メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

北斎「冨嶽三十六景」

2017-08-30 20:52:46 | 美術
北斎「冨嶽三十六景」(夏休みコレクション展)
MOA美術館  7月21日(金)― 8月29日(火)
三十六景まとめて見たのが初めてかどうか、記憶はないがこうして並べてみると充実した時間となる。
熱海に旅行することになり、改装後初めてのMOA美術館訪問であった。
こうして続けてみると、遠近法、思い切った対照など、北斎の探求の世界がよくわかる。有名なものの中で、「神奈川沖浪裏」はいろんな場面、かたちで見ていているからか、こうしてあらためて見てもそう印象は変わらない。またメディア映像で見ても、それらの色彩は本物から逸脱していない。
しかしながら「凱風伕晴」いわゆる赤富士は、その色、山麓の木々のタッチ、形と左右のプロポーションなど、こうしてじっくり見るだけのことはある。「山下白雨」も、赤茶の色、雷など、見ていて飽きない。
改装された時の話で、ガラスの中に入っていても見る時にこちらの映り込みがないということをきいていたが、それはまさしくそうで、照明、反対側の壁面の塗装(確か黒か紺)でそうなるらしいのだが、これは画期的なことである。
同時に歌川広重の「東海道五十三次」も見ることができたが、広重の良さは北斎と並べてみないほうがいいのではと感じた。
国宝では野々村仁清「色絵藤花文茶壺」をゆったりと見ることができる。素晴らしい。
同じく国宝の尾形光琳「紅白梅図」(屏風)は、特定の短期間(2月ころ)しか見られないからやむを得ないが、ここにはあの杉本博司が同じサイズでモノクロの写真を撮り、特殊な印画をしたものが展示されている。特に夜の梅の雰囲気を感じさせる面白いものなっている。
それにしても、入り口から60m上まで7段200mのエスカレーターという途方もないエントランス、驚く。


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鹿島茂「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」

2017-08-22 21:11:25 | 本と雑誌
エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層 鹿島 茂 著 2017年5月 ベスト新書
 
トッドの論述には興味があり、またそれがこの半世紀の世界の変化をよく予言し、説明してくれているのも確かである。
ただこの人の著書は難しいらしく、それらに直接あたることはなくて、トッドへのインタビューがほとんどであった。
この本は著者がトッドの著作を読み込んで解説したもので、カバーする著作の範囲も広く、また読みやすい。
 
中心は世界各地の家族形態、その最近の動き、そしてそれによって説明できることである。
家族の類型は、親子関係(と権威主義)、同居、などから直系家族、絶対的核家族、(外婚制)共同体家族、平等主義核家族という四つを基礎的な分類とし、世界各国、各地域によって、これらのどれが主流が、主に外部との関係からそれらに変形が出てきている、といった分析説明が主に続いていく。
 
世界の今の各国、各地域の形態、事情はこれでよく説明できることが少なくなくて、なるほどと思うことが多い。
ただ、それは結果としての類型の観察に、どうしてこうなのかということの説明に、そういう形態の特徴が確実な因果関係をもっていたと充分に説明できる、つまり因果関係をもって証明できる、というわけではない。
 
それでも、硬直的な体制が必ずしも盤石というわけでもなく、トッドがいうように、国・地域の中で識字率、特に女声の識字率が上向きになり、特に女性のそれが50%を超えたときになにかが起こる、ということはありそうな気がする。
そして、どんな困った体制も永続的なものではないということも推測出来てくるから、少し楽観的に世の中を見ることができる、ともいえる。
 
最後のあたり、著者のよく知るパリ盆地の事情を反映してか、結婚の比率向上のための方策、子育て政策の受容性の指摘は納得できるし、さらに進んでシングルマザーへのサポートの強調は共感するところが多い。

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ワーグナー「タンホイザー」

2017-08-18 21:04:51 | 音楽一般
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」
指揮:ジェイムズ・レヴァイン、演出:オットー・シェンク
ヨハン・ボータ(タンホイザー)、ミシェル・デ・ヤング(ヴェーヌス)、エヴァ=マリア・ヴェストブルック(エリーザベト)、ペーター・マッティ(ヴォルフラム)、ギュンター・クロイスベック(領主ヘルマン)
2015年10月31日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2017年5月WOWOW放送
 
