メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

蜜蜂と遠雷

2020-08-11 16:30:17 | 映画
蜜蜂と遠雷 (2019、日本、120分)
監督:石川慶、原作:恩田陸
松岡茉優(亜夜)、松坂桃李(明石)、森崎ウィン(マサル)、鈴鹿央士(塵)、斉藤由貴、鹿賀丈史、アンジェイ・ヒラ
たいへんな評判になった原作は読んでいない。あくまでこの映画に限定した感想である。
 
かなりレベルの高い国際的なピアノコンクールに集った亜夜、マサル、塵、明石を中心に、その期間に動く各自の心の中、ピアノへの姿勢などが、ピアノの音として表出されながら描かれていく。
 
私がみるところ、ドラマとしては弱いが、ピアノコンクールの架空のドキュメンタリーとしてはよく出来ていて、見た後の感じはいい。
 
上記四人は、もうすでに家庭を持っていてこれが最後のトライになりそうな明石、挫折から復帰途中の亜夜、彼女の弟弟子?で久しぶりに会ったマサル、特異なピアニズムで成長してきた天才少年(でも感じはいい)塵、年齢はこの順番、組み合わせはうまくいっている。
 
四人に特別な憎しみ、嫉妬、恋愛感情があるわけではなく、それぞれの「ピアノ」の間のドラマになっているところは、見ていて、聴いていて、楽しめる。
 
ソロの課題曲として藤倉大がこの映画のために作った「春と修羅」には各自が作ったカデンツァがつけられ、これをどうするかが一つのキーになる。
 
明石以外は最終予選に行きコンチェルトを弾く。指揮者(鹿賀丈史)とのやりとりが面白い。曲は亜夜がプロコフィエフの3番、マサルが同2番、塵がバルトークの3番で、それぞれなんらかの問題を抱えながら挑んで、最後見事に弾き切る。ここらは実際に音を担当しているそれぞれのピアニストがさすがに聴かせる。
 
森崎、鈴鹿の二人は知らなかった人だが、役にうまくフィットしていた。松坂はこの中では年齢、経験ともあるせいか、生活がにじみ出る役をなかなかうまく演じていた。
 
問題は松岡茉優で、スランプ状態というか、スィッチが入らない状態の役ではあるのだが、ちょっとぼんやりした印象。最期に一挙にということにはなるのだが、ここはむしろピアノを弾いた河村尚子の演奏が大きいだろう。昨年のN響定期で弾いた矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」に驚いたが、ここでもさすがであった。
 
合間の時間に亜夜と塵が流れで連弾になり、「月の光」(ドビュッシー)、「It's only a paper moon」(ハロルド・アーレン)、「月光ソナタ」(ベートーヴェン)を乗りよく続けるシーンは楽しめた。
 
そのほか、元はやはり天才少女ピアニストだが今は審査員の斉藤由貴が、ちょっといやみなところも含め、味があった。やはりこの人、なかなかである。
 
ところで、しばらく前に出た「羊と鋼の森」(宮下奈都)は、ピアノ調律師とピアノを習っている双子姉妹の話で、これも評判になった。こういう音楽にかかわる人たちを描くもので、レベルの高いものが出てきていることは興味深い。


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イーデン・フィルボッツ 「赤毛のレドメイン家」

2020-08-08 16:16:03 | 本と雑誌
イーデン・フィルボッツ「赤毛のレドメイン家」 武藤崇恵 訳 創元推理文庫
若いころ、推理小説好きの人からフィルボッツ(1862-1960)の名前を聴き、なぜか覚えていたのだが、読むことになるとは思わなかった。きっかけについては後で。
 
1922年の作品で、物語はこのころつまり第一次世界大戦が終わってしばらくたったイギリス南西部ダートムア付近、そして後半は飛んでイタリアはコモ湖周辺を舞台に展開する。
 
スコットランド・ヤードに勤める刑事ブレンドンは休息を得ようとダートムア近辺で釣りをしようとしていたが、ある美女と遭遇、その少し後に付近に住んでいた彼女の夫が殺されるが、偶然彼女から捜査協力を依頼され、現地警察と共に捜査を進める。
 
彼女の亡父はレドメイン家四兄弟の長男であるが、そのうちの四男が容疑者とされ、遺産相続問題がからんでいるらしい。ところがその後、三男が危なくなり、そして二男もというあたりで、どうもこのブレンドンは未亡人に夢中になっているところがあり、捜査がうまくいかなくなっているところに、米国の元刑事ギャンズが登場、ここから、物語は意外な、そして犯人が緻密に計画し仕組んだ仕掛けが次第に露わになっていく。
 
フィルボッツは推理小説を書くまでは、主にダートムアあたりを舞台にした田園小説作家として知られていたそうで、そう言われると、優れた描写が物語に膨らみをあたえている。
 
少し前に読んだ「批評理論入門」は本書を読む際にも影響を与えていて、本書はすべてを見て知っている作者が、断片を組み合わせて推理小説として構成している。これは普通といえば普通なのだろうが、その反面で推理小説ということから、読者にこの時点でどこまで明かすかという視点で著述が選ばれる。読者にとってそれがどうか、読み方によって異なり、難しいところかもしれない。
 
