メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」

2021-03-31 10:18:57 | 音楽一般
ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」
指揮:ファビオ・ルイージ、演出:アンドレアス・ホモキ
クリスティアン・ゲルハーヘル(シモン)、ジェニファー・ラウリー(アメリア)、クリストフ・フィシェッサー(フィエスコ)
フィルハーモニア・チューリッヒ、チューリッヒ・歌劇場合唱団
2020年12月4,6日 チューリッヒ歌劇場  2021年3月 NHK BSP
 
ずいぶん久しぶりの「シモン」である。こうしてみると、苦手な作品が結構あるヴェルディの中でも、しっくりなじめる。ジェノヴァの新興階級と貴族との対立を背景に、シモンとフィエスコ、そして出生の秘密をかかえるアメリア、古代の英雄・戦争というものでもなく、壮大な悲恋がテーマでもない、現代にも通じるドラマであるから、聴いていて違和感は少ない。
 
中期に作られた時には不発だったらしいが、後期にボーイト(台本)の改訂でこの優れた出来になったようだ。
旋律もかなり覚えていたようで、すぐに入っていけた。
 
この上演は特別なもので、コロナの影響を考え、無観客というのは珍しくないが、オーケストラは別の会場で奏者たちは十分にディスタンスをとり、それを光ケーブルで舞台に転送、歌手は指揮者の映像を画面で見ながら歌ったという。
 
どおりでピットのオーケストラより音がいい、生々しいというかスタジオ録音に近いもので、こうしてビデオで聴くのにはフィットしている。歌手の動きと歌唱の音録りは同時だったのかどうかはよくわからないが、同時だったとすればマイクのセットもよかったのだろう。
 
舞台、演出だが、こういうしかけは初めてではないけれど、回転ステージをうまく使い、ドアと壁の動きで場面を変えていく。今回の全体の枠組みには適したものだろう。だが、衣装特に男たちのものが全体に黒っぽく、ロングでは誰だかわかりにくいことはあった。

歌手は知らない人たちだが、シモンとフィエスコはバリトンとバスの魅力をたっぷり聴かせた。
指揮はこのところ絶好調のファビオ・ルイージ、「さまよえるオランダ人」で感心したけれど、当分この人に頼る感じになるのだろうか。
 
ところで、「シモン」をはじめて観たのは、1981年のミラノ・スカラ座初来日公演、指揮は頂点をきわめつつあったアバド、演出はスカラやピッコロ・テアトロなどで絶好調だったストレーレル、カップチルリのシモン、フレーニのアメリア、ギャウロフのフィエスコというドリーム・キャストだった。
 
ストレーレルの舞台は上記とは対照的に、開放的で、今も眼に焼き付いているあの巨大な帆を背景にしたもの。この作品、最後まで聴いていると、たしかに主人公たちの心の底にはいろんな意味で「海」があって、それが音楽にも反映している。
 
もう一つ観たのがカルロス・クライバー指揮、フランコ・ゼッフィレルリ演出のプッチーニ「ラ・ボエーム」。オペラに関しては最高の日々だった。


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フィルボッツ 「だれがコマドリを殺したのか?」

2021-03-18 09:21:48 | 本と雑誌
イーデン・フィルボッツ 「だれがコマドリを殺したのか?」
 武藤崇恵 訳  創元推理文庫
 
昨年はじめてイーデン・フィルボッツの作品を読んだ。その「赤毛のレドメイン家」(1922)と並んで有名であるらしい本作は原題「Who KilledCock Robin?」(1924)、ただこれは「僧正殺人事件」(ヴァン・ダイン)のようにマザー・グースの世界に特に関連付けられたものではなく、登場する女性の愛称というだけである。
 
かなり人気のあるミステリなのだが、「赤毛のレドメイン家」と比べると、終盤のジェットコースター的謎解きを除けば、ただの男女の愛憎劇といえなくもなく、肩透かしをくった感がある。
 
若い医師ノートンが友人の探偵ニコルとリゾートで魅力的な姉妹と出会い、知り合いになって、その妹ダイアナが好きになり結婚する。姉マイラとダイアナにはそれぞれミソサザイ、コマドリという愛称がある。
 
ノートンの唯一の近親は伯父だが、そのたいそうな遺産はお気に入りの秘書ネリーとノートンが結婚するときに限って遺贈すると決めている。このことをノートンはダイアナに隠しているわけだが、それがわかってきて二人の仲が悪くなり、ダイアナは病気で衰えていく。ノートンが毒を盛っていると言い出して、結果ダイアナは死んでしまうが、これはノートンが? あるいは濡れ衣か?という進行になり、探偵ニコルの出番となる。
 
二人の愛憎の愛の方があまりよく描けていない感じがある。
 
ところで、作者はこのドラマを三人称形式で書いている。それは普通といえば普通なのだが、今回気がついたことだけれど、各登場人物の描写に差があるとこの人は犯人か犯人じゃないかをある程度想像してしまう。特に感情を描写してしまうと、最後にあれは実はと言われても、ということである。
 
そう考えると、ミステリ小説でハード・ボイルド、つまりヘミングウェイ的に言えば形容詞を極力省くということは、その点で意味があるのではないだろうか。
 
フィルボッツはミステリ以外の作品が多く、そこでも評価されていたから、とも考えるが、どうなのか。




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