メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

谷川俊太郎 「ベージュ」

2021-02-27 15:44:43 | 本と雑誌
ベージュ: 谷川俊太郎  新潮社(2020)
詩集をはじめから終わりまで順に続けてよむことはきわめて少ない。詩人の方も、一つ一つの詩をそういう想定で作ることはほとんどないだろうが、そうであっても読む人は読む。私の場合、この詩人の詩はどういうものなのだろうか、という興味が、一つ一つの作品を読みながらも継続していく、ということなのだろう。
谷川俊太郎も、詩集とか、初出の媒体などで読むよりは、なんらかの形で目に入ってきて、いくつかはなかなかだなと思った程度であった。
 
今回、この詩集は、昨年末に日本経済新聞で各分野の回顧の一つとして、蜂飼耳(詩人)が1年の成果の一つとして挙げたのを見て、初めて知った次第である。
 
蜂飼は「川の音楽」という詩の中の三行「川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると/生まれる前から死んだ後までの私が/自分を忘れながら今の私を見つめていると思う」を挙げているが、谷川の他の詩集がどうなのかわからないが、たしかに今頭の中を巡りあるいている自分と、いつの間にか解き放たれている私、つまり私がうたっているというだけでない、なにかそういう世界を感じているという詩が、ほかにもいくつかあった。
 
あとがきにあったことだが、ひらがな回帰ということは、なるほどそうかと思う。何も考えずに漢字を使うことは日常よくあるが、頭の中で思い浮かべ流れていくことのはのながれはひらがなにふさわしいかもしれない。最近和歌を見直しているから、なおさらなのだろう。
 
谷川には社会の動きに敏感に、強くかかわるという感じはないように思っていたが、この詩集には少し政治の季節の中といったものもある。茨木のり子の詩ほどではないから、受け取り方は難しいが、たしかこの二人はそういうところについてお互いコメントしたことがあったように、どこかに書かれていた記憶がある。
 
実は谷川の詩をよく目にしてきたのは絵本やそれに近い分野であって、「ホットケーキ」(きりなしうた)とか海外の名作絵本の翻訳(レオ・レオニの「スイミー」など)だけれど、なんといってもナンバーワンは「もこもこもこ」(絵は元永定正)で、これ三歳前後の子供たちの前で読み聞かせをすると、最初から最後まで声をあげ笑いっぱなしで。抽象的な絵柄とオノマトペだけなのだが。どうやって発想できたのか、これが私にとっての、この詩人の「不思議」である。
 
前記の蜂飼耳を知ったのも彼女が作った絵本が最初のきっかけだから、面白いものだ。
さて、谷川は1931年生まれで、あとがきには米寿になった、ベージュという色は嫌いではない、とあった。年齢がある程度いくと、なんとなくわかる。

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ヴィクトリア女王 最後の秘密

2021-02-20 15:39:39 | 映画
ヴィクトリア女王 最後の秘密 (Victoria & Abdul、2017英米、112分)
監督:スティーブン・フィロアーズ、脚本:リー・ホール、贋作:シャラバニ・バス
ジュディ・デンチ(ヴィクトリア)、アリ・ファザル(アブドゥル)
 
英国女王ヴィクトリア(1819-1901)の晩年、長い在位、大英帝国の繁栄のなか、彼女が皇帝の地位にあったインド記念金貨の贈り物を持参する役目をあずかった下級役人のアブドゥルが晩餐会で女王に気に入られ、次第に侍従相当にまでなる。
 
ただ予想されるように、周囲、皇太子など皇族、首相、侍従他の使用人たち、は面白くない。まだインドが独立する半世紀前で、しかも場所は宮廷である。そして実はアブドゥルはヒンドゥー教徒ではなくイスラム教徒であることがわかり、このあたりからも、話はややこしくなる。
 
映画としては、建物、衣装、料理など丁寧に作って見せてくれるところ、そしてなんといっても心身不自由になってからの女王が相手をよく理解できないところから、少しずつ進んで、人間的な感情を表出していくところ、しかも女王であるから、普通の人間味を素直に出すというわけではなく、それでも相手に、見ていくものに最後は納得させていく、この演技が、予想していたとはいえ、さすがジュディ・デンチである。
 
女王が崩御するとアブドゥルはインドに帰されてしまうが、その時に女王と彼の間を物語るものは徹底的に性分されていしまい、この話はあまりはっきりしない状態が続いていたらしいが、2010年にアブドゥルが残した日記が発見され、今回の映画となった。

