トレインチャ (Traincha)という女性歌手は5月にはじめて知った。
渋谷タワー・レコード売り場のポップで、The Look Of Love をフィーチャーした「バート・バカラック・ソングブック」を見つけ、勘がはたらいて買ってしまった。
曲によってはバカラック本人もピアノで参加していて、オーケストラまたはアコースティック・ギター中心の小編成をバックに、作曲当初のころのディオンヌ・ワーウィックなどよりゆったりと歌い上げる感じ。
BLUE NOTEから出ているせいかジャズに分類されているけれど、イージー・リスニングとしても評判がいいのはうなづける。最近 Who'll Speak For Love をフィーチャーした「バート・バカラック・ソングブック Ⅱ」も聴いてみた。こっちは知らない曲も多いが、歌唱のよさは同じ。
Ⅰの最後 That's What Friends Are For はオリジナルがディオンヌ・ワーウィック、スティービー・ワンダー、エルトン・ジョン、グラディス・ナイトというスーパー・セッションで、何かチャリティーのパフォーマンス風、これをソロで歌うと後半の繰り返しがしつこくなるけれど、トレインチャはこれをギター一本をバックにゆっくりしたテンポ、繰り返し一回だけで歌い上げていて、一人が一人に対してしっとりと語りかけるしみじみとしたものになっている。
Ⅱでもあの「雨にぬれても」が、違う曲かと思ってしまうゆっくりしたテンポ、これもなかなかいい。最後の On My Own は泣かせる。
そして今売れてるらしいのが「NEVER CAN SAY GOODBYE」というマイケル・ジャクソン・ トリビュートアルバム、MJのダンスを彷彿とさせるものではないところが、むしろ曲自体のよさをあらためて感じさせる。
なぜかTrainchaでなく本名のTrijntje Oosterhuis(発音は?)というクレジット(売り場ではわかるようになっている)。
ところで、最後の曲が終わって、うっかりそのままにしておいたら、1分ほどたって始まったのがあの名曲「スマイル」、このCDが不良品ではあるまいし(買ったのは輸入盤)。
後で知ったのだが、これはボーナス・トラック(通常クレジットされる)ではなくて、hiden track というものだそうだ。
聴き終えてもせかせかせず余韻に浸っているリスナーへのごほうびということだろうか。
「エリザベート3 運命の歳月」(SISSI-SCHICKSALSJAHRE EINER KAISERIN 、1957年オーストリア、104分)
監督・脚本:エルンスト・マリシュカ
ロミー・シュナイダー(シシー)、カール=ハインツ・ベーム(フランツ・ヨーゼフ皇帝)、マグダ・シュナイダー(シシーの母)、グスタフ・クヌート(シシーの父、マックス公爵)、ウッター・フランツ(ネネ、シシーの姉)、フィルマ・デギッシャー(シシーの母の姉、フランツ・ヨオーゼフの母)、ウォルター・ライアー(アンドラシー侯爵(ハンガリー))
「プリンセス・シシー」最後の第3作。シシーと夫フランツ・ヨーゼフはハンガリー王ともなったのだが、シシーは姑との問題もあり、ハンガリーの民の中に入っていくようになり、夫とは距離も心も離れるようになってしまう。夫も皇帝になりたくはなかったと母に告白する。というあたり、映画のなかほどからしばらく残念ながらで放送(NHK BS)されたとき雨が強かったらしく、録画は音声、字幕があやしくなりついに何もうつらない状態が15分ほど続いている。なんとか最後の25分ほどは戻ってきたので、話としてはりかいできた。
シシーはハンガリーにいるときに病を得、ポルトガル領マデイラ島で療養、その後はギリシャのコルフに行く。そして回復の途中で夫とよりを戻し、二人で旅の途中に北イタリアを通る。
このころオーストリアは北イタリアの動乱を平定した後で、騒動が心配された。