久しぶりのタンホイザーである。なによりなのは指揮がレヴァインであること、昨年放送された「マイスタージンガー」で、やはりこの人が病癒え復帰したからこそ、あんなに充実したワーグナーの管弦楽が鳴ったと感じたのだが、今回はさらに深く重厚なものとなっている。
 
この物語の構成は、主人公タンホイザーを中心に世俗的な官能の世界への耽溺、悔悟、聖なるものと高貴な女性を崇め求める騎士の世界、迷いと巡礼、女性の自己犠牲による救済、といったワーグナーの世界によく登場する要素の組み合わせである。組み合わせのバランスは悪くなくて、音楽は充実しておりしかもなじみやすいから、最後まで興味を持って聴くことができる。
ただ、話として共感できるかといえば、いくら中世ドイツの話だとしても無理を感じる。
 
音楽としても、舞台としても、よくできているのは第一幕のヴェーヌスとタンホイザーの官能の場面であり、特に今回の演出では、ヴェーヌスのもとにタンホイザーがフィナーレの直前に帰っていこうとしたのも、単に誘惑を断ち切れなかったからではないと感じられる。前記のマイスタージンガーのところでも感じたのだが、この観念的な志向がドイツをああいう風に導いたのではないか。もっともタンホイザーの場合は個人の問題に限った話だけれど。
 
歌手ではタンホイザーのヨハン・ボータが、張りのある声で歌いあげもよく、そして出番が長い中、最後までスタミナも衰えず、見事だった。マイスタージンガーのヴァルターよりこっちの方が向いている。この翌年故人になってしまったのは残念である。
 
そしてヴェーヌスのミシェル・デ・ヤング、ここでは単に弱い人間を引きずり込むというだけではない。このような官能がなければ人間として成立しないと思わせる。作者が十分に一幕を割いただけのことはある。
 
そして最近ますます充実してきたメトの合唱、タンホイザーではとりわけこれが活きる。

演出はオットー・シェンク、この人がまだ若ころ、あのクライバー指揮の「バラの騎士」が最初の経験だが、ここでも魅力ある舞台を作って見せてくれる。第一幕の女たちの舞踏の見せ方、第二幕の騎士たちの歌合戦とエリーザベトでは背景の柱の向こうに見える外光があのストレーレル演出のヴェネティアものに通じる心地よさがある。
 
それにしてもジェイムズ・レヴァイン、演奏時72歳だが、傷めた腰・背中への配慮らか、指揮台の後ろばかりでなく前も倒れ込まないようにバーで囲まれている。その中の動きのダイナミックなこと、表情にある気合、見ていて気持ちいい。

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藤島武二展

2017-08-16 17:07:18 | 美術
藤島武二展 生誕150年記念
2017年7月23日 - 9月18日 練馬区立美術館
 
藤島武二(1867-1943)のいくつかの絵はよく知っているが、まとめて見たことはなかったように思う。生誕150年というと、明治とともに生まれ育っていった画家ということになる。
 
山本芳翠らに学んだのち、黒田清輝の推薦で東京美術学校洋画科の助教授になったのが29歳という経歴は不思議で、優秀ではあるが、飛びぬけて目立つものがある、というわけでもなさそうに見える。
 
事実、そのころの作品は画題、画風とも黒田を彷彿とさせるが、師にせまるところはない。それでも1905年から数年フランス、イタリアにおそい留学をしてからは、何かぴりっとしたものが現れていて、やはりこの時代、特に洋画にはそれが必要だったか、ということが感じられる。次第にロマン、モダンという要素が多くなっていったようだ。
 
今回初めて知ったのは、藤島がイラストレーターとして先駆ともいうべき存在だったということで、雑誌の表紙、挿絵など数多く展示されており、特に与謝野鉄幹、晶子との関係は興味深い。またこのころすでに紹介されていたらしいミュシャの影響が明らかにみられる。
 
