by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです
アンダーグラウンド( Underground、1995仏・独・ハンガリー・ユーゴスラビア・ブルガリア、170分)
監督:エミール・クストリッツア
ミキ・マノイロヴィッチ(マルコ)、ペタル・ポパラ(クロ)、ミリャナ・ヤコヴィッチ(ナタリア)
最後まで見るのも大変だし、もう一回は見ないとなにがなんだかわからないところが多い映画である。もっとも;作った側はそれもおりこみ済みかもしれない。
第二次世界大戦がはじまりナチスが侵攻してくるユーゴスラビアの街、一応詩人ということになっているマルコは共産党員で相棒のクロや親族とともに抵抗運動を続ける。ただしそれはまじめな政治の世界というよりは、そこはこの映画が意図をもってわざと派手におかしくやっているのだろうが、ブラスのノリのいい音楽と、宴会騒ぎの中で話が進行していく。
マルコとクロの両方が惚れているナタリア、体が不自由な弟のために親衛隊のフランツのものになったりもしながら、そのあとマルコたちといっしょになったり、離れたり。台詞も終盤になって少し長いものも出てきて説明になっているところもあるが、それまではまったくそれはない。
大戦が終わっても、配下の連中を地下に閉じ込め、録音された「リリー・マルレーン」を流して戦時下とおもわせ、武器生産に励ませて金儲けをする。祖国のために抵抗するが、金、性愛などはそれとは別というばかり。
映画はその後、世間をだますためにクロを死んだことにして銅像をたて、また自らも関わった抵抗運動を映画にして、何が現実だかわからなくしてしまう。戦時中の姿からすると、50年後にあんなにエネルギッシュに動けるものかということも、この映画ではどうでもいい。
おそらくこういう生き続けるエネルギーを描いたともいえるのだろうが、最後にもうその国はないと言われて唖然とする。がしかし、パーティーは続いていく。
この映画、評価は高く賞もとったようだが、一つは編集の妙だろうか。
大戦時の、裏にあったものに焦点をあて、しかも映画として出来が良く面白いということでは、やはり「グランド・ブダペスト・ホテル」の方がと勝手に思ってしまったが。
それでも一回は見ておくといいかもしれない。
ベルク:歌劇「ヴォツェック}」
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン、演出:ウイリアム・ケントリッジ
ペーター・」マッテイ(ヴォツェック)、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(マリー)、クリストファー・ヴェントリス(鼓手長)、ゲルハルト・シーゲル(大尉)、クリスチャン・ヴァン・ホーン(医者)
2020年1月11日 ニューヨーク・メトロポリタン・歌劇場 2021年7月 WOWOW
しばらく聴いてなかったが、音楽は若いころから何度か聴いている。だから記憶があるフレーズなどかなりあるが、映像を見た記憶は確かでない。一回くらいあるかもしれないが。
ヴォツェックの存在を初めて知ったのは1963年、日生劇場の杮落としに初来日したベルリン・ドイツ・オペラの演目の一つとしてである。それまでNHKがイタリア・オペラを何度か招致していたが、オケを含めてすべてというのは初めてで、演目は「フィガロの結婚」、「フィデリオ」、「トリスタンとイゾルデ」、「ヴォツェック」、フィガロとフィデリオの指揮はカール・ベーム、トリスタンはまだ若く気鋭のロリン・マゼール、ヴォツェックはハインリッヒ・ホルライザーだった。
一般に話題になったのは、なにしろ巨匠ベーム初来日ということもあり前の二つだったが、ここに20世紀オペラのヴォツェックを配したのには、当時現代音楽についてよく発言していた柴田南雄や吉田秀和がいろいろ書いていたから、評価が高いんだなと思った。
その後ブーレーズが指揮したレコードを何度か聴いて、この悲劇はそれなりに理解したとは思う。第一次世界大戦前後の絵画など、ドイツ表現主義のものを積極的に見ていたこともあったかもしれない。
