メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

鑑定士と顔のない依頼人

2015-04-30 14:33:18 | 映画
鑑定士と顔のない依頼人(2013伊、131分、The Best Offer)
監督・脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ、音楽:エンニオ・モリコーネ
ジェフリー・ラッシュ、シルヴィア・フークス、ジス・スタージェス、ドナルド・サザーランド
 
一流のオークションを主宰する美術品鑑定士(ジェフリー・ラッシュ)が父母に死なれ天蓋孤独になった娘から、遺産を整理したいので鑑定と目録作成の依頼を受ける。しかし依頼人は過去に受けた精神的な傷などを理由に決して姿を見せない。それでも次第に彼は彼女に好奇心を持ち、また惹かれていく。一方独身主義者だった彼は昔の自動人形(オートマータ)を再現中の青年(1ジス・スタージェス)と交流があり、男女関係のアドヴァイスを受ける。
 
それが終盤には謎が彼女の素性だけではなく、なにかおかしなしかけがありそうになってきて、どんでん返しが起こる。ただ、それは完全に明かされたという風ではなく、いくつかの解釈ができるようでもある。特に彼の昔からの友人で、オークションの成功に、いんちきも含め協力してきた、一流にはなれなかった画家(ドナルド・サザーランド)のかかわり方が掻き立てる想像でもある。美術に関するミステリーにはよく登場するキャラクターだ。
 
主な俳優4人はまさに的確でうまい。ラッシュ、サザーランド以外は知らない人だが、娘役のフークスは鑑定士を翻弄するファム・ファタルに見事に変身していき、見る者を魅了する。
 
この種の映画でよくあるように有名な絵が出てくるわけではなく、もっと美術品の評価・真贋に関するの世界一般のイメージ、妄想をうまく使っている。彼の部屋の壮大なコレクション、独身である彼の周りに出てくる小道具など、見る楽しみにもこと欠かない。あの壮大な、ネクタイの棚!
音楽はなんとエンニオ・モリコーネ、随分歳のはずだが、見事なもので、しかも見ているものに変に障らない。同じような出自のクリント・イーストウッドがやはり頑張っているのを横目で見ているのだろう。
 
ドナルド・サザーランドが健在なのもうれしい。あの「1900年」、「針の眼」などから強烈な悪を演じてこれほどの人はいないと思っていただけに、今回の役は最初からいろんなことを想像させた。
 
最後に主人公がプラハで入るカフェ、あの時計じかけに囲まれた店内とカメラは素晴らしい。驚くと同時に、この映画の後味をよいものにしている。謎解きのためにもう一度観てもいい。


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モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」

2015-04-28 09:54:39 | 音楽一般
モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(女はみなこうしたもの)K.588
指揮:ジェームズ・レヴァイン、演出:レスリー・ケーニヒ
スザンナ・フィリップス(フィオルディリージ)、イザベル・レナード(ドラベッラ)、マシュー・ポレンザーニ(フェルランド)、ロディオン・ポゴソフ(グリエルモ)、マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)、ダニエル・デ・ニース(デスピーナ)
2014年4月26日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2015年 3月WOWOW放送録画
 
ジェームズ・レヴァインが復帰したシーズン、「ファルスタッフ」とともに上演したものである。どっちも大人の男女のコメディで、こういう機会にふさわしいとはいえる。ただこの二つとも作品としては苦手で、この「コジ」も舞台でも映像でも何回か見てはいるのだが、それほど楽しんだという記憶はなかった。
 
でも今回は少しちがった感があった。楽しかったというほどではないにしても。
友人である男二人の恋人は姉妹で、いかに愛しあっているか、また相手のの貞節を信頼しているかを自慢しあっているところに、年配の知恵者(ドン・アルフォンゾ)がからかい半分で、姉妹の貞節ぶりに「賭けを」しかける。男二人が戦争に行ってしまうことにして、変装した二人を姉妹に近づけ、ちがう相手に言いより、結果どうなるかということである。そのしかけ、顛末では小間使デスピーナが大活躍をする。つまりスワッピングと不倫の賭けということで、ある程度人生経験を積んだレベルの話として(少なくとも日本では、そして私も)受け取られてきた。ところが、どうも原作の設定ではかなり若い世代の話らしく(こういうのは旧い文学作品ではよくある)、今回の演出では衣装、身振りなど含め、よりスピーディでコミカルになっている。もっとも衣装、装置は現代ではない。
 
それを支えているのはなんといってもレヴァインの指揮で、ためらわず振幅の大きい音楽を鳴らし、歌手たちに思い切った歌と動きを促がしている。
 
あらためて考えると、この賭けでは友人の恋人を落とせるかどうかだが、二人ともそうなってしまっては恋人もお金もそして友人も失うわけで、不自然なものなのだが、それでもどうなるかという好奇心、そして始まってみれば、これは姉妹も同様だが、欲望をすべて断ち切ることはできないといところのスリルを音楽もあわせてどう楽しむか、ということになる。
 
そう考えれば、フィナーレの大人の結末というところからの解釈だけではつまらなかった話もちがって見えてくる。そういう男女の性衝動に強い関心をもち、音楽の上にもそれは出てきている、この前にあの「ドン・ジョヴァンニ」を書いているモーツアルトであるから。
 
歌手たちはみな達者で、6人のバランスもよかったが、デスピーナのデ・ニースが特に目立っていた。モーツァルトの作品ではこういう役回りがよくあるけれども、このオペラでは特にキー・パースンになっている。