このあたりが面白いところで、まず大丈夫と思われたミラノ、スカラ座に招かれた当地の貴族たちはハプスブルグの招待が面白いないことから皆代理で召使をよこす。そして指揮者は皇帝・皇妃の入場にあわせてハイドンの「皇帝」とみせかけそれは1フレーズであのヴェルディ「歌劇ナブッコ」の「行け、想いよ、金の翼で」を演奏する。しかしシシーはそれに拍手して最後までオペラ(椿姫)を観て、その後のレセプションもこなし、すっかりミラノの人心をつかんでしまう。そしてそのあとのヴェネツィア・サンマルコ寺院礼拝でバックに「皇帝」が流れ、夫婦と国家、いずれもめでたしめでたしとなる。
オーストリアのナショナリズムを満足させることも目的の一つのようだから、これはこれでいいのだろう。戦後まだ10年とすこし、このシリーズはハンガリーとイタリアが相手とはいえ、なんとも強気である。
ロミー・シュナイダーはこの時まだ19歳、それでも第3作となれば、たとえば髪をほどいた状態で鏡の前で顔を整えている場面など、もっと大人になった彼女とあまり変わらない。このくらいの女優の素質であれば、成熟も早いのだろうか。
ところで、イタリアではなかなか歓迎とはいかないという会話のなかで、北イタリア平定でラデツキー将軍がやりすぎたからね、というセリフがあった。ウィーンのニューイヤー・コンサートでは呑気に「ラデツキー行進曲」をやるけれど、こういう映画とを見ると、なかなか面白い情景である。
試みに、このコンサートに登場したイタリア人指揮者アバドとムーティのケースを調べてみたら、二人とも「ラデツキー行進曲」を最後にやっており、別にわだかまりはないようだ。ワーグナーとイスラエルというほどではないのだろう。
またハンガリーの場面では、今フランスで話題になっているロマが出てきて、字幕でもロマとなっている。発音はよく聞き取れなかったが、ロマのようでもあった。字幕は最近この表記にしたのだろうか。
「星 新一 一OO一話をつくった人」 (最相葉月) (新潮文庫、上下 2010年、初出は2007年)
日本におけるSFの草分けで、ショートショートという形式・ジャンルを確立、長年にわたりその盟主として担がれ、それを全うした星新一(1926-1997)の評伝である。
日本でミステリが本格的に盛んになりはじめ、SFが翻訳から登場、そしてショートショートが注目され始めた昭和30年代前半、江戸川乱歩をはじめとする戦前からの推理小説作家、翻訳者の矢野徹、雑誌を率いた福島正実など、作家の小松左京、筒井康隆、眉村卓などが登場する。また関係した多くの出版社で星を担当した編集者も登場、彼らの話は当時のこの世界の動きを想像させるいい材料である。
私も、これらの雑誌を買ったこともあり、星新一作品の掲載作、そして初期の単行本などにも親しかった。
しかし著者も少女時代に集中して読んだもののそれっきりになっていたという。本書を読むと、星新一がそういう一時ではなく、きわめて長い間活動し、そしてその死まで、こんなことがあったのかという、普通人の人生ではあまり出会わないであろう多くの屈折があったことがわかる。
そしてそれが読み物としてたいへん面白い。さらに、星新一の父は星製薬という戦前はとても大きかった会社のオーナーで、明治の元勲との付き合いもあり、新一の母は森鴎外の妹の娘であることから、人間関係の広がりは大変なものである。
著者はこういう全体に気づいた、というか格好の鉱脈を掘り当て、調べに調べてこれを書いたのだろう。大変な仕事、力量だし、その対象への好奇心と一つの見方にかたよらないバランス感覚、これらがこの上下各400頁を飽きずに読ませる。
単に星新一のファン、SFおたく、同時代人という人には、こういうものは書けない。そこはさすが怪著「絶対音感」の著者である。
そう、最相葉月さんの書き方は好きだし、手本にしたいところがある。
それにしても、星新一を書くのにどれだけの資料、インタビューが必要か、それが瞥見できるのもこの本の効用だ。ここまでしないと星新一アーカイブはできないか、ということがわかってくる。
