メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

美女と野獣(ディズニーミュージカル)

2023-07-22 09:53:58 | 舞台
美女と野獣(ディズニーミュージカル 劇団四季)
7月21日(金) 舞浜アンフィシアター
 
劇団四季のミュージカル、久しぶりに見た。20年前の「マンマ・ミーア!」以来である。
どうもディズニーは苦手で、大人になってからはあまり積極的に近づかなくなっている。
ただ「美女と野獣」のアニメは以前ビデオで見てなかなかよかったということもあり、観にいってみた。
 
やはり四季の上演はすばらしく、音はきわめて大きくなっても歪まない優れたPA技術、照明と連動してよくもこれだか早く変わることができると驚く舞台装置(オペラでもこれやった方がいい?)にも感銘をうける。

そして出演者の歌も感情の表出が適切またよく聴き取れ、ダンスも快調、四季は観客が受け取りやすく、その結果入りもよく営業的にも成功しなくては、という浅利慶太の方針を今も継続しているのだろう。
 
「美女と野獣」の話は言うのも恥ずかしいが、人と人との真実というか、それを劇の変化の中で飽きないようにみせていく。
 
この話、フランスの昔話かと思っていたら、原形はなにかあったのだろうが、1700年代に女性の作家が書いたもののようだ。特に気がつくのは、主人公で田舎の娘ベルが本が好きだといううこと、城の中で野獣が見せる本の山に感激することなど。
 
これは、フランスでのルネッサンス、啓蒙主義と続く流れを反映したものだろう。特に女性のということもあるだろうか。となりのイギリスの方が先んじたが、1800年前後、優れた女性作家が輩出される流れに通じるのかもしれない。
 
コクトーによるものをはじめいくつも映画が作られたようで、モーリス・ラベル(マメールロア)など、フランスのインテリも題材としている(ということにいま気がついた)。




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「白鳥の湖」(ロイヤル・バレエ 高田茜)

2021-05-26 09:19:15 | 舞台
チャイコフスキー:白鳥の湖
高田茜(オデット/オディール)、フェデリコ・ボネッリ(ジークフリート)、トーマス・ホワイトヘッド(ロットバルト)
原振付:マリウス・プティバ、レフ・イワノフ
指揮:コーエン・ケッセルス
2020年3月6.10日 ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドン) 2021年5月 NHK BSP
 
テレビでバレエを見るようになったのは最近である。吉田都の引退が近くなって話題になり、関連番組をいくつか見ているうちに、以前より関心がわいてきた。
 
高田茜を初めて見たのは少し前、同じ白鳥の湖でジークフリート王子の二人の妹の一人だったが、長い手足と特に手の表情が際立っていて記憶に残った。そのあと、熊倉哲也、吉田都に続いてほぼ同時期にプリンシパルになった平野亮一と一緒に番組が組まれ、期待は膨らんできた。
今回、ぎりぎりで観客が入った公演、主役オデット(白鳥)とオディール(黒鳥)を堪能した。オデットの悲しみを含んだ輝き、そして王子を誘惑するオディールの色っぽさと怖さ、動きのキレがいい。
 
王子のボネッリも役のキャラクターに合っていたし、悪役ロットバルトのホワイトヘッドも達者であった。ただ後者の衣装はもう少しすっきりしていてもよかったのではないか。
 
バレエ鑑賞の素人だからかもしれないが、こういう名作でも全曲2時間となると長すぎると感じる。おそらく公演全体は、劇場の、バレエ団の興行として考えれば、団員の出番、観客をオペラと同じくらいの時間楽しませる、という事情もあるのだろう。各人のソロ、何人かの組によるダンスが次から次へと出てくるのは、この作品に限らない。レビューのような性格と考えていいかもしれない。
 
チャイコフスキーの人気ある三つの作品、オーケストラ・コンサートでは30分前後の組曲として演奏されることが多い。白鳥の湖の場合、もう少し長くてもいいが、ドラマのベースとなる筋と主役クラスのダンスを中心にしたプログラムがあってもいいと感じる。知らないだけですでにあるのかもしれないが。
 