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ブラームスのヴァイオリン協奏曲(ヒラリー・ハーン)

2015-04-20 20:21:02 | 音楽一般
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 作品77
ヴァイオリン:ヒラリー・ハーン エサ・ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団
2015年3月4日 サントリーホール 2015年4月19日NHK Eテレ
 

フィルハーモニアのコンサートだが、録画してまずはこの協奏曲だけ見てみた。
ヒラリー・ハーンはあのバッハ「シャコンヌ」で評判になり、私もCDで聴きその集中力と自身の音楽性に迷いのないところに感心した。その後シベリウスなどいくつかは聴いてきている。
 

このブラームス、過去に録音はあるけれど聴いてなくて、今回はこういう大柄なゆったりしたところもある曲をどう弾くか、興味があった。結果はまさにいい方に裏切られた、というかこんなにたっぷりとした音で、聴く者をつかんでしまうとは思わなかった。
曲の前にあった放送インタビューで、指揮のサロネンは彼女のことを周りがよく見える人と語っており、彼女もサロネンとオーケストラとはお互い次にどこに行くかがよくわかると言っている。それは、両者がそろって聞かせどころをスピード感を持って進んでいくところなどで、そういうやりとりを聴くことができる。この曲は長い第一楽章をどう弾くかがキーだけれど、聴く方もずうっとたっぷりつかっていて飽きない。
 

ところで、彼女が舞台に登場してきてびっくりした。実は写真以外のライブ映像は見たことがないのだが、どちらかというとほっそりした体躯であったのが、今回はちがって、どうもおめでたらしい。結婚指輪は左手、ヴァイオリニストは演奏しにくいこともあるのか右手にする人もいるけれど、その右手の中指にも指輪があった。あまり気にしないひとなのかもしれない。
今後、こういう普通のクラシック・レパートリーも期待したい。

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「腹を抱える」(丸谷才一エッセイ傑作選1)

2015-04-19 14:20:08 | 本と雑誌
「腹を抱える」(丸谷才一エッセイ傑作選1)(2015年1月 文春文庫)
 

丸谷才一(1925-2012)の書いたものは新聞・雑誌でかなり目にしてきたけれど、ここに特にその前半に所収されているような軽妙なものはあまり読んでいなかったように思う。おそらく掲載された雑誌と縁がなかったのかもしれない。そういう軽いものは、想像するに書かれた当時は面白かったのかもしれないが、今読むとそれほどでもない。もっともそう言ってはおしまいなのだが。
 

著者の名前を知ったのは、そして広く知られていたのは、ジョイスの「ユリシーズ」という難解で評判な小説が、確か河出書房の緑色の箱に入った世界文学全集だったと思うが、気鋭の三人の英文学者の翻訳で出た、ということからだった。その「ユリシーズ」は結局は敬遠したのか、読んでいない。
 

解説で鹿島茂が書いているように、この本の読みどころは、前記のように若くて優れた英文、仏文、独文などの学者がおおぜい集まっていた当時の国学院大学文学部の話、そして講師をしていた桐朋学園音楽科の話である。
 

後者では、「ユリシーズ」の中にスウェーリンクという1600年頃の作曲家のことが出てきて、どういうものかと同じ学科の作曲家柴田南雄に訊ねたら、まだこういう古い音楽のレコードは出てないが譜面ならあるから学生に弾かせようといって、しばらく後に出てきて弾いてくれたのが江戸京子だった、という。当時の桐朋、今からすればなんとも贅沢な話である。
 

ついでに言えば、私がスウェーリンクをはじめて聴いたのはグレン・グールドのピアノで、バード/ギボンスなどが入ったLPレコードに入っていなかったものが、CD化されたときに追加で加えられた「半音階的ファンタジア」であった。思い出して、今これを書きなが聴いている。なかなかいい。バッハが突然出たのではないことがよくわかる。

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片岡球子展

2015-04-16 15:38:11 | 美術
生誕110年 片岡球子展 
2015年4月7日(火)~5月17日(日)東京国立近代美術館
 

片岡球子(1905-2008)の絵の代表的なものはいろんなところで見る機会があった。富士山、武将・画家・役者などの「面構(つらがまえ)」シリーズなどである。それでもこうしてまとめて見るのは初めてだ。
この人の絵は、その太い輪郭線、画家がとらえた対象の本質をより大きく明確に表出すること、そういった画風から、見てすぐにわかる。それは見事なもので、日本画の中に生まれたキュビズムのようである。
 

初期は当時の日本画の世界と多少折り合いをつけなくてはならなかったようだが、それでも「枇杷」(1930)ではその一見写実風に見えるなかに、対象を執拗に見て中から出てくるものをとらえた感がある。そしてエポックとなったと言われる「カンナ」(1953)はその各部分の迫力と画面いっぱいに詰めたところにあるバランスが見事である。これ鎌倉の近代美術館で見たようでもあるが、不確かなのは情けない。
 

「面構」ではやはり展覧会のポスターにもなっている「足利尊氏」が一番面白い。この戦前は逆賊あつかい、その後いろいろな面がわかってきて、近年はなかなか興味深い人物というとらえられかたに先行したともいうべきだろうか。教科書に載っている絵は尊氏ではないということに最近なったが、そうなるとこの絵を見ればということにでもすればいい。教科書は別として。
 

欲を言えば、もう少し「富士山」がほしかった。
それにしても片岡球子は103歳、小倉遊亀は105歳!

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