面白いのは下巻70頁に出てくる1963年の日本SF作家クラブ発足準備会が新宿の中華料理店で行われた時、そのもようがオープンリールのテープ・レコーダーで録音されていて、それを著者がきくことができ、その一部が本書に採録されていることである。
当時よく録音などした、それがよくこれまで残っていた、両方を思うとアーカイブというものの興味ある一面が見えてくる。
「田中一村 新たなる全貌」
千葉市美術館 8月21日(土)-9月26日(日)
ようやくこの目で見ることがかなった田中一村(1908-77)である。50歳で奄美に移ってからの多くの傑作はもちろんその前の主要作品の多くも、田中一村記念美術館が所蔵していて、まとめて見るとなるとそこ(奄美)に行かなければならない。
東京美術学校(芸大)に入る前からの多くの作品が集められ、あの晩年の傑作群につながる要素もいくつか見ることができる。奄美に行く前に多くの作品を自ら焼いてしまったことを考えれば、今回これほど展示されているのは驚きである。栃木県の生まれだが、千葉にも20年ほどいて、その間の画風の変遷も面白い。
とはいえ、この日本画としてちょっとユニークな面が、深められ、技法として洗練されたところまでいってないことも確かで、芸大同期の東山魁夷などと比べられたら、その頃は不遇をかこったとしてもしようがないだろう。それでも「白い花(やまぼうし)」(1947)は素晴らしい。
奄美時代の傑作は、縦長、畳一枚より少し小さい同じサイズのものが多く、これを実際にみると、その美しさは格別である。想像していたよりきれいである。
一般には最も有名な「アダンの海辺」(これは記念美術館にはないらしい)ももちろんいいが、先日の日曜美術館でも分析されていた「不喰芋と蘇鐡」、そして何枚かに描かれている「枇榔(びろう)樹」の独特な筆致と雰囲気は、なんとも言い難い。
島の外から来た人が、長いこと一つの場所に座って集中して得たものだろうか。
「若き皇后シシー」 (SISSI-DIE JUNGE KAISERIN、1956、オーストリア、101分)
監督・脚本:エルンスト・マリシュカ
ロミー・シュナイダー(シシー)、カール=ハインツ・ベーム(フランツ・ヨーゼフ皇帝)、マグダ・シュナイダー(シシーの母)、グスタフ・クヌート(シシーの父、マックス公爵)、フィルマ・デギッシャー(シシーの母の姉、フランツ・ヨオーゼフの母)、ウォルター・ライアー(アンドラシー侯爵(ハンガリー))
シシーのシリーズ第2作で、皇妃となり、娘が生まれるが、その養育を手元で出来ず、姑に取られてしまい、それを反対してくれない夫(皇帝)との間にひびが入って、実家に帰ってしまう。そのあと皇帝が追いかけてきて、最後はなんとかまとまるのだが、途中はいかにもアルプスという景色の中の旅が続き、娯楽映画の典型となっている。
このストーリーでキーになるのがハンガリーの問題で、オーストリアとハンガリーがうまくいかないところを、相手のアンドラシー侯爵をダンス相手に選ぶという機転で切り抜ける。そして最後にも、夫との間がまだうまくいかないという事情を押し切ってハンガリー使節の歓迎に出てくることにより、オーストリア皇帝がハンガリーの王ともなるというところに結びつける。
音楽には「ラコッツィ行進曲」が使われている。
ロミー・シュナイダーは前作から1年でやはり大人になったなと思わせる。それにしてもこの細いウェストは随分締め付けたのだろう。
ところで、こうやってこの映画を今のんきに見ているけれど、映画が製作された1956年の11月にはハンガリー動乱が起こった。その動きを見こしてこのストーリーにしたのか、あるいは公開されてからどんな反響があったのか、興味あるところだ。
前作と同様これもカラーの状態がきわめて良い。アグファ・カラーの技術、品質なのか、保存のせいなのか。テレシネを早めにいい状態で実施したせいか。この作品がオーストリアで愛されているからでもあろう。