メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

枯葉

2013-12-29 18:16:27 | 音楽一般

このところ「枯葉」(Les Feuilles Mortes)をヴォーカル・レッスンに持ち込んで歌っている。

それこそ中学生のころから、イヴ・モンタン、越路吹雪ほかの歌唱で親しんでいて、あまりにも有名だったから、いまさらという感じはあったけれども、ジャズピアノをやりだしてその世界の演奏を聴きだすと、意外に「枯葉」をレパートリーにしている人は多く、それでは歌ってみようということになった。

スローでしっとりしている曲だが、コード進行(作曲 ジョセフ・コスマ)がピアニストたちに気にいられたのだろうか。

 

さて歌う段になり、米国で出ている楽譜を手に取ってみると、前半のヴァース部分はフランス語、後半のコーラス部分にはフランス語と英語訳が載っている。

 

ジャック・プレヴェールの詞を初めて読んでみたら、枯葉が出てくるのはヴァース部分だけで、コーラス部分はかつてあれだけ愛し合った恋人たちの苦い別れ、ここに枯葉はでてこない。

コーラス部分のみの英語訳では、過ぎ去った夏の恋の思い出にひたるという、苦味に少し甘さが入った感じになっていて、それは「Autumn leaves」という題名にも表れている。この季節だから、木の葉は落ちていく。

プレヴェールの詞では枯葉は死んだ葉であり、季節の描写は完全に冬、二人が愛し合った頃が対置されているだけで、他の季節は出てこない。

英仏でずいぶん印象はちがっている。練習ではちょっと凝って、フランス語のヴァースからコーラスに入り、繰り返しとしてコーラス部分だけ英語で歌う、ということにしてみた。

しかし、なかなかこれは難しい。英語だと多くのジャズシンガーが歌っているように、少しテンポを速くしてスウィンギーにしてみたくなる。

これは今後、歌う場に応じて、いろいろ試してみるよりほかないだろう。

 

こうしてみるとプレヴェールの詞はさすがで、わかりにくい部分は一切ないのだが、この別れの苦い真実はずしんとくる。二人が互いに愛しあった、ということのほかは、淡々とした情景描写。

 

さて、それなら英語の詞は甘ったるいだけか、といえばそうでもないから、ことは面白い。米国で海外の歌がヒットしその後も親しまれたということはめずらしかったらしく、「枯葉」はその稀な例だそうだ。

原曲は名曲だが米国で親しまれるには地味で、内容も苦い。ミュージカルで歌われた曲を取り出して歌う場合にヴァースを省略することはよくあるが、ここでは残るコーラス部分で、落ちてくる木の葉を描き、夏の日の恋という定番のセンチメンタルなシーンを入れた。そしてこれを1947年ころからフランク・シナトラ、ナット・キング・コール、サラ・ヴォーンなどスタンダード・ジャズの歌手たちが歌い、それからビル・エヴァンスなど多くのジャズ・ピアニストが題材として取り上げた。また人気ポピュラー・ピアニストのロジャー・ウィリアムズの華麗な演奏は一世を風靡した。何十年か前、このアナログレコードを持っていて、よく覚えている。

 

そして、英語訳は誰?と見るとジョニー・マーサー。そう「酒とバラの日々」、「ムーン・リバー」の作詞者である。ジョニー・マーサーってどんな人かなと調べたら、この人キャピトル・レコード創立者の一人らしい。そうであればなるほどで、前述のシナトラ、キング・コール、ロジャー・ウィリアムズの録音はキャピトルであった。一つの曲がヒットし定着するには、これ以上ない背景だったか。

 

プレヴェールの詞を読んでいたら、これと似た感じがするもう一つの詩があったことを思いだした。「朝の食事」というもので、愛しあっていた二人、朝、男がコーヒーを飲み、タバコを喫い、帽子をかぶりコートを羽織り、無言で出ていってしまうという別れ、女はそのあと泣くだけ、というもの。

フランス語の授業でよく使われたのではなかったか。

 

「枯葉」フランス語版の練習で参考にしている歌唱はコラ・ヴォケールのアルバムとイヴ・モンタンの1981年オランピア・ライブ、今発売されているものは案外少ない。前者もアナログ・レコードを持っていてよかった。後者はさすがだが、ヴァース部分はほとんど朗読になっているから手本にはならない。よくあることでこの朗読自体は素敵なものだ。