ともかく、こういうきっかけがあると、今後の楽しみが増えてくると思う。


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グルック 「オルフェオとエウリディーチェ」

2020-01-13 21:35:15 | 舞台
グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」
指揮:ディエゴ・ファソリス、演出:ロバート・カーセン
フィリップ・ジャルスキー(オルフェオ)、パトリシア・プティボン(エウリディーチェ)、エムーケ・バラート(アモーレ)
イ・バロッキスティ(管弦楽)、フランス放送合唱団
2018年5月28・31日 シャンゼリゼ劇場(パリ) 2019年12月 NHK BS
 
先にアップした「天国と地獄」の後に続けて放送されたもの。再放送らしいが、最初がいつだったか記憶はない。
この物語はオペラばかりでなく、演劇、映画など数多くの表現がなされてきた。「天国と地獄」もそのパロディである。
グルックのこれはおそらくオーソドックスな物語なんだろう。この放送録画を見ることができてよかった。
 
グルックが生きた時代は、バッハ、ヘンデル、ラモーなどと重なるけれども、音楽でドラマを描くということからすれば、トップだと思う。この時代の典型的な音作りはあるものの、それがくどかったり、マンネリになったりせず、近代オペラにつながるものを持っている。
 
オルフェオはカウンター・テナー、この高声域の男声はこれまでしっくりこなかったのだが、今回はそうでもなく、グルックの管弦楽の中で、こういう役割で表現させるのであれば、一つの楽器としてもこの音域でよかったのかと思った。通常の男声テノールではオーケストラとの対照が強すぎるのかもしれない。男が歌っているからちょっと珍しく感じるので、後の時代でよくあるように男装の女性に歌わせれば、いわゆるズボン役として受け取ってしまうから、考えようによっては変なものである。宝塚の男役に例えるのは行き過ぎか?
 
演出は全体に黒の衣装と背景、影絵調の照明で、コーラス以外はオルフェオとエウリディーチェ、それにアモーレだけだから、このほうが観るものも集中できてよい。
 
一つ、演出カーセンの解釈なのだろうか、オルフェオが我慢できなくなって振り向いてしまうところ、その少し前にエウリディーチェはそれを予期するかのように白い布を身に纏い始め、神の裁きが下る。こういうタイミングにしたのは、二人の同じ思いがこの結末に結びついたことの表現なのだろうか。ちょっとどきっとした。
 
さて、始まりから出ずっぱりのジャルスキー、これが若者の思いを乗せて見事。プティボンも出てきてから強い表現で聴かせる。この音域だと女声の方が強く感じられるが、これはグルックの意図したものだろう。
愛の神アモーレは女性のバラート、オルフェオの立場にかかわるところは男装、エウリディーチェのフィナーレ近くでは女装で、それぞれ衣装はほとんど同じ、これはなかなかうまい演出だった。バラートはとてもチャーミング。
 
考えるに、やはり振り向いてしまう、見てしまう、人の愛はこうでなければいけないんだろう。日本の「夕鶴」とか、似たようなものはある。
 
この作品のまともな上演といまごろ初めて観るのも、これだったら悪くない。


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オッフェンバック 「天国と地獄」

2019-12-30 17:46:32 | 舞台
オッフェンバック:喜歌劇「天国と地獄」(地獄のオルフェ)
ザルツブルク音楽祭2019
指揮:エンリケ・マッツォーラ、演出:バリー・コスキー
アンネ・ソフィー・フォン・オッター(世論)、マックス・ホップ(ジョン・ステュクス)、キャスリーン・リーウェック(ウリディス)、ホエル・プリエト(オルフェ)、マルセル・ビークマン(アリステ/プリュトン)、マルティン・ウィンクラー(ジュピテル)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・ヴォーカル・コンソート(合唱)
2019年8月12、14、17日 ザルツブルク モーツァルト劇場 2019年12月 NHK BS
 
数限りなく作られている「オルフェウとエウリディーチェ」をもとにしたドラマの一つ、といってもこれはかなり大胆なパロディで、ドイツに生まれ、ほとんどパリで活躍したオッフェンバック1858年の作品である。いろんな版があるようだが、これはおそらくパリ初演の2幕版で、フランス語が主体である。
 