もっともすべてこのようにあったかということになると、いろいろ議論はあるようだ。
クレジットに Based on real events...mostly とある。mostlyをどうとるか、国によって、人によっていろいろあるだろう。


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エマニュエル・トッドの思考地図

2021-02-14 15:49:17 | 本と雑誌
エマニュエル・トッドの思考地図
エマニュエル・トッド 著 大野舞 訳 筑摩書房
 
この本、完全日本語オリジナルとある。おそらく日本で最初に(日本でのみ?)出版する前提で書かれたものだろう。このコロナの時期にいかにもという気もしたが、トッド・ファンとしてはまず読んでみるということになった。読んでみると、そうキャッチ―なものではなく、むしろトッドはどうして今のような学者になったか、ものを書くひとになったか、ということを、かなりくどく語っている。
 
父はジャーナリスト、祖父はポール・ニザン、ユダヤ系であり、元共産党員、一応高学歴だが、しろいろあって数学が得意だったこともあり、統計学を使った社会学特に人口学を専門とするようになる。
そうやって具体的な事象、数字を見ていく中で、乳幼児死亡率がらソ連の崩壊を予測するという有名な指摘が出てくる。
 
ケンブリッジで学び研究したころから、フランスの哲学重視よりイギリスの経験主義に傾いていったようで、このあたりかなりぐたぐた書いているが、納得できるところは多い。
 
そういうところを見れば、例の2015年の「シャルリ・エブド」襲撃事件を受けて、フランス国内に起こった「表現の自由」を標榜したデモを「イスラム差別」とした分析もより理解できる。今のマカロン政権に対しても非常に辛い評価である。

この後トッドは国内でかなりいろいろ言われたようで、本書でもちょっと被害妄想的なところもある。それでも昨今のいろんな事象にも共通することだが、シンプルなポリティカル・コレクトネスが第一になってしまい、各地域の家族構造や収入、ジェンダーなどの要素をベースにした議論がしにくくなっているというのは納得できる。
 
その一方で、人が生まれてどういう家庭、学校、付き合いで育ってきたか、その過程でどういう趣味を身につけたかが、かなり大きな影響を与えるというブルデューの主張については、あまりにも見えている議論と、いやみを再三言っている。共通するところは多少あると思うのだが、何かあるのだろう。
 
コロナについては、これより1980年代のエイズの方が人々に与えた恐怖感は大きいという。コロナで死ぬのはかなり高年層だから、これが地域の生産力、人口に長く影響することはないが、エイズはなにより若年層が感染、死亡するわけで、そう言われると、今の欧米の多少ゆるい対応にはこういう背景があるのかなと考える。

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夕陽のガンマン

2021-02-12 21:15:41 | 映画
夕陽のガンマン ( For a Few Dollars More、1965伊、130分)
監督:セルジオ・レオーネ、撮影:マッシモ・グラマーノ、音楽:エンニオ・モリコーネ
クリント・イーストウッド(モンコ)、リー・ヴァン・クリーフ(モーティマー大佐)、ジャン・マリア・ヴォロンテ(インディオ)
 
あまりにも有名だが、これまで見ていなかった。やはり見ておくものである。それまでの西部劇とまったく違って、登場人物の人間的な面はほとんど描いていない脚本、それまでの西部劇から印象的なショット、ガンプレイ、顔と煙草のクローズアップなど、こればベストというものを集め、それで観るものに少しずつ想像させていく。いわゆる名場面の映像が続いて、まったく飽きさせない。
 
モンコとモーティマーは賞金稼ぎ、後者は前歴の職業柄か、スーツにタイ、前者はいかにもの流れ者で衣装もメキシコ風、出会っても親しまないが、強盗団を壊滅させて賞金を稼ぐために組むことになる。
 
インディオが強盗団の頭目で、この連中の内輪の関係やもめごとなど、よくわからないところはあるけれど、それは最後にすこしわかってくる味付けもある。
 
ここでイーストウッドは存在感と強さを見せるが、本作で渋くて底知れない強さをみせ、スマート(かっこいい)なのはリー・ヴァン・クリフだろう。いちいち気障なのもいい。
ヴォロンテは本当にこわさを見せる。
 
俳優、カメラにもまして、ここはなんといってもエンニオ・モリコーネをあげないといけないだろう。見ていないのにここに出てくる音楽はほとんど知っていた。また効果的に使われるおそらくパイプオルガンも迫力を出して盛り上げる。モリコーネは昨年亡くなったが、この人が映画史に残した足跡は計り知れないし、それまでの映画音楽たとえばマックス・スタイナー(「風と共に去りぬ」など)に続いた一連の作曲家たちとは全く違った次元を切り開いたと言える。
 
