メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ゆれる

2006-08-31 22:29:02 | 映画
「ゆれる」(2006年、119分)
原案・脚本・監督: 西川美和
オダギリジョー、香川照之、伊武雅刀、新井浩文、真木よう子、蟹江敬三、木村祐一
音楽: カリフラワーズ
  
ストーリー、仕掛け、展開、カメラと西川美和のやりたいことが隅々まで行き渡った作品、その力の入りようは気持ちいい。しかし、彼女の思いが空回りしたとは言わないが、そのいい意味での欲張りからか、見終わったとき、こちらの頭の中には混乱が残り、それを考え直しまとめるのに何時間も要した(それが狙いなのだろうか)。
言われているほど激しく揺さぶられる重い映画という印象ではない。
  
東京に出て写真家として成功している猛(オダギリ・ジョー)が母の一周忌で実家に帰る。父(伊武雅刀)とガソリンスタンドをやっている兄の稔(香川照之)、猛、幼なじみの娘(真木よう子)の3人で久しぶりに渓谷に行くのだが、弟は兄と娘が吊橋で絡んだ挙句、娘が落ちるのを遠くから目撃する。そして娘は死に、兄は殺人の容疑で裁判となる。
  
この裁判で次第に細かい事実が明らかになっていくように見えるが、兄と弟、そして見るものにわかってくるのは、2人とも本当に起こったのは何だったのかわからないということだ。つまり、意図して突き落としたのか、娘がよけた拍子に壊れかけた橋から落ちたのか。見ているこちらにも明かされない。
脚本の意図としても、何が事実か決めないということだろう。
  
その進行に、父もからんだ兄弟の過去、今のお互いに対する思いが交錯し、裁判も思わぬ展開となる。
この物語では、裁判としての事実がどうこうよりも、兄弟が互いにどう思っているか、どうしたいのか、それは何か無理をしている結果なのか、その葛藤の様相が最後に向かって動いていく。
  
人間と人間の間の事実は、その人たちが相手をどう理解しているかによって、変わってくるということだ。そして最後の加速、結末となる。事実は何かということでは「藪の中」だが兄弟の話としてはそれで終わらない。
繰り返せば、物語は弟にとっての兄の(過去も含めた)再構築であり、また自らの再生であって、真相の究明ではない。この後味は悪くない。
  
キャストでいえばここはなんといってもオダギリジョーである。この人を得たことは大きい。うまく演じているというより、一瞬一瞬をその後どうなるかわからない、自分で時間を刻んでゆく人間として演じている。今後も映画の世界に欠かせない人になるだろう。
それに対して香川照之はうまさが先に目立ってしまうが、最後の場面の動き、表情はさすがである。
  
検察官(木村祐一)と弁護士(蟹江敬三)のやりとりをこんなにコミカルにやることはなかったであろう。ミスキャスト。
  
始まりから車を運転し実家に帰ってくるまでのカメラワーク、音響はテンポがよく、気持ちいい。また実家の日本家屋の撮り方もうまい。留置所面会室でのカメラ、固定とハンドの使い分けもいい。
 
監督のやりたい細かい仕掛けは、たとえば娘の靴が浮いて流れてくるところのような先だし、寸止めなど、またファミレスの赤い風船の意味ありげなおき方など、数あるが、兄の手首の傷を除けば、細部に神が宿るというところまではいっていない。
 
渋谷のアミューズCQN(シネカノン)の60人という小さいスクリーンは立ち見になっていた。劇場、フィルム本数ともこれだけ評判になったときの用意が出来なかったのだろう。
ただこのところ、渋谷のここ(3スクリーン)やパルコのシネクイント他では、作り手と見る方が、期待を持ちながら見守っているいい雰囲気があり、日本映画もかっての大会社による製作・配給から一度ボトムアップとなり、再構築が進んでいる感がある。

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バビ・ヤール

2006-08-27 16:19:35 | オーケストラ
ショスタコーヴィチ「交響曲第13番作品113《バビ・ヤール》」(1963)
キリル・コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団・男声合唱団、ジョン・シャーリーー=カーク(バス)
1980年12月18日、19日ミュンヘン ヘルクレス・ザール(ライブ) (PHILIPS) タワー・レコード企画の復刻(1000円)
 
1962年の同じ12月18日にこの曲を初演し、この録音の3ヶ月後に世を去ったコンドラシンよる演奏。第13番はショスタコーヴィチの交響曲の中での評価は高くないようだ。もちろん奥手の当方は例のバルシャイ指揮全曲(3000円!)で対訳なしに一回聴いただけだが、今回は対訳つきということもあるし、なにやらいろいろ背景がある曲とのこで、試した次第。
 
