メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

シャネル&ストラヴィンスキー

2010-01-26 22:26:20 | 映画
「シャネル&ストラヴィンスキー」(Coco Chanel & Igor Stravinsky、2009仏、119分)
監督:ヤン・クーネン
アナ・ムグラリス(ココ・シャネル)、マッツ・ミケルセン(イーゴル・ストラヴィンスキー)、エレーナ・モロゾーワ(カトリーヌ・ストラヴィンスキー)、グリゴリ・モヌコフ(セルゲイ・ディアギレフ)
 
昨年から公開が続いているシャネルものの三つ目、二つ目の「ココ・アヴァン・シャネル」は見ているが、その後に続く時期の話である。
 
この二人、時間と場所、作曲環境の提供、そこまではあったとしても、ここまでの愛と性、本当だろうか。どこまでが想像、いや妄想の世界か、調べる手立ても今のところはない。
  
シャネルの事業を引き継いだカール・ラガーフェルトが衣裳やおそらくインテリアもデザインしているし、確かクレジットにはストラヴィンスキーの関連団体も入っていたから、まったく根拠のない話ではないのかも知れないが、フランスという国は大したところである。
 
この話、軸はストラヴィンスキーであって、「春の祭典」の初演(1913年、パリ・シャンゼリゼ劇場)の失敗の後、ココ・シャネルが支援を申し出る1920年ころのことである。二人の性は随分大胆率直に描かれていて、それが、「春の祭典」に手を入れ再演の成功に持っていく、それはこのバレエの冒頭にある台地の目覚めを思い起こさせ、一方シャネルが香水原料豊富なグラースに出かけてあのNo5を創り出すことに通じる、ここはわかりやすい。
 
ココがまず先手をとり、イーゴルはそれを受け、それが逆になろうかというとき破局が、というのは、そうだろうなと納得する。
ただ、そのプロセスはいささか退屈で、衣裳と寝具、内装、そしてココを演ずるアナ・ムグラリスで持っているといえないこともない。
 
本当にこの女優は、力技の演技を要求されているわけではないけれど、なかなか目が離せない。タイプでいうとファニー・アルダン、フランス人が好きなおもむきがある。
 
そこへいくとイーゴルのマッツ・ミケルセンは、この脚本ならいいのかもしれないが、ストラヴィンスキーを多少とも知っていると、こういう無口なねっとりした人物像は不自然な感じが最後まで拭えない。そこも退屈な感じにつながっているのだろうか。
 
ストラヴィンスキーはもっとおしゃべりで、風貌もどちらかというと鳥の感じ、そして1920年ころは「春の祭典」の再演も頭にあったかもしれないが、もういわゆる新古典主義に作風も移っていたはず。そのあと最後はブーレーズあたりにも共感をもっていて、ピカソと同様、死ぬまで「前衛」であった。そのイーゴルはここにはいない。
 
面白いのは、冒頭のタイトル・ロールの「春の祭典」の始まりにぴったりの万華鏡風アニメ、そしてかなり長い時間を使った「春の祭典」の初演、ブーイング、混乱のシーンである。バレエの衣裳、振り付けも資料でほぼ当時を再現したものなのだろうか。
セルゲイ・ディアギレフ、ヴァスラフ・ニジンスキー、ピエール・モントゥー(初演指揮者)は、当人達に良く似た俳優、メイク。
 
因みに調べたところでは、ストラヴィンスキー(1882-1971)とシャネル(1883-1971)はこのようにほぼ同年齢、没年も同じである。
 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴィクトリア女王 世紀の愛

2010-01-15 21:27:45 | 映画
「ヴィクトリア女王 世紀の愛」 (TheYoung Victoria、2009英・米、102分)
監督:ジャン=マルク・ヴァレ、脚本:ジュリアン・フェロウズ、衣裳デザイン:サンディ・パウエル、音楽:アイラン・エシュケリ
エミリー・ブラント(ヴィクトリア)、ルパート・フレンド(アルバート)、ポール・ベタニー(メルバーン)、ミランダ・リチャードソン(ケント公夫人)、マーク・ストロング(ジョン・コンロイ)
 
イギリスのヴィクトリア女王(1819-1901)の即位と治世の始まりを描いたもので、そのあたりにうとい私には新鮮な話も少なくなかったが、はらはらするというほどのエピソードにとぼしく、ドラマにするには無理な題材だったかもしれない。
 
十代で女王になるのは危険と、いろいろな意図があって周囲が勧める(強制する)摂政の設置を断固拒否、18歳で女王になる。ここまでが前半で、後半はドイツから来たアルバートと結婚、波もあったが、最終的には仲の良い夫婦として、治世を確実なものとした、というところまで。
 
その後は、なんと9人の子供にも恵まれ、夫は20年後病死するが、女王は歴代最長の64年を在位、君臨した、そうである。19世紀は、英国が強い国家となり植民地も増やした世紀で、そう考えると王権が安定していたことは大きいのだろう。その一方で、この時代の息苦しい道徳観、社会通念などには、多くの小説で嫌悪感が表明されてもいる。
 
話としては退屈、それを多少救っているのは、製作に入っているマーティン・スコセッシ(そうなんと!)の息がかかっているらしい監督によるカメラワーク、そして定評あるサンディ・パウエルの衣裳、だろうか。
 
ヴィクトリアのエミリー・ブラント、この人は役によって見え方ががらりと変わる。本当はもっと崩したほうが良かったのかもしれないが、まずまず。
女王の夫というのは現実でも、映画でも難しい役回りなのだろう。そう考えればルパート・フレンドは主役の華に欠けるけれども、これでいいのだろう。
 
ロイヤル・アルバート・ホールの名前はこのアルバートから来ているそうだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンマ・ミーア!