 

英語ではナット・キング・コールが一番しっくりくるものだろうか。一方、シナトラはフランス語の歌の感じにかなり近い。これは「Where are you?」(1957)というアルバムに入っていて、「Frank Sinatra sings for only the lonely」(1958)などと同様、恋に破れた男、そのつらい感情を歌ったものである。この時期の仕事はその後にいきたと考えている。

 

 


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ドニゼッティ「愛の妙薬」(メトロポリタン)

2013-12-28 16:32:00 | インポート

ドニゼッティ:歌劇「愛の妙薬」

指揮:マウリツィオ・ベニーニ、演出:バートレット・シャー

アンナ・ネトレプコ(アディーナ)、マシュー・ポレンザーニ(ネモリーノ)、マウリシュ・クヴィエチェン(ベルコーレ)、アンブロージョ・マエストリ(ドゥルカマーラ)

2012年10月13日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2013年11月WOWOW

 

2012年秋からのシーズンでオープニングを飾った演目。メトロポリタンの映像をこうしてたくさん見ることができるようになり、ロッシーニ、ベルリーニ、そしてこのドニゼッティなど、多くのベルカントオペラを観るようになった。日本ではよほどのオペラ好き、それも海外で見る機会がある人でないと、この分野はそんなに親しくないだろうし、どうしても真面目なというか音楽的には高度ではあっても重いものに接する機会が多い。

 

またこうして観ると、歌手たちにとっては、こういう演目がベースにあれば、声帯を酷使しないで技術を磨く機会も多いのでは、考えられる。

 

「愛の妙薬」は他愛のないラブ・コメディではあるけれど、人気があるのは今回よくわかった。若者が村一番の娘と結びつきたいのだが、自信もなく、また娘も注目してくれない。そこに行商のちょっとインチキくさい医者兼薬売り(ドゥラカマーラ)に相手をひきつける妙薬を教えられ(売りつけられ)る。観客からすると、おそらくただのワインで、そう思って飲めば少しは効くというプラセボ効果なのだが。

 

娘は村に来て駐屯している連隊の隊長と結婚するかというところまで行き、さて最後はいわゆる間違いの喜劇となり、たっぷり聴かせる名アリアのやりとりで、ハッピー・エンドとなる。

 

ドニゼッティはこの作品を短時間で完成させるはめになったそうだが、よほど体調もよかったのか、音楽は実に快適で、よどみなく進行していく。

中心となる四人の歌手、連隊長のクヴィエチェンと医者のドゥラカマーラ特に後者はぴたりと役にはまり、楽しませる。

ポレンザーニも、インタビューでも語っていたように確かに感情移入が難しい「椿姫」のアルフレードと比べると、のびのびしていて、その声を楽しめる。ネトレプコのアディーナはもう水を得た魚というか、おそらくこの役では現在トップなのだろうし、また彼女のレパートリーとして最上というか自身もっとも好きなものに感じられる。

 

ところで、メトロポリタンはその予算のどれだけを入場料でまかなっているのかはわからないが、よはりこういう演目で人をひきつけ、一方で意欲的な演目にも挑むという形になっていると言えなくもない。

こういう気持ちのよい「愛の妙薬」であれば、男女のカップルで観に行く価値はあるだろう。幕が下りて、まさに愛の妙薬で一杯やれば、なおさらである。

 

今回から文字の表示を一段階大きくした。もっと前からこうすればよかったのだが、やり方に気づかなかった。


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ジェフリー・アーチャー「死もまた我等なり」

2013-12-27 10:14:03 | 本と雑誌

ジェフリー・アーチャー「死もまた我等なり」(The sins of the father) 上下 戸田裕之 訳 新潮文庫

 

クリフトン年代記シリーズ第2部である。第3部も本国で出版されたらしい。

前作「時のみぞ知る」で二つの典型的な家系が交錯し、その二人の若者は親友であり、しかも一筋縄ではいかない運命を持たされていることが、提示された。本作はその後二人が別れ、一方の妹との困難な結びつき、第2次世界大戦を潜り抜けた後の問題、と盛りだくさんな展開である。

 