こういう映画音楽もあるのかと思ったのは、他には、ミュージカル映画ではあるがミシェル・ルグランくらいだろうか。

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ワーグナー 「さまよえるオランダ人」

2021-02-02 09:03:54 | 音楽
ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」
指揮:ファビオ・ルイージ、演出:ポール・カラン
トーマス・ガゼリ(オランダ人)、マージョリー・オーウェンズ(ゼンタ)、ミハイル・ペトレンコ((ダーラン)、ベルンハルト・ベルヒトルト(エリック)、アネッテ・ヤーンズ(マリー)、ティモシー・オリヴァー(舵取り)
フィレンツェ五月祭管弦楽団・合唱団、アルス・リリカ合唱団
2019年1月10,13日 フィレンツェ五月音楽祭会場 2021年1月 NHK BSP
 
「オランダ人」はしばらく聴いてなかった。ワーグナーの出世作ということだが、今回こうして聴くと流れがよく、飽きることがない。そんなに長くないのもいい。
 
漂流船のオランダ人船長が嵐で避難しているところで、近くの船と船長に出会う。オランダ人は船で漂流を続けなければならない運命にあるのだが、船長が一晩の宿を与えてくれ、娘と一緒になれれば救われ、財宝をあげる、という話になる。そして一緒に帰り着く船長宅には娘のゼンタが他の娘たちと機織りをしており、伝説の漂流する船長の絵にうっとりしあこがれていることがわかる。
その後はかってゼンタに惚れたエリックがからみ、オランダ人は娘の誠を得られなかったとして去っていくが、ゼンタが身を投げ、彼は救われる。
 
あまり具体的な演技のやりとりがない中で、二つの思い、幻想がからまるわけだから、これはシンプルな歌唱のやりとり、合唱、とりわけオーケストラの役割が大きくなる。
 
オランダ人、船長(ダーラント)、ゼンタの歌唱は訴えるものがあっていい。もっとも風貌からいうと、オランダ人は年配に見えすぎるし、ゼンタは可憐というよりオランダ人より背が高く割腹もいい。ただそれは演出上そんなに問題でないと判断したのだろう。ゼンタの歌唱は通常ではもう少し可憐な感じなのだろうが、オーウェンズの強くアクセントがきいたものものも、演出か指揮者の要求なのかもしれない。それはそれとして聴けばいい。
 
今回一番印象的だったのは指揮のファビオ・ルイージで、どうしちゃったの?と思うくらい素晴らしい。ゆるみのない進行、強弱、ソロの歌手たちのサポートとドライヴ、合唱のあおりなど。
 
もともとかなりの指揮者だし、メトロポリタンではあの話題を呼んだルパージュ演出の「指輪」で、レヴァインが二つを指揮した後背中だか腰だかの障害で出来なくなって、あと二つをルイージがしっかりカヴァーした。その後もいくつかこなしている。イタリア人だからこのフィレンツェという場も加わってということなんだろうか。
 
演出は最初の避難港、帰航した港、船長の自宅。機織り場など、そう変化をつけるわけにいかない作品だが、風と波の嵐については今の映像技術を駆使して迫力を出している。機織りの女性たちだけ衣装が当時でなく100年前くらいか?膝下くらいの短いスカート、短髪となっており、つまりシャネルの時代で、働く女性の意識の表現を図ったのだろうか。
 
全体として感じたのは、オランダ人のどうしようもない運命感と救済願望、ゼンタの自己犠牲願望をより強く表出しようということだろうか。自己犠牲も後のブリュンヒルデになると複雑になって来るのだが。
 
この「オランダ人」と比べると、同じ荒れ狂う海に対するものでも「アメイジング・グレイス」は幸福感の方に行っていて、これは賛美歌である。
 
フィレンツェ五月祭なのにどうして1月?と思ったのだが、ここは座付きオーケストラの名前でありながら常設なのだそうだ。
 
ところで、以前どこかの空港でKLMオランダ航空の飛行機が近くにいて、機体を見るとなんと「Flying Dutchman」! 安全第一の航空機に縁起でもないと思ったのだが、このあたり意気なのかユーモアなのか、どうだろう。その後世界の中では誤解する人もということで、コントロールしているらしいが、まったく使わなくなったわけではないようだ。



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