実は、殺されたか行方不明か、という何人のうちどの遺体も発見されないということが、何度か強調されている。これは読者に推理上の何かを提供していると感じさせるものだろう。また、これが実は違って、、、することになる、というような表現もいくつかあった。ここらは、三人称で書く時の、すべてを知っている話者のちょっと余計な発言、と私はとってしまうが。
 
とはいえ、このプロットと最後にはじめてわかる犯人像は、古くはなく、現代に通じるものだろう。犯人像には「サイコパス」を感じるのだが。
 
2019年新訳の訳者は定評、人気があるひとらしく、さすがにテンポよく読み進められる。
 
ところで、先日読んだ「スタイルズ荘の怪事件」(アガサ・クリスティー)の訳者あとがきに、このポアロ初登場の作品(1920)の前、隣人だったフィルボッツのアドヴァイスと励ましを受け、その後の成功につながった、とあった。そこでフィルボッツの名前を思い出し、新訳が出ていることもあって、読んでみようかとなったわけである。



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リヒャルト・シュトラウス 「影のない女」

2020-08-06 09:33:17 | 音楽
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「影のない女」
台本:フーゴー・ホフマンスタール
指揮:クリスティアン・ティーレマン、演出:ヴァンサン・ユゲ
カミッラ・ニールント(皇后)、ステファン・グールド(皇帝)、エヴェリン・ヘルリツィウス(乳母)、ウォルフガング・コッホ(バラック)、ニナ・シュティンメ(バラックの妻)
2019年5月25日、6月10日 ウィーン国立歌劇場
2020年7月、NHK BSP
 
これまでなぜか苦手意識があって、録音、映像(メトロポリタン?)など途中で投げ出していたのだが、今回はどうしてかわからないけれど、最後まで集中して見ることができ、作品、演奏とも堪能した。
 
台本はホフマンスタールのメルヘンというか変わった話。狩りをしていた皇帝が捉えたガゼル(カモシカ?)が人間の女に変身、皇后になるが、彼女実は霊界の大王の娘であった。
 
皇后には影がない。影は生殖能力の象徴であるが、激怒している大王は、三日のうちに人間界から影を得れば皇帝と一緒になれるがもう霊界には戻れない、影を得られなければ娘を取り戻し、皇帝は石になる、と宣言する。
 
ここに乳母が入ってきて、彼女自身の思惑もあって、皇后を人間界の染め物師バラックとその妻のもとにつれていく。バラックには障害がある三人の兄弟があり、妻との間もうまくいっていない。子供はいないが、作ろうかどうしようかというところで悩んでいる。そこに乳母がとり入って、妻に影を売らないかともちかけ、妻の悩みと混乱が続いていく。
このあたり、台詞からこの作品のいろいろな要素がわかってくる。バラック夫婦から買おうとしている影は生殖能力であるが、夫婦間の愛、性愛の問題も含んでいて、それに加えて貧困があり、夫婦関係は破綻していく。
 
ついに影を売ろうとするのだが、そのあたりから皇后の悩みと行動が、目立ってくる。そしてフィナーレまでは、この愛、性愛、生殖の問題が、男女二人ばかりではなく、人間界全体のテーマに広がってきて、それまでの作品のトーンが一気にハッピーエンドになっていく。
 
音楽は各役のやりとり、全体の迫力ある盛り上げ、まったく見事で、この1919年初演の作品、ワーグナーの後、「ばらの騎士」の美しさと退廃、「サロメ」、「エレクトラ」の強烈さを持つ作曲家の力が全開である。
 
バラック夫婦のやりとりに見る社会の貧困、作られたのは第一次世界大戦が終わった頃だろう。同時期にベルクの「ヴォツェック」が作られていて(初演は少し後だが)、共通するところもある。しかし、音楽作品全体としてみると、「影のない女」の方がテーマの広がり、聴くものに与えるものという点で、何か上をいくように思えた。台本のホフマンスタールとビュヒナーの違いが大きいとは思うけれど。
 
ティーレマンの指揮、これまでそんなに印象なかったけれど、今回、このシュトラウスのあらゆる良さが入った大曲で、優れた歌手たちの能力を存分に引き出し、オーケストラを優美に、また大迫力にドライヴして、見事の一言であった。
 
歌手は、女性三人とバラックが重要な役どころだが、皆力を出していた。皇后も第2幕の終盤、第3幕ではそれまでとちがって表に出てくる。訴える力があった。
そしてバラックの妻が、ここで一番いろんなことが集中して、悩み行動する役であって、ここにニナ・シュティンメという現代のディーヴァ、納得できた。
 
実は1977年同じ劇場でカール・ベームが指揮したライヴ録音のCDを持っていて、もったいないことに多分通して聴いていなかったのだが、そのキャストを見ると、皇后がレオニ―・リザネック、バラックの妻がビルギット・ニルソンで、ブリュンヒルデが二人といるというか、なんともすごい配役である。
 
そして乳母はルート・ヘッセ、私が強い印象で記憶しているのは「ローエングリン」のオルトルートでこの役はこの人のためかと思ったくらい。ここでの乳母にも共通するものがある。
バラックはヴァルター・べりー、そう上記「ヴォツエック」の主役(ブーレーズ盤)であった。


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