歌詞を追い、聴いてみて、音響のわりにずしりとくるものがなく、またここから想像が広がるということもなかった。
 
エフトシェンコによる歌詞とCD解説の一端を読むと、この「バビ・ヤール」とはキエフ郊外の谷で、第2次世界大戦中ドイツ軍がここで約10万人のユダヤ人、ウクライナ人を虐殺したといわれている。またこの詩はソ連によるユダヤ人迫害への抗議であるとも言われている。これが第一楽章でかなり長い。そして第2楽章~第5楽章まで、やはりエフトシェンコの歌詞が続き、圧制に対抗するユーモア、生活する女達の知恵、密告の恐怖、出世主義などが描かれる。
ほぼ全体に声楽がからんでいる。
 
歌詞があまりに具体的、詳細であり、それに音楽が寄り添っているから、それだけで1時間弱続いてはインパクトが薄くなる。
解説によると1956年のスターリン批判から始まった「雪解け」の中でエフトシェンコが1961年にこの詩を発表した。
以前であれば、こんなに具体的な表現で体制批判できなかったであろう。だから、ここには暗喩、隠喩というべきものは少なく、ストレスに欠けているともいえる。ショスタコーヴィチの作曲はこの詩人に対する支持の表明以上になっていない、聴くものに想像の広がりを刺激するというまでには至らない、ということだろうか。
 
もっともこのすぐ後、あまりにはっきりした体制批判に注文が出、その後それほど演奏されなかったそうである。それはこの曲の悲劇だが、だからといってその価値が高まるというものでもない。もとは作りやすい環境で出来た曲なのである。
 
その後のショスタコーヴィチを、堕落した作曲家と呼ぶ向きもあるようだが、これだけの人が何も意識しなかったはずはない。晩年のいくつか、今後注意して聴いてみようと思っている。

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オシムの言葉

2006-08-21 22:41:50 | 本と雑誌
「オシムの言葉  フィールドの向こうに人生が見える」
木村元彦著 (2005年12月 集英社インターナショナル)
 
イビツァ・オシムのサッカー観、その根底には一つ一つのゲームとそれにかかわる人々への敬意がある。
 
ジェフ・千葉のファンではないがオシムという人には少しずつ興味を持ち始めていたし、日本チームの監督に一度なってもらってもいいかなとは思っていたし、この本も読む予定だったが、事態がこんなに早く進むとは思わなかった。
 
以前から旧ユーゴ、そのサッカー、そしてオシムを追い続けた著者のこの本、昨今のオシムに関する情報はほとんどこれをその源としている。
旧ユーゴがたどった複雑な過程、そしてその中で生き抜いてきたボスニア人でありサッカー人であったオシムの人生と、その監督としての軌跡、オシムはその理論をまとめて語ることはないから、多くのエピソードを拾いながら彼のサッカーとはという問いに対し考える材料をこの本は提供している。
 
オシムのサッカーでは、4バックや3バックなどのフォーメーションにとらわれず、相手を見ながら、どうマークし、どう相手を崩し、守勢に変わればどう穴を埋めて反攻に転ずるか、考えながらやる、とはよくいわれるものである。
確かに地力に極端な差がないときは、対峙状態からどこかでブレークを起こしスペースを作り優位状態を作って得点しなければならないが、それは一度は自軍のバランスをも崩すことであり、相手がそこを突いてくる前にカバーをしなければならない。
考えろ、走れ、というのはそのためである。
結果としてはいわゆるオランダのサッカーに似ているかもしれないが、それよりさらに常時スクランブル態勢にということだろうか。
 
だが考えてみればこれはローマ帝国など古来の陸上戦闘においても似たようなことであった。「ローマ人の物語」(塩野七生)でもそうだったと思う。
そういえば旧ユーゴのバルカンは、ローマ帝国においても戦闘が絶えなかったところであり、傭兵から功績でローマ人になった人も多かったに違いない。
ここから多くのサッカー指導者が出て世界に散っているのは、近代と古代と、両方にそのルーツがあるのだろうか。
 
一見対照的だが、このオシムが指導する日本チームとあのフィリップ・トルシエに忠実に従いフラット3フォーメーションをとるどこかの国のチームとやったら面白いと思う。 結果は? わからない、だからサッカーは面白い。
 
ところでオシムの言葉が箴言めいていて意地悪く聞こえるのには、日本のジャーナリズムに対する教育的な意図もあるのではないか。
彼らの質問は、システムの問題、殊勲者は誰(つまり誰をスターにしようか)、今後の見通し、日本代表はどうなる、代表の勝算は、、、どれも今のこのゲームそのものに対してではない。オシムにとって一つ一つのゲームは、そんなに思い通りにいくものではなく、そういったところで勝つことも負けることもある、それをどう見て、どう受け取り、考えるか、必ずしも結論がでなくても、その繰り返しである。サッカーの尊さはむしろそういうところにある、面白さはそういうところにある。だから、見出しを作りたい、ファンタジスタを仕立て上げたい、などというメディアには皮肉も言いたくなるというものだ。
  