明治から大正、昭和と、こういう画風から見るかぎりバランス感のよい人がの中心にいたことが、洋画全体の発展のためによかった、ということは理解できた。
 
しかし、藤島といえばあの「黒扇」(1908-09 在イタリア時)が思い浮かぶのももっともで、これは画家の全作品の中で、なにかが奇跡的に結晶したのではないだろうか。重要文化財に指定されただけのことはある。
 
残念ながら「黒扇」は今回展示されていないが、これを所蔵しているブリヂストン美術館からきている何点は、たとえば「チョチャラ」、「糸杉」、「港の朝陽」など、全体の中でもさすがにどこか際立ったところがある。
2015年から休館中の同館は2019年秋に新装オープンの予定らしいが、ある意味では、こうして楽しみが増えていくということだろうか。



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ビゼー「真珠採り」

2017-08-14 10:41:45 | 音楽
ビゼー:歌劇「真珠採り」
指揮:ジャナンドレア・ノセダ、演出:ペニー・ウールコック
ディアナ・ダムラウ(レイラ)、マシュー・ポレンザーニ(ナディール)、マウリシュ・クヴィエチェン(ズルガ)、ニコラ・コステ(高僧ヌーラバット)
2016年1月16日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2017年7月 WOWOW放送
 
ビゼー(1838-1875)25歳の時の作品、出世作となったようだが、後にビゼーといえば「カルメン」となったからか、メトロポリタンでも100年ぶりの上演とか。
 
それでもあのカルメンのどこをとっても入っていける音楽を作ったたんどくに人の才能はこの作品でもすでに顕著で、それは幕間インタビューで指揮者ノセダも認めている。「耳に残るは君の歌声」は単独に取り出し、いろんな形で使われ有名になっているが、それだけではない。
 
物語はかなり昔のセイロン(現スリランカ)あたり、真珠採りで有名で、そこの集団、部族の中だけで展開される物語。
部族の長になったズルガが、海での安全をと巫女レイを引き入れる。そこへ外に出て放浪していたナディールが帰ってくる。
男二人はかって親友であり、実はそれぞれレイラとも縁がある。ナディールはレイラの歌を聴いて彼女とわかり、嘗ての恋心がよみがえる。巫女の彼女ととの交情は禁忌であり、ズルガが問い詰めるが彼女のヴェールをとって後、彼はレイラと気付き、この地の首長としてそして嫉妬から、二人の処刑を決めるが、レイラは自分が死ぬからナディールは許してほしいと懇願する。
 
このレイラの決心が、強い女としてアピール性が強く、演出もそれは考えている。
ところが、この時点で予想したフィナーレとは違って、以外な結末が待っているのだが、、、
 
三人は声質、歌唱、演技とも素晴らしく、音楽に納得して演じていることがわかる。男性二人はこれまでよく見ているが、ダムラウは初めてではないが、「椿姫」はかなり感心したものの、もう少しドラマティックな役に向いていると思ったが、誤解だったか、今回とってもよかった。
この三人の、いくつかの二重唱、秀逸である。
 
さて真珠とりというわりに、話の筋には真珠採りの話は出てこないのだが、このエキゾティックな世界をうまく聴衆にサービスして演出するということか、冒頭の前奏の間、海の中を何人かが自由自在に泳ぎ回る。これはあらかじめ撮られた映像でなく、大仕掛けの機構とワイヤーで動き回り、それを海中であるかのように光の演出をするという凝ったもの。メトロポリタンならではだろうか。
 
衣装などは一応現代ということらしいが、それはズルガのもの以外は昔の雰囲気で、終幕にズルガが悩む現代の貧しい事務室のような部屋と彼の衣装が、前記最後の展開にいたるまでのズルガの現代的な悩みと決断を象徴しているのだろう。
恋人どうしが発覚して神の怒りを招く場面に津波の映像を使ったのは、いくらアメリカとはいえ、まだこの時期どうなんだろうか。
 
この「真珠採り」、十代にクラシックをよく聴くようになったころ、フランス音楽を中心に気に入っていた指揮者アンドレ・クリュイタンスの代表作の一つとして評価されていたけれど、全曲盤までは手が出なかった。クリュイタンスの演奏はその後も聴く機会がないが、作品の方はこのように楽に聴く機会を得た。いい時代になったものである。

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