メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

めまい(ヒッチコック)

2013-04-29 14:22:38 | 映画

めまい(Vertigo 、1958米、128分)

監督:アルフレッド・ヒッチコック

ジェームズ・スチュワート、キム・ノヴァク、バーバラ・ベル・ゲデス、トム・ヘルモア

 

ヒッチコックの映画はそんなに見ていない。ヒッチコックおよびその作品の情報は、私の若いころおびただしく流れていて、友人にも詳しい人がいたりしていたから、そうなるとそのあと映画を実際に見るという気があまりおきなかったのかもしれない。 

 

さて「めまい」もタイトルは知っていて、最近NHKで彼の作品いくつかが連続して放送され機会に、思いついて録画し、見てみた。

 

家族の過去の話と現在の境遇に取りつかれた女性(キム・ノヴァク)、その夫が友人の元刑事(ジェームズ・スチュアート)に依頼して尾行させるが、彼女は不審な行動を続け、その後二人は知り合い好きになるが、彼女は死んでしまい、その後そっくりな女が現れる。替え玉殺人らしきプロット。

 

ただこの人の作品はこういう傾向なんだろうか、人間のドラマとしての味わいは薄く、あくまでプロットと高度なカメラワークで見せる映画といった印象が強い。

 

ジェームズ・スチュアートは50歳、キム・ノヴァクは芳紀25歳、不釣合いといえばそうで、しかもスチュアートはこうしてみると身長はあるけれど今の日本人俳優に比べても痩せぎす貧相な体つきに見える。

 

なにやらよくわからない関係で、以前からのよき異性友だちで結婚にはいたらなかった女性(バーバラ・ベル・ゲデス)がとてもいい感じで、この人の仕事場を主人公か時々訪ねてくる場面は気持ちがいい。

 

こういうプロットで今作るとすると、細部はもっとどぎつくなるだろう。

 

ということで、ちょっと肩すかしをくった感じだが、凝っていてさすがというところはいくつかある。

 

もう最初のタイトルからして手間がかかっていて、もちろんこの時代CGであるはずはなく、しかし今CGで作ると、もっとさびしくなるのではないか。

 

カメラワークは全般にいいが、個人的に好きなのは、主人公が車で女の車(ジャガー)を尾行するところ。カメラはボンネット方向から主人公に向けられ、フロント・ウインドウは横長、大き目なステアリングをゆっくりあつかうハットをかぶった主人公。カーブをきると後窓の街風景が動くが、これは当時の典型的な大排気量でゆったり動くアメ車特有ののんびりした動きで、とてもいい。この感じ、ヒッチコックが始めたのかどうかは知らないが、その後いろんなところ(日本映画も含め)で見た気がする。

 


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ピナ・バウシュ

2013-04-24 20:57:22 | 映画

ピナ・バウシュ 夢の教室(Tanztraume、2010独、89分

監督:アン・リンセル

ピナ・バウシュ、ベネディクト・ピリエ、ジョセフィン=アン・エンディコット(ジョー)

ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち(Pina、2011独・仏・英、104分)

監督・ヴィム・ヴェンダース

ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踊団ダンサー

 

ダンサーであるピナ・バウシュ(1940-2009)については、訃報でやっと知った。ダンスについて少し前から興味は持ち始めたが、全般についてはうといからこれはやむを得ない。

 

この二つ、後者はバウシュが立ち上げた団体で彼女に育てられたダンサーたちによるダンスと個々からのピナへのメッセージ。ダンサーのアップでは口は動かされず、別にとられた音声が流れる。ヴェンダースのアイデアだろうが、これがよかったかどうかは判断できない。

前者は、40人のほとんどこの種のダンスは経験していないティーン・エイジャー40人を集めてある期間ピナ・バウシュ・メソッドで教え、代表的な演目を上演するまでのドキュメンタリーである。彼女のメソッドを知るには、特にあまりダンスに縁がないものにとっては、こっちの方が面白い。

 

彼女の方法は、一人一人に自分を気づかせ、そこから内発的というか、動きと情感を引き出して、それを勇気をもってというかそういう姿勢で、形に、見えるようにしていく。 と受け取ったが、どうだろうか。

 

だから、その人その人が見ていて生々しく感じられ、特に女性ダンサーの場合は、彼女たちの存在感がとりわけセクシーである。

 

ただダンスというのはなかなか受け取り方が難しいもので、たとえば有名な劇場で演じられるバレエでは、その長い間に鍛え上げられた人と技量は、舞台というパフォーマンスの役であり素材であって、上演全体で鑑賞され評価されるといってもいい。一方、ピナ・バウシュの人たちのダンスはというと、彼ら自分自身の把握とそこからの表出は素晴らしいのだけれど、踊られる作品を見るということになると、どこか物足りないところがある(たとえば後者で踊られる「春の祭典」(ストラヴィンスキー)など)。でも踊っている人たちの充実感は、バレエなどとは質が違ったものであっても、高いことは同じなんだろう。

 

それは、むしろ、こういうダンスに本当はこっちも参加したい、ワーク・ショップか何かあればその一端でも体験したいという思いがかなり強いからかもしれない。

音楽だって本来はそういうもので、近代のオーケストラ、独奏楽器の高度な曲、オペラを除くと、普通の人が日常感じ少しはやってみるものと、そんなに遠く離れていないものだって多いのである。 

 


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ディアベリの呪い

2013-04-16 22:18:54 | 音楽一般

サイード音楽評論について書いたときに、ポリーニの視聴経験をかなりあげたが、確かにベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」あたりでこっちもくたびれてきて、このピアニストのフォローをやめてしまった。

 

それで考えてみたのだけれど、この変奏曲としては大曲のディアベリは、私にとっても鬼門である。始まってしばらくはいいのだが、最後に行くに従い、あのポリーニ同様、聴いていてもなにかのたうちまわるようで、帰結しない。

 

作品120だから、ソナタよりはあとである。6つの変奏曲(作品34)、エロイカ変奏曲(作品35)、そして作品番号がない32の変奏曲ではこういうことはない。

 

それでもディアベリには何かあるのだろうと、これまでグルダ、ゼルキン、リヒテルと聴いてきたが、どうも満足したという感はない。それでもこの3人は、彼らなりの世界に持ってきていてその結果ということなのだから、こういう作品なのかもしれない、私にとって、と思う。

 

ゼルキンとグルダについては、ベートーヴェンの変奏曲はこれだけしか聴いていない(ほかにあるという情報も持っていない)。

一方、リヒテルはエロイカと6つの変奏曲の録音があり、特にエロイカは素晴らしい。

 

そしてグールド、上記3つの録音があり(エロイカは確かスタジオ映像もある)、本人も特に好きな曲だろうということは演奏からも伝わってくる。愛聴盤である。が、ディアべリの録音はない。これって彼自身の評価からきているのだろうか。これと「ハンマークラヴィア」は以前聴きたいと思っていて探した。「ハンマークラヴィア」はあまり音のよくないライブ録音があるが、特にどうということはなかった。

 

ポリーニは最近フォローしていないのでディアベリの他はわからないが、エロイカを弾くとは想像しにくい。本当は弾いてみればよかったのに、と思うのだが。

もっともコンクールの時期は知らないが、ショパンのポロネーズ集を録れる場合でも、「英雄ポロネーズ」や「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」はやらない人である。後者なんかはショパンの大傑作の一つだと思っていて、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、アルゲリッチと皆いいが、あのリヒテルだってオーケストラとの共演ヴァージョンのとてつもなく素晴らしい録音(珍盤?)がある

 


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グリモーのブラームス「ピアノ協奏曲第2番」

2013-04-14 22:14:21 | 音楽一般

ブラームス:ピアノ協奏曲第2番

Pf : エレーヌ・グリモー デーヴィッド・ジンマン指揮 NHK交響楽団

2013年1月13日 サントリーホール  4月7日(日)NHKの放送録画

 

久しぶりに聴くオーケストラとピアノが一体と言われるこの曲、何かをしっかりと受け止めるというより、たっぷりした時間を味わうという感じである。

グリモーは本当にスケールの大きな演奏をするようになった。そして5年前に同じホールで「皇帝」を聴いたとき、思いのほかしっかりした音だなと思ったのだが、今回はまたよりそういう感が強い。

このピアノ、見ると普通のスタイン・ウェイのコンサート・グランド、多分一番大きいものなんだろう。調律だけでここまでこうなるとも思えないし、同じ番組で少し流れたやはりサントリーホールのリサイタルにおけるバルトーク「ルーマニア民族舞曲」はソロらしい音であった。

 

あやふやな想像だが、このブラ―ムスではかなり細かくペダルを使っていたから、彼女の技術なのかもしれない。そうであってもこの曲にふさわしい音を提供したのは感心する。

 

番組の冒頭インタビューで、同じブラ―ムスの協奏曲第1番でクラウディオ・アラウの演奏を聴いたのは人生の転機だった、ブラームスとの最初の出会いだった、この第2番は第1番から24年たって作られたが、彼女にとっても曲への思いが形になるには同じくらいの年月を要したとのことである。これを語るエレーヌのチャーミングなこと! 今回は英語。 

もっとも演奏する姿は以前よりも、肩から背中の筋肉がたくましくなっている。もちろんこれはいいことである。


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サイード音楽評論 1 (エドワード・W・サイード)

2013-04-11 17:29:15 | 本と雑誌

サイード音楽評論 1



エドワード・W・サイード 著  二木麻里 訳  2012年 みすず書房



著者のサイード(1935-2003) が書いたものはおそらく短いものも読んだことがなくて、この本が初めだと思う。音楽についても専門家であるなどということも知らなかった。もちろんアラブ世界の問題についての議論が多くなってきた1990年代だろうか、名前は目にしていたし、この人の意見を引用したり、評価したりするということが、わが国の海外通のそして進歩的な知識人、文化人の共通項(別の言い方をすればアクセサリー)のようになっていたことも知っている。



そういう人たちが嫌いな私は、あえてサイードにも近寄らなかったのだが、彼がダニエル・バレンボイムと対話して理解しあったという話をきき、ちょっとちがった感じを持ったということはある。



 



今こうしてまとまった音楽評論を読むと、ここまで音楽を自らやり、楽曲アナリーゼの力を身につけて、精力的に評論活動をやった人は、そういないのではないだろうか。日本ではむしろ以前、吉田秀和、柴田南雄をうまくあわせると、ということだろうか。



そして、文章はもう少し論争的ではある。



 



さて、本書は1983年つまりグレン・グールド(1932-1982)の死直後から1992年まで、著者が主に米国で聴いたものについて、「ザ・ネーション」誌などに寄稿したものである。



 



ピアニスト、オペラに関するものが多く収録されているが、まずは最初におかれたグレン・グールド論が際立っている。グールドの真価について論じられたものは多いが、ここまで書ききった、それも無駄のないコンパクトな形で、というのは知らない。



私もグールドが、好き嫌い混ざって論じられるようになった頃、すなわちあの「ゴルトベルク変奏曲」(カタカナは訳者の表記による)とベートーヴェン最後のピアノソナタ三曲がモノラル録音で出てしばらく、そのほかのバッハがステレオで出始めたころから、死の直後に出たアルバムまで、ほぼ全部リアルタイムでフォローしているから、サイードの書いていることはよく理解できた。



ところでグールドのよく言われる奇行のなかで、ピアノを弾きながら指揮をすることがここでも書かれている。指揮者がいるピアノ協奏曲でもそれをやるから、オーケストラは困惑しただろうというけれど、私はたとえば死の直前に再度録音された「ゴルトベルク変奏曲」の映像を見ていて、これは指揮者グールドがピアニストグールドに対して指揮してるのでは、と思った。そうなると動きはピアノより半拍(?)先ということになるのかもしれないが、それはまだ確かめていない。



 



また奏者(主にピアニスト)にとっての中年期というテーマを考えたのは面白い。言われてみればかなり納得する。若くして脚光をあび実績も積み重ねていくと、特に連続する公演でクリエイティブな活動を継続することは困難だろうし、それがグールドが公演をやらなくなったことでもある。それでも具体的にピアニストの名前をあげてこう書くのは、日本であれば、かなり勇気がいることである。



中でアシュケナージが取り上げられ、若いころのアシュケナージを知っていて(1965年の初来日公演を聴いている)、そのあとだんだん聴かなくなっていった私としてはやはり、と思う。



 



そこを切り抜けたリヒテルなど、というのは納得だが、ここから先、サイードはポリーニとブレンデルを持ち上げすぎるのでは、と感じた。この人の音楽の聴き方はわたしなどとてもかなわないスコアに関する知識と、音楽構造の意味などをベースに、聴いているときにそれらと対比できる集中力をもとにしている。その一面で、多くのピアノ好きが重きをおくピア二スティックな面(音、フレージング、はじけ方というかなんというか)にあまりとらわれない。



それは本人もそう言っている。だから、コンクール優勝の後しばらくの休養を経て再デビューしたポリーニがあの輝けるショパンのエチュード、ストラヴィンスキーとプロコフィエフ、ブーレーズなどを世に出したのち、かなりたってからピアニスティックな魅力はどうかな、という時期でも、この本に絶大な評価を書いていた。



一方、私はというと、その後になって、シューベルト、ベートーヴェンなどでも次第に難しいものが出てくると、なにかのたうちまわっているようにも聴こえ、彼の健康状態についてもいろいろ言われていたが、1990年代終盤の「ディアベリ変奏曲」あたりでついにフォローをやめてしまった(とはいえずいぶん付き合いは良かった方だと思う)。



 



そう思っていたが最後の「追悼の音楽」という1992年の文章で、どうなっちゃったのポリーニという感じで書いている。私とは気がついたところは違うのだろうが。



 



ブレンデルについてだが、私の経験ではブレンデルが非常に好きだという人は、相当なインテリで弾かれる曲について深い知識を持ったひとが少しいるくらいで、私のようなピアニスティックが半分というピアノファンにはほとんどいない。サイードの聴き方からすると自然ではあるのだろうが。



ブレンデルという人は、おそらく音楽の先生、解説者としては優れたひとなのだろう。実は1973年の初来日時、生演奏を聴いている。その時、この音では続けて聴くのはと思ってしまった。まあデッドな日比谷公会堂で「ハンマークラヴィア」というのはきつい条件ではある。しかし件のアシュケナージの初来日公演も同じ日比谷だったが、ショパンのエチュード作品25、ベートーヴェンの作品31の3、作品110のソナタの音は素晴らしかった。



 



著者と私が重なっているグールドだけれど、私はこの人のピアノは別の意味でピアニスティックだと思う。ベートーヴェンの変奏曲(エロイカとか)など気持ちよく浸っていられる(録音があまりよくないが)。



 



サイードでおやと思うのは、論述の中で古今の多くのピアニストの名前がひかれる中、あのフリードリッヒ・グルダの名前が一度も出てこないこと。たぶん苦手だろうな。あの、ベートーヴェンなど、二十歳前にもう会得してしまって、あれは楽譜に沿って弾き飛ばせは自然に曲の真価は出てくる、みたいなことをほざいたピアニストは論じるのもいやなのだろうと想像する。本当に聴いたことないのかもしれないが。



ここらが、グルダ大好きの私から見ると面白いところだ。



 



さてオペラでは、リヒャルト・シュトラウスについて多くが語られていて、教えられることろが多い。グールドもシュトラウスが好きだったから、ここらはなるほどである。



でも「影のない女」になると、やはりこの人はすごい聴き手なんだと思う。私はこれを読んだ後でも、もう2度と見たいとは思わない。



最近になって、シュトラウスの作品をそれもサイードが評価する現代風の解釈・演出で、映像で見ることが多くなったから、シュトラウス論は楽しめた。



「ばらの騎士」は「ある種の倒錯となかば公的な厳粛さ」とはなんともな表現だが、言われてみればその通り!



 



上記で、現代風の演出を評価している、それは解釈しなおしてこそのクラシックということなのだろうし、他のところでも古楽器による演奏を支持するものではないと断っているが、これも納得できた。、



 



これらの文章がもし1990年代に翻訳されたら、ここに書かれていることを体験した我が国の論者も多かっただろうから、どういう反響があったかと興味もわく。ただオペラについては著者が文句を言いながらも珍しい作品を見ているメトロポリタンなどについて、私のようにようやく映像でふんだんにみられるようになった者としては、今がいいのかもしれない。



 



この大変な聴き手の文章を翻訳するのは至難と考えるが、訳文はバレンボイムの序文(たいへんすぐれたもの)も含めて、書き手があたかも日本人のような、読んでいて違和感がなく疲れないたいへんすぐれたものである。



そして、一つ一つの細かい事象について詳細な調査と確認を行っていることは、文章からもまた文末の注からも想像できる。



 



これから巻2を読むところで、これも楽しみである。



リヒャルト・シュトラウスに頭がいっているせいか、昨日からオーボエを扱った曲をいくつか聴いている。協奏曲はあのベルリン・フィルのかっての名手ローター・コッホでカラヤンが指揮したLP、そしてハインツ・ホリガーがなぜか自らは吹かず指揮に専念したいくつかの管楽器曲集のCD。



いい。



 






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