2010-01-06 23:04:40 | 映画
「マンマ・ミーア!」 (MAMMA MIA ! 、2008英・米、108分)
監督:フィリダ・ロイド、脚本:キャサリン・ジョンソン
音楽:ベニー・アンダーソン/ビョルン・ウルヴァース(アバ)
メリル・ストリープ(ドナ)、アマンダ・セイフライド(ソフィ)、ピアース・ブロスナン(サム)、コリン・ファース(ハリー)、ステラン・スカルスガルド(ビル)、ドミニク・クーパー(スカイ)、ジュリー・ウォルターズ(ロージー)、クリスティーン・バランスキー(ターニャ)
 
アバの既成の曲を使って、物語を作り、ミュージカルにした「マンマ・ミーア!」 は世界的に大きなヒットとなり、日本でも2002年12月から劇団四季の公演でロングランとなった。
私が見たのは2003年4月25日に、電通四季劇場(汐留)のこけら落とし公演である。
 
この映画の予告編は何度か見る機会があって、どうもドナとソフィーの母と娘の配役に疑問があって、劇場で見るのはやめにした。
 
今回WOWOWで見て、感じたのは、このミュージカルは音楽とそのつなぎがまずいいのであって、カメラを少しでも引いてギリシャ、エーゲ海の美しい風景の中で人々を踊らせても逆効果、ということだった。
劇場映画だから、舞台に近い狭いセットで、というのは無理といえばそれまでだが、そうなると普通の劇映画としても見てしまうから、ちょっと無理な筋の弱さが目立ってしまう。
 
例えば「ウエスト・サイド物語」(1961)なんかは、もっとシンプルで、見る方も音楽とダンスに集中出来たと記憶している。
 
メリル・ストリープの歌は吹き替えでないようで、これは思ったよりうまい。うまいけれども、他の出演者と比べ、年齢的に無理があり、現れた男三人の誰が、若いときに今回結婚式を挙げる娘ソフィーの父親かわからない、という奔放な過去を持つ女、というイメージではない。台詞のしゃべり方も、どこかフェミニスト風なところがある、というのはこちらの思い込みだろうか。
 
娘ソフィーは、もう少し普通の新進美人女優にしてほしかった。
 
父親候補三人では、ピアース・ブロスナンをわざわざこの役に持ってきたのが効果的である。一方、コリン・ファースはこういう中途半端なポジションの役が多いけれども、ちょともったいない。
 
ドナの女友達2人はまずまずで、舞台同様の風采、でこぼこコンビである。
  
それにしても、四季公演当日の保坂知寿(ドナ)と樋口麻美(ソフィ)は、この映画の二人に比べ、数段よかった。
 
とはいえ、序幕の数曲、そして終盤の特に「勝者が全てを」(The Winner Takes It All) の音楽が効いているミュージカルだから、後味はそう悪くならない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村山槐多 展

2010-01-05 22:05:23 | 美術
松濤美術館  前期:12月1日-27日、後期:1月5日-24日
 
村山槐多(1896-1919)の作品をまとめて見たいという想いは随分前からあって、機会をねらっていたのだが、なかなかなかった。没後100年の10年前にこうしてみることが出来たのは幸運である。
 
ただ、考えてみると槐多については、東京国立近代美術館へ行けばほとんどいつでも見られる「バラと少女」、そして洲之内徹のちょっとした言及のほか、何かといっても、思い浮かばない。
 
こうして見ると、まず、「カンナと少女」(1915)はいい絵である。「バラと少女」(1917)に共通するところが多いけれども、よりストレートで、澄んでいて。
 
何枚かの自画像は、どちらかというと冷静な観察力。
 
これらのほか、人物を描いたものは、ブロンズ像のような硬い表面、静止感があり、しかも切れば血が噴出しそう。この両面併せ持っているところは、長く見ていて飽きない。
 
そして展覧会の副題にもあるガランス、これは茜色の染料系絵具のことだそうで、槐多はこれを多用した。彼の詩の中でも、ガランスには特別のポジションが与えられている。
こうして説明されると、関根正二(1899-1919)のヴァーミリオン(顔料系)との対照は明確である。それにしても同じ年にこの二人が夭折とは。
 
ところで「湖水と女」(1917)の風景の前に女性を置いた構図には、ここで説明にもあるとおり明らかに「モナリザ」の影響がある。河野通勢、土田麦僊にも同様の構図を持つ有名作品があるけれども、あれは多くの画家に何かを喚起したのだろう。
 
また槐多は風景画をたくさん描いていて、油彩のものはヨーロッパ表現主義の影響を受けたもののように見える。これがなかなかいいのである。
信州を描いたものが多いが、これは教えも受けた山本鼎との縁だろうか。槐多と山本鼎が従兄弟同士というのは、知らなかった。
 
図録は、情報量が多く、持つ価値がありそうだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする