歌劇「影のない女」 三幕 作曲:リヒャルト・シュトラウス
台本:フーゴー・ホフマンスタール
スティーヴン・グールド(皇帝)、アンネ・シュワーネウィルムス(皇后)、ミヒャエラ・シュスター(乳母)、ウォルフガング・コッホ(染物師バラック)、エヴェリン・ヘルリツィウス(バラックの妻)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団
指揮:クリスティアン・ティーレマン
演出:クリストフ・ロイ
2011年7月29日 ザルツブルク祝祭大劇場
2011年8月13日(土) NHK BSプレミアム
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)1917年の作品。このときすでにサロメ、エレクトラ、バラの騎士、ナクソス島のアリアドネなどを作曲している。あらすじが何か込み入っていそうで、シンプルに聴きたいという気が起きなかったが、ともかく今回放送があり、録画を見てみた。
皇帝が狩でかもしかをつかまえたが、これが女に変身し皇后となる。しかし体内から光が出て影ができないので子供を産むことが出来ない(これはわかりにくいけれどもともかくお話しとして受け取って進むしかない)。
皇后のもとの世界の父(王)は今後三日のうちに影ができなければ、すなわち子ができなければ皇帝を石にしてしまうという。
そこで皇后についている乳母が一計を案じ、人間界のなかで染物師夫婦を選んで、子供を産みたがらないその妻に影を売ってもらおうとする。この影を売るということはどういうことなのか、よくわからないまま、これは夫婦の不信であり、それがしだいに皇后も含めて自己犠牲と真の愛という話に移っていき、最後は愛の賛歌、大団円となる。
ホフマンスタールの台本だからといっても随分変な話である。そうだけれども、シュトラウスの音楽は、バラの騎士などのように耳につくメロディーはなくても、華麗、芳醇、メローでそれにひたっていられるし、主要なこの5人、特に女声3人にはワーグナーの楽劇にも通じる強靭な声、スタミナが要求されている。
さてこの演出は変わっていて、こういう変な筋を具象的な舞台でやってもわかりにくいと考えたのか、とにかく終盤に入るまでは劇中劇というか、このオペラのコンサート形式上演のリハーサルの形で進行する。周囲には装置があるけれども真ん中にはそっけない大きな台があり、そこに碁盤の目と数字が書かれていて、演出助手みたいな人が歌手に時々場所を指示したり、譜面台を移動させたりする。歌手も現代の普通の衣裳で、庶民の染物師家庭の場面が多いから、見栄えがしない。
それが変わるのは、どたばたの中から犠牲と愛が浮かんでくるあたりで、皇后の歌が突然「語り」(シュプレッヒ・シュティンメ?)になる。ここは効果的だ。
そして一度幕が引かれ真っ暗になり、幕が上がると歌手たちはステージ衣装を着てコンサート形式上演の舞台になり、後ろには少年合唱団がいる。観客もいて、無音の拍手をしたりしている。
ひととおり味わっただけだから歌手たちと指揮者ティーレマンの評価をすることもなかなか難しいが、手堅くできたということはいえるだろう。
もう一度見るとすれば、今度は具象的な舞台だったらどうなるのか見たいところではある。
このように重層的で込み入った作品は、「カプリッツィオ」、「ナクソス島のアリアドネ」などに通じるのだろうが、これらに比べてもこういう筋ではCDで対訳を追いながら聴くのはしんどい。
だらしない話だけれど、実は20年以上前に発売された1977年ウィーンでのライブ録音を持っていて、これは指揮カール・ベーム、皇后レオニー・リザネック、乳母ルート・ヘッセ、バラックの妻ビルギット・ニルソンというよき時代のスーパーな配役だけれども、一度も通して聴いていない。
あと、話の筋からモーツアルト「魔笛」との類似の指摘がある。そうかもしれない。それは「魔笛」がちょっと苦手なところと通じるのであるが。
「ミレニアム2 火と戯れる女」 (2009年、スウェーデン・デンマーク・ドイツ、130分)
監督:ダニエル・アルフレッドソン、原作:スティーグ・ラーソン
ミカエル・ニクヴィスト、ノオミ・ラパス、アニカ・ハリン、レナ・エンドレ、ヨハン・キレン、ペール・オスカルソン、パオロ・ロベルト、ミカエル・スプレイツ、ゲオルギー・スティコフ
3部作の2番目、シリーズ最初の映画と同様に原作をうまくダイジェストにして、ヴィジュアルなイメージを膨らませ、また最後はジェットコースター的な楽しみもあるという作品。