ただヴォツェックが音楽的に極めて洗練された、全体がしっかり構成されたもの、といわれてもそれを味わう能力はなかったから、その後好んで聴くということはなかった。
三幕90分休みなしの上演、複雑だがおそらくうまく考えられた舞台装置、ドローイングを映像で映し出して音楽を強調するもの、など効果的ではある。一方ごちゃごちゃしすぎているところもあり、音楽が抒情的になるところとマッチしないこともあった。
歌手たちはみな見事だが、特にマリーのヒ―ヴァーがよかった。このオペラ、私からすると、いくら当時の社会、被支配階層の人間ということだとしても、ヴォツェックにはあまり共感できないが、マリーには感情移入できるところがある。人間にはこういうところはあると思う。この脚本、マリーをもっと深く描いてくれたらと思うのだ。
マリーがヴォツェックとの間に産んだ子供との場面、この演出では操り人形である。最近時々使われる手法で、メトのミンゲラ演出「蝶々夫人」でもあった。しかしこれに比べると今回の人形のしつらえは理解不能で、マリーの演技にもマイナスではなかったか。
セガンの指揮は明快だったと思う。
あまり難しい音楽は理解できないものとしては、ベルクという人、「抒情組曲」、「ヴァイオリン協奏曲」といった新しい抒情の音楽で傑作もあり、オペラが「ヴォツェック」や「ルル」というのはどうなのか、というのは勝手な感想だろうか。「影のない女」を書いたリヒャルト・シュトラウスほど、私はこれだという自信に到達できなかったのだろうか。
ワーグナー:楽劇「さまよえるオランダ人」
指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:フランソワ・ジラール
エフゲニー・ニキティン(オランダ人)、アニヤ・カンペ(ゼンタ)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(ダーラント)、藤村実穂子(マリー)、セルゲイ・スコロホドフ(エリック)、デイヴィッド・ポルティッヨ(舵取り)
2020年3月10日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2021年6月 WOWOW
2月にもオランダ人をファビオ・ルイージ指揮フィレンツェ五月祭で見ている。こう続くと多少よく気がつくところがある。その時、さまよえるオランダ人が結婚出来れば救われるとしたダーラントの娘ゼンタがかなり大柄だった。歌唱は特にどうということもなかったが、今回のアニヤ・カンペは同じく大柄、最初からたいへん強い歌唱で、どうしても救ってあげたいという意志が前に出ている。
オランダ人はゼンタを以前から好いているエリックとのやりとりを気づいたからか、これは放浪を続けざるを得ないと言い渡すのだが、ゼンタは身をひるがえして死を選び、オランダ人を救う。
今回のアニヤ・カンペのゼンタを聴いて初めて、これは純粋な愛情などというものではない、なにしろ会う前から伝説を描いた絵を見て、憧れというか妄想をもっていたわけで、ヒューマンな要素はまずないのである。
なんと言ったらいいか、先験的な破滅による救済とでも言ったらいいだろうか。作曲家はこの初期の作品で、すでにこういう概念を持っていたのだろうか。カンペで見、聴くともうブリュンヒルデに通じるものを感じてしまう。
オランダ人、ダーラントは力もあり堅実、マリーの藤村実穂子は日本人で初めてメトデビューということで話題になった。よく知らなかったが昨年、エッシェンバッハ指揮N響のマーラー「復活」で評判を知った。歌唱はこの場に合ったものだが、もう少し声量がほしい。舵取りのポルティッヨは若々しいきれいな声で、この暗い背景の中アクセントになっている。
演出のジラールは映画出身で評価が高いらしい。ダーラントの家の糸より工場の場面は、上から垂れた縄を使ったイメージ演出で面白いが、上述の別公演で近代の小さい工場のリアルな雰囲気を出していたものの方が、あの場面の意味がよく出ていたように思う。
全体にオランダ人の船や船員たちもあまり荒々しく描かれていない。メトの合唱とゲルギエフが指揮するオケがあれば、ということでもないだろうが。
