があるのか、初めて納得できた。
とにかく四人の人気実力備えたスターキャストをそろえる必要があって、それが実現したときの音楽のドラマはなかなか比べるものがない。ただそれでもヴィジュアルな助けは感情を入れていく上で必要であるのだ。

いくつもの有名なアリア、重唱ではカーテンコールがあるから、当然そこでドラマはとだえる。が、それは次のシーンに入って少しするとかまわなくなってしまう、というのはヴェルディの不思議な力なのだろうか。
 
四人は、レオノーラをはさんだ恋敵のルーナとマンリーコ、そしてマンリーコの母親アズチェーナ、今回あらためて、このオペラの主役はアズチェーナだったと気づいた。(いまごろ?と言われるかもしれないが)
 
まあこのコッソットの聴かせること、見せること。中でも重唱でお互い感情的に正反対のことを歌うシーンがいくつかあるが、そのときの声の表情、相手とバランスをとり、美しさを失わないながらも、明瞭にきかせたパフォーマンスは際立っていた。恋にかかわる三人と、母子の愛憎を表現する一人だから、難しいポジションなんだが。
 
以前、音だけでよく聴いていたのは1963年のセラフィン指揮ミラノ・スカラのLPであるが、なんとここでもアズチェーナは
若干28歳のコッソット、43歳の今回に先立つこと15年というのも驚きで、どれだけ彼女の評価が高かったかがわかろうというものである。
 
カバイヴァンスカはコッソットより少し年長で、レオノーラとしては華やかさにかけるが、この役は他の三人に比べるとその出来の影響は小さい。
ドミンゴはまだ若くて、直情的なマンリーコにぴったりだし、終盤コッソットと歌う「(故郷の)山へ帰ろうよ、、、」は絵になる。

ルーナという役柄は、魅力があるとはいいがたいが、そのちょっと暗めのバリトンを活かすヴェルディの音楽からか、人気があるバリトンの当たり役であって、前記LPでも歌は華があっていいものの演技は大根といわれたエットーレ・バッスティアニーニであった。この歌唱はすばらしく、あの姿だから実際に聴いたらどんなに素晴らしかっただろう。
そこへいくと、カップチルリは目をつぶって聴けばいいのだろうが、姿を含めてだと同じヴェルディでもやシモンやフォスカリといった激情と忍耐をバランスさせる「父親」というイメージから抜け切れない。まあ、これは贅沢な悩み。
 
そしてカラヤン、このときは体調もまだよく、機嫌もよかったようで、この快調なオーケストラに身を任せれていれば、ドラマは緩むことなく進んでいく。
特に、第一幕、と休憩後の第三幕のはじまり、登場して拍手が終わらないうちにさっと振り向き、軽い感じですうーっと入っていく。なんともかっこよく、見事。
特に第三幕では、拍手が盛んすぎて、振り向いたときにオーケストラが一瞬緊張したとみたのか、まず楽員たちを立たせ拍手を浴びさせて、座ったと見ると、今度もまだ拍手が続いているうちにいいタイミングで入った。
 
確かリチャード・オズボーンのカラヤン評伝にあったと思うが、カラヤンは曲の入り方に独特の考え方を持っていて、最初の音の出だしが必ずしもぴたっとそろうことに集中しすぎると、音楽がかたくなるというためか、最初は適当に入り、ほんの少し後の瞬間であわせるということがあったらしい。カラヤン・フリークのカルロス・クライバーが何かの曲の入りに悩んでカラヤンに聞きにいったときの話だったと思う。
 
カラヤンの演出は一般に評判が悪い。今回もシーンのつなぎが良くわからないという指摘はあったらしい。しかもカメラはアップが多いからなおさらストーリーに首をかしげることもある。ただこのオペラはどうやってもあんまり演出の効果は出ないのではないだろうか。このDVDで見る分にはそんなに不都合はない。

今回あらためて気づいたこと。
最後にアズチェーナが一言で秘密を明らかにし、ルーナは瞬時にこれを理解する。
最初全体がもっと長く、ヴェルディがかなりカットした結果なのだろうか。ただ、これは賢明だったかもしれない。その結果このドラマは、アズチェーナから見て、復讐の話というよりは息子への愛の話になったのだから。


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