ただ、第1作は意欲的なジャーナリスト、彼の恋人でもある女性編集者、そして複雑な背景を持つ天才ハッカーの女性(リスベット)が登場、その繰り広げる物語は独立して味わえた。しかしこの第2作はこうして映画で見ると、第1作を読んでないと、特に限られた時間の映画では、わかりにくいところがある。しかもこれはリスベットの過去の説明部分が大きいから、ドラマとしても終盤まではあまり盛り上がらない。
最後の30分ほどはさすがに見せるけれども、終わり方も第3作を見てねということが見え見えになってしまった。
リスベット役のノオミ・ラパス、映画の3部作は1年で一気に撮ったようだが、前作と比べると妙に落ち着いたところがあり、それはたいへんな物語の経験を経た後と言えないこともないが、ちょっと切れが足りないようにも見える。
ジャーナリスト(ミカエル)と編集者、後者の夫公認の仲で、スウェーデンらしいところなのだろうか。
この二人のように、若い男女はほとんど出てこない。男女の仲を描いてそれでもというかだからというか、自然なのは、映画ということを考えるとなかなかの作り、といえるかもしれない。
ここでかなりキーになる役割のボクサー パオロ・ロベルトは実在の人で、それを原作に実名で登場させたのだが、映画でも本人が演じている。スウェーデンの人が見ると、にやっとするのだろうか。
終盤にリスベットとミカエルが使う車はいずれもレンタカーで、リスベットのはVWゴルフ、ミカエルのはトヨタ・プリウスである。原作ではリスベットがトヨタ・カローラ、ミカエルはただVWとある。ほぼ反対になったわけだが、映画で見たときのことを考え、あえてこうしたのだろうか。つまりリスベットには相対的に攻撃的な記号をあたえたというか。
「夜間飛行」(Vol de nuit 、サン=テグジュペリ) 二木麻里 訳 光文社古典新訳文庫
小説を読むときに想像するロマン、わくわくするようなお話、そういうことを期待して入ったものの、これは航路の実績を作ることに懸命な航空会社の社長リヴィエールの、プリンシプルに忠実な、それによって勇気を示し行動していく物語であった。配下の整備員、操縦士たち、彼らとリヴィエールのやりとりは、組織として当然とはいうものの、こうして書かれると、その文章は自立して迫ってくる。
そして1931年に書かれたこの小説、作者が意識していたのかどうかわからないけれども、おそらく当時の欧州事情からして、何らかの心配ごと、ストレスを感じながら読む、読みかえることは可能だったのではないか、いまでもそっちへ行きそうに読めてくる。
それを作者が意識していたかどうかはわからない。ただ読んでいて常に感じる微熱感とでもいったらいいのか、それはそういことと関係ないだろうか。
また人間たち、組織、機械、自然、そういうものを前にしての作者の文章から、なぜかカミュの「異邦人」を思い起こしてしまった。最初はこういう何らかの困難、ある人にとっては不条理に向かうということからむしろ「ペスト」を思い浮かべたけれども、次第に「異邦人」のところどころに感じられるある種のみずみずしさは「夜間飛行」と重なるのではないかと思うようになった。
カミュはテグジュペリをどう評価していたのだろうか。
そういう重層的な読み方を喚起しながらも、無駄のなさ、透明感をたたえた訳文は見事である。もっともテグジュペリの名前が有名になりすぎて、へそ曲がりなためかこれまで読むのをためらってきたから堀口大学の旧訳(新潮文庫)は読んでいない。
ところで「夜間飛行」という有名な香水があることは知っていた。あるときデパートで買い物につきあいゲランの売り場に行ったとき、そこの人に夜間飛行という香水は今でもあるのですかときいたら、どうぞ試してみてくださいと嗅がせてくれた。素直に好きになりそうな香りは意外であった。
また訳者によると、この作品は評判になりアメリカで映画がつくられたそうだ。調べてみたら1933年の「Night Flight」で、デヴィッド・セルズニックの製作、ジョン・バリモア(リヴィ エール)やクラーク・ゲーブルが出演している。日本でも戦前に公開されたようだが、DVDは国内では発売されていない。いつか放送でもされないだろうか。
ところで主演のジョン・バリモアはこのブログ前項の「ローラーガールズ・ダイアリー」が初監督作品であるドリュー・バリモアの祖父である。これは偶然というより、あちらが「呼んだ」のだろう。理屈ではなく、何かに関心をもっているとこういうことはたまにあるものだ。