メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

しあわせの雨傘

2012-02-29 16:08:41 | 映画
「しあわせの雨傘」 (POTICHE、2010年、仏、103分)
監督・脚本:フランソワ・オゾン
カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェラール・ドパルデュー、ファブリス・ルキーニ、カリン・ヴィアール
 
夫(ファブリス・ルキーニ)に代わって雨傘会社の素人社長になるはめになった妻(ドヌーヴ)が、意外にうまく経営をする、という話だときいていたので、やり手オゾンとしてはずいぶんおとなしいほのぼのとした映画、と思っていたら、確かにそういう筋なのだが、次から次へと、短い筋は先が読めない展開になり、楽しめる作品になっている。
 
こういう意外な話が次々というのは、舞台ではよくあるケースだろうが、映画は70年代(1977年の設定)の背景を忠実に出しているなかで、集中してみることが出来る。ファッション、車、タバコをスパスパなどが懐かしい。
 
70年代後半という、政治の季節が過ぎた倦怠感ただよう状況をうまく使って、それを知っている人には会話が面白い。
 
工場で組合指導者だった現在の市長(ジェラール・ドパルデュー)が実は彼女の昔の不倫の相手という設定で、浮気ものの夫に対してこれがじわりときいてくる。
 
ところでドヌーヴと雨傘といえば、彼女をスターにした名作「シェルブールの雨傘」を思い浮かべる人が多いのはオゾンも計算済みだろう。それで、シェルブールでは男を待っていられなくて金持ちと結婚した娘(ドヌーヴ)が未亡人になり、つつましい幸せな家庭を作っている男のガソリンスタンドに来る、という彼女にはつらいラスト(名場面!)を思い浮かべるが、今回はこれが逆転して、残念なのはドパルデューというのが面白い。
 
原題のPOTICHEは陶磁の壺で、飾りの置物、妻は夫にとってこういう壺か!という会話が随所に出てくる。 

200m個人メドレー

2012-02-28 21:40:44 | 雑・一般
数日前、初めて200m個人メドレーに挑戦してみた。
スイミングスクールで前の週から予告されていて、準備段階の練習もしていたが、最後まで泳げるかどうかは未知数。軽い気持ちで、とにかくゆっくり泳いだのがよかったせいか、なんとか完泳できた。
 
25mプールで50mきざみだから、様々なターンもある。最初のバタフライ50mはきわめて力を抜いて泳ぎ、次の背泳もおなじように入った途中で、これはなんとか行けるかなと感じた。ともかく得意の平泳に入れたので、そこで少し息をついたが、それでも最後のクロール50mはかなり意地になって泳いだと思う。
 
100m個人メドレーは普段の練習でも時々やることがあり、マスターズでも泳いでいるけれども、200mとなると、スクールの練習では、一つのコース数人で右側通行だから、力の差と各人の得意種目によってスムーズに進まないこともあり、まずやらない。
 
今回、タイムは計らなかったがおそらく5分位かかっただろう。まずは泳げたというだけでいい。それにしても、2分ちょっとで泳ぐトップスイマーはたいしたものである。

ベッリーニ「清教徒」(メトロポリタン)

2012-02-27 14:56:00 | 音楽一般
ベッリーニ:歌劇「清教徒」 (I Puritani) 
指揮:パトリック・サマーズ、演出:サンドロ・セキ
アンナ・ネトレプコ(エルヴィラ)、エリック・カトラー(アルトゥーロ)、フランコ・ヴァッサロ(リッカルド)、ジョン・レリエ(ジョルジョ)
2007年1月6日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2012年1月WOWOWの放送録画
 
このオペラを見るのも聴くのも初めてである。イギリスの議会派と王党派の争いが背景にあるから清教徒(議会派?)というタイトルになっているのだろうが、登場人物はほとんど議会派だし、最後もどうしてそうなるのかよくわからないという筋立て。そういえば「ルチア」もスコットランドの話であった。
それでも、エルヴィラが恋する相手アルトゥーロが裏切ったと誤解して演じる狂乱の場 がすべて、それがよければ満足というもので、演じる方も、観に行く方もそのつもりのようだ。
 
狂乱の場(Mad Scene) は30分に及び、ベッリーニ(1801-1835)最後の作品だけあってメロディーは美し、ここでは血みどろという側面はない。、歌うアンナ・ネトレプコは、このところ何度も録画に出てくるようにメトのもっともすぐれたディーヴァの一人で、寝転がって歌うところなども含め歌唱の魅力は文句なしといってよい。それにアップで撮られていることを彼女はわかっているわけで、それを前提としたしぐさや表情など、女優としても大したものである。
 
幕間の随所で過去のこういうベルカント歌手の談話、ラジオ版解説で出ていてこの役もよくやっていたビヴァリー・シルズなどの解説があり、いかにこの曲を彼女たちが愛しているか、モーツアルトに比べても「声」にいいのは、メロディーラインに無理がなく、オーケストラ編成が小さいので無理して張り合わなくてもいいなど、なるほどと納得する話が多かった。
シルズはこの半年後に亡くなったそうだ。
 
メトロポリタンでこの種のものをやってくれて気楽に見ることが出来ると、オペラの世界の理解、楽しみが、もう少し広がるかもしれない。

グッドモーニング、ベトナム

2012-02-21 16:40:55 | 映画
「グッドモーニング、ベトナム」(GOOD MORNING, VIETNAM  1987米、120分)
監督:バリー・レヴィンソン、脚本:ミッチ・マーコウィッツ
ロビン・ウィリアムス、フォレスト・ウィテカー
 
