メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

細雪 (谷崎潤一郎)

2006-12-09 22:30:39 | フィクション
谷崎潤一郎の「細雪」(上、中、下 新潮文庫)
昭和十年代前半、太平洋戦争が始まる少し前まで、兵庫県芦屋の蒔岡(まきおか)家四姉妹を中心とする物語である。
この家は関西で相当羽振りがよかったらしいが、先代の最後から傾き始め、今は四人姉妹の上二人鶴子、幸子が養子をとり、なんとか持ちこたようと苦労しており、下二人の雪子、妙子の縁組、恋愛沙汰など、当時の風俗を仔細に絡めながら、達者な文章で最後まであきさせない。
 
しかし読んでいくうちにわかってくる。これは次女幸子(さちこ)が、この家族とそれをとりまく人間関係をどう認識し、次から次へと出てくる難題をいかに考え、どんな風に対処し、またその結果としてなにを引き受けるか、ということを、作者がおそらく自分の問題として考え、書き進めたきわめてまっとうな小説である。
 
長女鶴子はどちらかというと旧来の普通で地味な、波風たたないことを思考する奥様、母親であり、三女雪子は30になるが結婚に対する本人の意志ははっきりせず回りは縁談をいろいろもってくるもののなかなかうまくいかない。この本人のにえきらなさ、読んでいてもいらいらしてくるくらいで、このままでは永遠に処女のまま?と思わせる。そこへいくと末っ子の妙子は早くから駆け落ち騒ぎをおこしたと思えば、その後も男の姿が回りに見え、また踊りがうまく器用で人形つくり洋裁など手を出して自分で収入を得ようとしたりする、いわゆるモダンガールである。
 
このようにこの時代、風俗などに対する位置が異なる三人に対して、二女の幸子はそれらを理解し、皆が破綻しないように心をくばり、おそらくこの時代にしては理解がある夫と話しながいろいろと手段を尽くす。その一方で娘に続く二人目の子がなかなか出来ないのに悩む。
 
読者の視点はやはり幸子に重なっていく。これは作者の意図したことであろうし、それは成功している。確かに読むものは幸子と一緒に、作者と一緒に、この数年を、この家族の人間関係を生きるのである。 
 
谷崎の意図の真相はわからない。しかし結果として、このように舞台を関西芦屋とし、女性四人を中心にした小説構想は巧妙であったし、成功したといえる。
鶴子は旧来、幸子は近代、雪子は意志をはっきり示せない次世代(国際関係のなかでの日本とも読める)、妙子は生まれたときから近代であった世代、と言えようか。
一方、東京で男性中心の社会、風俗を描いていれば、この時代であれば当然話は体制批判か翼賛かはたまた退廃か、という風になるだろう。その社会に忠実に向き合ったとしても、相当観念的になったのではあるまいか。
 
それはここではうまく解決されている。それでいてここに登場する隣に住んでいる、あるいは何らかの形で知り合いになった外国人のその後のなりゆきに、時代の荒波は表現されており、また一家にも大きな影響を与えた大洪水も何かの象徴と読めなくもない。
 
よく見、よく考え、行動した幸子の物語を、この時代の芝居、料理屋、着物、映画、それも和洋とりまぜた絢爛たる背景の中で読ませる。ドイツ教養小説(ビルドゥングスロマン)のような、たとえばトーマス・マン「ブデンブローク家の人々」のようなもの、というと大げさか。
日本文学の中では、どちらかというと夏目漱石の長編に近い。こんなこという人はいないだろうが。
そして、日本人が読む場合、あのジェイン・オースティン「高慢と偏見」をしのぐだろう。
 
日本文学全般をよく読んだとは言えないが、それにしても谷崎はぽっかりあいた穴であった。読んだのは小説ではない「陰翳礼賛」のみである。
最初に「細雪」を読んだのは幸運だったかもしれない。なぜなら、これに比べれば他の小説はどうしても、谷崎の女性観が強い形で小説の表面に現れているらしいし、そして「細雪」の前に「源氏物語」現代語訳を完成していることからも、雪子が縁談に正面から向き合おうとはせず、なかなか結婚にいたらない、というこの小説にまず性的な、エロティックな意味を読み取る、そして姉妹が集ういくつかの場面に王朝文学の影を読み取るという、解説などにまんまとはまってしまったであろう。
 
この文庫の最後に置かれている磯田光一の解説もそういうものである。
この小説は昭和18年(1943年)「中央公論」に連載され始めたが、陸軍から禁止され、その後の自費出版も禁止されて、後半が書かれ発表されたのは昭和23年(1948年)である。
当局が危険と判断したのは、この時期に上流階級の優雅な生活を描いているということだけではあるまい。おそらく自分の目で見、自分の頭で落ち着いて考え、行動する、この主人公、そしてそれを書いている作者が我慢ならなかったのだろう。
戦後の多くの文芸評論家より、この感覚の方が正直でかつ当たっているのではないだろうか。
 
ちなみに、ここで末の妙子はよく「こいさん」と呼ばれる。お嬢さんのことを「いとさん」といい、小さいいとさんつまり「小いとさん」から「いとさん」になったということだが、耳に心地いい。今ではまず使われないそうだ。

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海流のなかの島々(ヘミングウェイ)

2006-08-12 18:49:42 | フィクション
アーネスト・ヘミングウェイ「海流のなかの島々(Islands In The Stream)」 沼澤洽治 (新潮文庫 上下)
 