そこはルイージ・フィレンツェの方が印象強かったと言える。もう少し歌手のレベルが高ければさらによかったが。
この作品、全体としていかにもゲルギエフ向きといえるが、それだからか割合堅実淡々と指揮しているといえる。それは間違っていないが、ワーグナーではむしろ他の作品でこの人ならではの表出を聴きたいところだ。
シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」 大久保康雄 訳 新潮文庫
昨年「嵐が丘」(エミリ・ブロンテ)を再読したときから、いずれ「ジェーン・エア」もと考えていた。最初に読んだのは2003年、その時は直前に読んだ「嵐が丘」よりはわかりやすかったけれど、年月が経ち内容はよく覚えていない。
今回じっくり読んでみて、これはなかなかいろんな要素、視点と持った充実した物語であり、また読み進めるうえでの面白さもそなえている作品で、2世紀にわたってよく読まれているだけのことはあると納得した。
ジェーン・エア、出生直後に孤児となり、親族に預けられたが、のけ者にされ、へこまない強さと頭を持っているために寄宿学校に追いやられ、そこでも衝突が多く苦労するが行き抜いて教師ができるようになり、広告を出し家庭教師の職をもとめて、ある財産家の館にたどり着く。そこの主となかなか理解しあえないが、愛し合うようになる。しかし主の過去には秘密があり、それを引きずっていることがわかると彼女は荒野に飛び出しさまようが、あぶないところで牧師の兄妹一家に救われる。しかし、その兄の牧師の伝道への強固な誘いに負けそうになり、やっとのことで、館の主の声を感じて、戻っていくと、、、という物語。
これも「嵐が丘」同様、例の「批評理論入門」が頭にあるから物語の語り方を注意して見ると、この作品は典型的な一人称、つまり主人公ジェーンの語りという形になっている。それでも、ジェーンの思いが強く出ている部分と、もう少し淡々と描写しているところがある。また時に読者に語りかけ、もうこのあと登場しな人物についてその後を伝えるサービスをしたり、時間を飛ばすにあたってなぜかを書いたりもしている。
こういうひたむきな成長物語、それも巧みに面白く書かれた物語を、かなりの年齢になってから読むのもいいものである。高校時代、そのころは世界文学全集がよく売れていて、ブロンテ姉妹もその常連であったが、このブログにも時々書いているように、この姉妹やオースティンの作品、男性が読むのはどうも、と思ったとしたら、もったいなかったと思う。
難しく構えた物語より、こういう風に残るものは、時々あるようで、日本のものでも、少し前にようやく読んだ「さぶ」(山本周五郎)など、通じるものがあるようだ。
作者(1816-1855)が1847年に発表した本作、解説にもあるように孤児で苦労する境遇、問題ある寄宿学校などヴィクトリア朝時代の特徴、問題点を反映しているともいえるし、後半ジェーンを救った若い牧師が伝道の理想論でせまり、ジェーンがやっとの思いで恋する相手への思いに踏みとどまるあたりは、この時代からのち何らかの「主義」とその支配の問題が芽生えているともいえる。こ牧師の源はおそらく「黙示録」であろうが(この分野詳しくないのでいい加減なことは言えないのだけれど)、「黙示録」についてはかなり後にD.H.ロレンスがその呪縛を解き放つ意味はあったのかもしれない。
ながい物語のなかに点在する何人かの女性たちの姿、イメージは記憶に残る。小さい時の子守のベッシー、寄宿学校の先輩ヘレン・バーンズ、テンプル先生、牧師の二人の妹たちなど、優れた筆致が印象的だ。
実は本作を再読するにあたり、文庫本でも字が大きい方が楽だし、いろんな作品で優れた新訳がでていることもあり、その一つで読み始めたが、ジェーンが館の主といくぶん難しいやりとりを続けるあたりで、しっくりしなくなってきた。このときジェーンは18、主は38で、いまならなくもない組み合わせなのだが、この物語ではやはり相当な年齢差で、そのあたりも気になり、以前読んだこの訳で読みなおした。やはり「昭和」の雰囲気があっているのかもしれない。