オルフェとウリディスは仲が悪く、別れたいと思っているのだが、それでもウリディスの不倫相手を殺そうとしたら、まちがってウリディスが死んでしまう。しかしここで世論というキャラクターが登場、こういうものを作ってしまうところが才能というべきなのだろうが、世論は体裁を重んじ、ここは妻を連れ戻しに冥界にいくべきだと説く。世論に狂言回しらしいジョン・ステュクスが加わるが、二人並んでいる場面では、世論がフランス語でしゃべるとステュクスがドイツ語で同じことを説明する、といったシーンが続くから、これは上演と観客の状況を意識してのことなのか、オリジナルなのか今回の演出なのかはわからない。
 
このパロディ、本筋の話しより、冥界でのバカ騒ぎ、乱痴気騒ぎが延々と続くのが主体。こうなると生で見ているのなら楽しいかもしれないが、TVで見ているとちょっとくどく、うんざり感も否めない。
 
音楽も有名なあの序曲(といってもこの版では第2幕のフィナーレ前あたりで出てくる)はともかく、同じオッフェンバックの「ホフマン物語」と比べるといま一つだった。とはいえ、序曲相当の部分は、ダンスも含めこれはすごい(なにしろこれをウィーンフィルがやっているんだから)。
 
歌手では、とにかく出番が多く、高音を駆使して出ずっぱりのキャスリーン・リーウェックはたいしたもの。風貌はヒロインというより太ったあばずれという感を出していたが、演技の思い切りの良さも格別。
 
世論のオッターは、頭の良いこの人ならこのくらいはできるだろう。対するマックス・ホップはそれより走り回るところが多く、これはかなりなもの。
 
最後は、ほかのものと同様、振り向いたらだめというところで、ジュピテルの騒ぎのために振り向いてしまう。しかし、もともと別れたかったのだから、ということ。
 
おそらく1858年のパリは、こういう享楽的なもの、それに対する「体裁」の両面があって、それはその後現在まで、私見ではフランスではこういう見方はかなり強いと思う。この演出、特に衣装は、なんとも卑猥であって、ここまでやるかという感じなのだが、それはこの批評のため、ということだろうか。でもちょっとくどい。
 
そういえば、この対比はたとえば文字どおり映画「カンカン」の表の社会と裏のキャバレーの世界という構図に続いているのかもしれない。

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吉田都 引退公演 ラストダンス

2019-12-12 09:17:32 | 舞台
吉田都引退公演 ラストダンス
2019年8月7日、8日 新国立劇場 NHK BSPre (11月18日)
 
音楽系では、長いこと器楽が中心で、オペラもかなり聴いてきたが、ファンというほどではなく、バレエとなるとオペラの中で見かけるくらいだった。
それが、10年ほど前からだろうか、NHKで英国ロイヤルバレエのプリンシパルである吉田都のことがよく扱われるようになり、単に有名な作品の公演をそっくり観るのではなく、バレエのいくつかの要素を注意して、興味を持って見るようになってきた。
 
この引退公演は、彼女がこれまで共演してきたダンサー、またこれから新国立劇場の芸術監督になるということからか、トップクラスの現役ダンサーを交えたもので、私がよく知らないけれど有名なものも含め、そのさわりを中心に構成されていて、この世界へのイントロダクションとして楽しめた。
 
吉田や英国で活躍する外国人ダンサーたちはもちろんだが、全体として日本のレベルが(おそらく)きわめて高いのに感心した。国際コンクールで若い人たちが毎年入賞するのももっともである。
 
こうしてみるとバレエというのは、流れるような、またダイナミックな動きの見事さもさることながら、「静止」、「着地」の素晴らしさに見とれるものだなあ、と思う。
 
「シンデレラ」、「ドン・キホーテ」、「白鳥の湖」、「シルヴィア」など、そして有名なものらしいのだがこれまで知らなかった「誕生日の贈り物」(グラズーノフ)、「ミラー・ウォーカーズ」(チャイコフスキー)の二つは、この放送の前に見た公演までのドキュメンタリーでも、その次第を詳しく見ることが出来たから、味わいも深かった。後者がチャイコフスキーのどの作品からとったものかはわからない(検索したけれど)。
 
一つだけあげれば、最初のシンデレラ。吉田のソロで、シューズを取り出していつくしむ最後の場面、このダンサーにとってはガラスの靴だったのだろう
 
12月21日に再放送されるようだ。

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