ヘミングウェイ(1899-1961)生前は未発表だった小説。おそらく第二次世界大戦中から一部構想執筆が始められ、1940年代後半から1950年過ぎあたりまでの間に書かれたと推定されている。舞台はバハマ、キューバ周辺、時代はドイツU ボートがこの周辺に現れる1940年前後である。
 
主人公は作者自身と思われる画家で、夏休みに訪ねてきた三人の息子(長男と後の二人は母親がちがう)との再開と、トローリングで遭遇する巨大なカジキと次男の死闘を描く第一話、キューバの酒場で画家の過去と現在が、延々と続く飲酒の中でそして出入りする人々とのやり取りの中で描かれる第二話、また彼はこの海域で対独掃海をやっている非正規軍みたいなグループの長なのだが、その厳しい戦いの行程を描く第三話、という構成になっている。
 
小説としてのダイナミックな動きは必ずしも多くないから、何か別の大きな小説を書くための準備、スケッチか、などど読みながら思ったものである。
後で読んだ解説によると、準備ではないが、大きな構想の作品の一部として書かれたという説が有力だそうだ。
 
面白くて読み進むというわけではないが、ヘミングウェイの他作品と同様、観念的なところはなく、描写にあいまいさはない。それに会話の比率が高いために、なおさら臨場感は高い。
 
それでも全体を通して表出されてくるのは、彼の周りをとりまく死であり、またこの画家にとっての死というもの、その受け取り方、というものだ。
死に対しじたばたはしないが、命には必死にすがりつく、男の仕事に比べれば命など安いものだが、厄介なのは命が無くては困る、と。 そう、ある程度ヘミングウェイを読んでいると、そうだなと思う。
 
息子との会話、カジキとの格闘の描写、猫との会話、酒場での下品なことも含む会話、海上での部隊にいる個性的な連中との会話、主人公の強さと抑制と、それでも入り込んでくる後悔、諦念と、これらをゆっくりと味わった。
 
カジキとの闘うのは次男であるが、これはどうしても「老人と海」(1952)のベースになったと考えてしまう。公開された「老人と海」がより作者の本心に近いと考えれば、作者はこの次男の闘いを書いたときより、何か死の甘美な誘惑に少しではあるが傾いていると受け取れる。
 
長男が小さい頃いっしょに暮らしたパリの話が出てくる。著名な作家、画家が実名で登場し、街路、店の説明も詳しい。作者は世界の都会の中ではパリが好きなようだ。
 
さて皆よく酒を飲む。出てくるのはやはりフローズン・ダイキリ、トム・コリンズなどヘミングウェイの定番が主だが、中にスコッチをペリエで割るのがあり、主人公はこれを推奨している。ハイボールより落ち着いているかも知れない、今度試してみよう。

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わたしを離さないで

2006-06-17 19:14:18 | フィクション
「わたしを離さないで」( Never Let Me Go )(2005)
作:カズオ・イシグロ、訳:土屋政雄 (早川書房)

こういう書き方がありうるのだろうか。小説だからとっぴな形式もあるとはいえ、またこの作家が、という驚きがまずある。
 
物語は1990年代イギリスのとある地方にある少年少女が暮らす施設からはじまる。はじめから終わりまでここで生活した経験を持つ一人の女性の語りという形式が取られている。魅力的な語り口である。
 
少しずつだが、それでもここの人たちはクローン人間(複製人間)で、だから出自はなく家族もなく、子孫は作れず、いずれ臓器提供者になるか、その介護人になるかのどちらかであるということは、しばらく読むとわかってくる。直接的ではなく巧妙な書き方である。
読んでいくうちにあれっと思うのは、この人たちは通常持っている背景としての過去がないからかもしれないが、その運命をうらんだり、この見えているコースに極端なおそれを抱いてはいない。そのなかでそれでも人と人の関係があり、それがどう思われ、その結果どう傷つき、それに対処していくかが綴られていく。
 
読んでいくうち、これは臓器提供者の話としてではなく、読んでいる我々のことではないかと思えてくる。すなわち我々の中には何らかのコピーがいくつもあり、そして生きていく中で何かを提供し、誰かを介護し、という風に、様々に解釈できる。
おそらく作者はそういう読み方も想定して書いているにちがいない。  
あたかも、人が現在と未来のみを考え、どう生きるかに悩み行動するとすればどうなるのか、をえがいているようだ。
 
本作の二つ前「充たされざる者」(1995)は未読(存在を最近まで知らなかった)だが、他の「遠い山なみの光」(1982)、「浮世の画家」(1986)、「日の名残り」(1989)、「わたしたちが孤児だったころ」(2000)、これらにおいては何らかの過去の大きな存在、そして何らかの後悔、こういうものに人はいかに向きあい生きていくかということが、テーマの一つになっている。
 
それは母であったり、男女の愛であったり、戦時の姿勢であったりする。強い過去が問題であるから、物語の細部の書き方もリアリズムが要求される。もっとも前作では戦時の上海租界におけるキッズの話がどこかお伽噺風であり、変化を感じさせる予感はあった。 
本作の結末はその前作のようにあっと見事なという体裁はとらないが、納得はいく。勇気を与えられると言ったらおおげさだろうか。
 
原題の「Never Let Me Go」は、話の中に出てくるカセットテープに入っている曲名。「わたしを(このまま)行かさないで」である。行くことにはなる、過去には戻れない、しかしここにとどまっていたいこともある。

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