日本のサッカーはこれまで特にドイツ、そしてブラジルの影響を受けてきた。この半世紀、ドイツのクラマー、ブッフバルト他、そして監督ジーコに至るまでの数々のブラジル人たち。
その一方で、かなりの旧ユーゴ系の選手、コーチ達もいた。そして今オシム、母国で要職についたストイコヴィッチと、世界有数のサッカー指導者輸出国といいコネクションが出来るのは歓迎すべきことだ。

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アイランド

2006-08-20 12:07:30 | 映画
「アイランド」(The Island) (2005年、米、136分)
監督:マイケル・ベイ
ユアン・マクレガー、スカーレット・ヨハンソン
 
近未来の米国、ある施設の中では、外界は大気汚染で住めるところではなく、そこで管理された生活が営まれ、抽選で当たったものがきれいな理想郷「アイランド」に行くことが許されるということになっている。
が、実はそこがクローンとその臓器の生産工場であり、アイランドに行くとは臓器をとられることを意味することを知った男(ユアン・マクレガー)と女(スカーレット・ヨハンソン)がそこを逃げ出し、工場栽培のクローンとして外の人間社会に戸惑いながら逃避と対決を続けていくというもの。
 
あまり細かいところを気にしなければ、暇つぶしにはなる。娯楽作品としてはカーチェイスもまずまずだし、スカーレット・ヨハンソンも綺麗だ。
しかし肝心のクローンの話は昔のSFにちょっと現代の倫理的な問題意識を加えた程度で随分いい加減だし、展開も都合よすぎる。
工場の警備の甘さ、あまりの幸運と出会う相手の人の良さなど、もう少しペシミスティックなのが普通ではないだろうか。
 
クローンの問題はただ脚本のプロットの一部で、これをあまりどうこう考えようという気は製作者側に無かったのかもしれない。ピュアなまま大人になったものと人間社会の対比といっても、それは純真な子供を扱った場合と特にことなるものではない。
 
最近カズオ・イシグロ「私を離さないで」を読んだということから、こっちも構えすぎということもあるのだろうが。

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亀は意外と速く泳ぐ

2006-08-16 17:54:24 | 映画

「亀は意外と速く泳ぐ」(2005年、91分)
監督: 三木聡
上野樹里、蒼井優、岩松了、ふせえり、要潤、伊武雅刀、嶋田久作
 
こういうタイプのコメディを見るのははじめてである、特に日本映画では。ぜひとも見なさいというほどではないにしても、コメディとして、肩のこらない微笑ましいものだ。

ひまで退屈な若い主婦(上野樹里)があるときスパイ募集の広告を見て応募し採用されるのだが、指示されることはとてもスパイとは言いがたく、目立たないようという指示のものとにわけのわからない小さいエピソードがギャグとともに続いていく。最後はジグゾーパズルがつながるようにああそうかとう具合にはなるのだが、それもたいして劇的ではない。
 
こういうものに対してよく使われる「ゆるい」という形容詞が、ストーリーにもギャグにも当てはまるだろう。
 
ギャグの一つ一つはピン芸人の一発というほどその場で決まるわけではない。それでも何かこんなことでもあれば退屈な日常は少し気がまぎれるかと思わせながらの進行。 「裸の銃(ガン)」シリーズ(1989~)でザッカー(監督)がやるちょろちょろした画面内いたずらの雰囲気に多少通じるだろうか。
 
場所は三浦半島海沿いの町らしいが、面白いのは時代設定で、今の携帯を使っているのに、服装、調度、インテリアなど、1970年ころのそれもその博物館を再現したようなおかしさがある。いかにも紙芝居のセットという感じ、それにスパイもののパロディということから、「007/カジノロワイヤル」(1967)を思い出してしまった。作り手はある程度この作品を意識していたのではないか。 
タイトルのパラパラ漫画も面白い。
 
主人公は、これはもう上野樹里でなくては成り立たなかったのではないかというくらい自然にはまっている。この人、「ジョゼと虎と魚たち」でお高くとまった女子大生を好演した翌年にあの「スウィングガールズ」で女子高生バンドリーダー、その翌年にこの主婦、それであの目立たない風貌、得がたい女優である。
上野の親友を演じる蒼井優、名前は最近頻繁に聞くけれども、作品で見るのは初めて。アイドル路線だけなく今回の方向も大事にするなら楽しみな女優である。
そのほか皆達者な人たちで固めている。特に面白いのは、ふせえり、なんとも無様な役をやった要潤、あと伊武雅刀、嶋田久作が利いている。
 
この映画の監督、音楽その他、それらに関係する文脈をもっと知っていれば(つまりそういう世代であれば?)さらに面白いのだろうが、それはしょうがない。


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