1965年のベトナム駐留アメリカ軍放送局(FENのようなもの?)で、朝一の放送を担当しにクレタから赴任してきたDJ兵(?)クロナウア(ロビン・ウィリアムス)、下品なスラング、ジョーク、情勢の寸評、選曲で一躍前線兵士の人気者になる。それをやっかむ旧態でさえない上司アナウンサーにいろいろ邪魔をされる中で、現地の兄妹、その周辺の庶民と、酒場や米語教室を通じて交流する。クロナウアは実在の人をモデルにしているとか。
 
ベトナム戦争中の話としては、深刻なところがない中で、進んでいく。コメディ仕立てだから、見る前は「マッシュ」のようなものかと思っていたが、こっちは朝鮮戦争の中という設定ながらベトナム戦争で重苦しい1970年に作られた映画で、ブラックといえばブラックなところもベトナム戦争を想起させる効果をねらっていただろう。
 
それに比べれば、この映画は兵士も、そして他国の庶民も、こういうくだけた和やかさのなかで、何であれやっていく、ということをベースにおいたものとなっている。だから最後も悲劇になりそうで、それほどでもない。
 
そしてロビン・ウィリアムスのしゃべりは、これぞスタンダップ・コメディの名人というものだろうか。
戦争を描いてこれでいいのか、という声もあろうが、この世界がないと、これからも異民族間はなかよくやっていけない、という意味では、あと味はいい映画である。
 
フォレスト・ウィテカーはこのあと随分起用されてオスカーもとったようだが、ここでも大きな体で、頼りになる同僚を演じている。
 
主人公が放送できなくなって、前線にいく兵士集団にしばし生で一人一人に出身地などききながらしゃべり飛ばしていき、時間が来て彼らが出かけていくのを見送っている顔のアップ、この場面がいい。 
 
公開されてしばらくしたころ、知人から勧められたのだが、なぜかレンタル、放送とも縁がなく、ようやくWOWOWで見た次第。

ジルヴェスター(2011年)の「グリーグ」、「こうもり」

2012-02-19 16:24:57 | 音楽一般
元旦の夜に放送されるウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサートは、少なくとも後半飲みながら生で見るのがほぼ習慣になっているけれども、大晦日のジルヴェスター・コンサートは、必ずしも生放送でないこともあり、その後録画しても、かなり時間がたって見ることになる。
 
さてまずベルリン・フィル、今回はエフゲニー・キーシンが来てグリーグのピアノ協奏曲を弾いた。指揮は常任のサイモン・ラトル。
名曲だし、これをバリバリと、また瑞々しく弾いた演奏がかなりあっても、キーシンを聴くとこんなにスケールの大きい、骨太な曲だったかと思わせる。特に第1楽章のカデンツァ、あまりの見事さにラトルもぼうっとして聴きほれ、この楽章の終わりで拍手が出てしまった。
 
キーシンは恰幅もよくなり、それは音にも影響しているかもしれない。ちょうど23年前、1988年の同じジルヴェスターで17歳の彼はチャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾いたのだった。指揮は死の前年だったカラヤン。以前このブログにも書いたけれど、まさに何世代か後に何かを引き継いでいくような象徴的な演奏、場面だった。ちょっと背中をそらし、精一杯大人の演奏をしようとしていたけなげなキーシン。なんと感動的な演奏だったことか。
   
そしてウイーン国立歌劇場は、ヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」。
指揮:フランツ・ウェルザー・メスト、演出:オットー・シェンク
クルト・シュトライト(アイゼンシュタイン)、ミカエラ・カウネ(ロザリンデ)、ダニエラ・ファリー(アデーレ)、ゾリャーナ・クシュプラー(オルロフスキー公)、マルクス・アイヒェ(ファルケ)、ライナー・トロスト(歌手アルフレート)、アルフレト・シュラメク(刑務所長フランク)、ペーター・シモニシェク(看守フロッシュ)
 
好きな「こうもり」も見るのは久しぶり、カルロス・クライバーのバイエルン、アーノンクールのウイーン・フォルクス・オパーのビデオは見たけれども、ウイーン国立歌劇場は初めてかもしれない。
一人も知っている歌手はいない。けれども皆声はいいし、ダンスも達者、メトロポリタンほどではないがカメラワークもいいから十分に楽しめた。 
 
アイゼンシュタイン役は何かアメリカの人に見えて、今やこういう分野もブロードウェイのミュージカルとそれほど変わりはないのかもしれない。あとはアデーレがなかなかよくて、この役が映えるとやはりいい。
 
これ、主要な役の数人がみな変身願望からまわりをだまして、楽しみに舞踏会にでかけるわけだが、それを観客だけが知っていると思っていると、終盤で実はこれがこうもり(ファルケ)がすべて書いた筋書でしたというどんでん返しで、こういうユーモアはなかなか他のオペラにないものになっている。 
 
演出はオットー・シェンク、カルロス・クライバーのものもこの人だったし、こういう上等なコメディで彼の演出は傑出していて、随分長続きしていることに驚く。ロバート・ルパージュなんかがやったらどうだろうか。ちょっと仕掛けが過ぎるかもしれないが。
 
ウェルザー・メストの指揮はよどみなく楽しめる流れになっていたが、ここが記憶に残るというところも特になかった。たとえばパーティでの「雷鳴と電光」でのあのカルロス・クライバーの密度の高さ、そして「これ実はすべてファルケの筋書きだったんですよ、お客さんもだまされましたね」というところですーっと入ってくるあの有名なこうもりのテーマ、このときのおとぼけはカラヤンが英フィルハーモニアを振った旧盤(1955年モノーラル録音)以上のものを知らない。1950年代のフィルハーモニアは世界最高のオーケストラだったかもしれない)。