描きかたは前作同様に主要な登場人物を中心に1~2年の話を組み合わせるという形になっており、読者からすると章が変わるごとに時間は前後することが多い。

前作ではこれが新鮮だったが、こう長く続くと読む方のリズムとしては違和感も感じる。これが映画の原案であれば、うまく編集されるだろうが。

 

また終盤で扱われる問題、これはイギリスの貴族事情にうといこちらとしては、またおそらく事情に通じていてもかなりちがう価値観の社会に住んでいるものとしては、そんなものかなというページが長すぎる。しかも決着は次回になるようだ。

 

アーチャー作品の面白さ、そして感動からいえば、年代記シリーズの前の「遥かなる未踏峰」の方が上である。


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ザ・クリスマス・ソング

2013-12-24 09:31:53 | 音楽一般

「ザ・クリスマス・ソング」、この種の歌としてはしっとりとしていて、気分を盛り上げる感じではないが、ジャズシンガーにはよく歌われる。

名歌手メル・トーメが友人ロバート・ウェルズが書きつけた詞に数十分で曲をつけたそうだ(1945年夏)。

 

先日ジャムセッションに出たとき、まだうろ覚えのこの曲を何人かでやったらと考え、昨年歌っていた女性にリードをお願いしたらOKとなり、セッション最後のあたりで女声2人と私で歌った。私はともかく全体としてはまずまずで、3人でよかったねと顔を見合わせたとき、客席の奥から、当日参加していたトランペットとサックスが「ホワイト・クリスマス」をやりだした。これはサプライズで、会場の多くの人たちは歌詞をだいたい知っていて、唱和がはじまった。

 

こういうことがあるから、ジャムセッションは楽しい。

 


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ヴェルディ「椿姫」(メトロポリタン)

2013-12-22 21:55:37 | 音楽一般

ヴェルディ:歌劇「椿姫」

指揮:ファビオ・ルイージ、演出:ウィリー・デッカー

ナタリー・デセイ(ヴィオレッタ)、マシュー・ポレンザーニ(アルフレード)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ジョルジュ・ジェルモン)

2012年4月14日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2013年2月 WOWOW

 

ナタリー・デセイの椿姫は2011年のエクスアン・プロヴァンスでその素晴らしい歌唱と演技を体験することができた。

今回の演出はあの屋外での演出とは大分違うけれど、時代を反映した具象的な舞台ではなく、このストーリーと音楽に聴衆を集中させるものであることは共通している。

 

舞台はほとんどが半円形の色はグレー系のもの、その中にあるものといえば壁に沿って続く座席と、場面によって現れる同色のソファー、ヴィオレッタとアルフレードが一緒の住み始めた時だけにそれにかかる花柄のカバー、そして進行と時間的な切迫を象徴するかに見える大きな時計、そのくらいだ。

そして衣装、ヴィオレッタは赤の袖なしドレスに赤いヒール、それを脱いだ時の白いシュミーズ、小間使いにかけてもらう黒のガウン、他の人たちはほとんどすべて黒という割り切ったもの。最初の乾杯の歌などパーティの参加者たちすべて黒のスーツで、そこでは女たちも同様に男装の麗人風である。誰がフローラだかわからないほど。

 

つまりすべてがヴィオレッタに集中している。これはデセイを前提としてのものかもしれない。それほど彼女は最初から最後まで聴くものをつかんで離さない。いつもベルカントのレパートリーでその歌唱のなかでとびぬけてドラマティックな表情を見せる人だが、それがこの役でも最大限の効果を出している。ヴェルディの他の大作とはちがって、ここでは彼女の独壇場。

 

この作品、こうして観ると、脚光を浴び華やかな生活をしていた女が、ちょっと違った生真面目な男と出会い、男は夢中になり、しかし女というものを知らない男は、家族の対面を第一とするその父親の女への説得に負け、自暴自棄となり、女は病の果てに息絶えそうになり、その直前に相手の父と子が理解を示し戻ってくるが、もう遅く死んでしまう、という話は、その展開の納得などどうでもいいことになる。

 

聴く者は、観るものは、ヴィオレッタの華やかな生活、得意満面なふるまいと歌、それも肯定して楽しみたいのである。もちろん最後は悲劇で終わるから免罪符があるのだが、それはそれだけの話。

 

そういう女の人生を、デセイに入り込んで味わうなんという幸せ。

 

アルフレードとジョルジュ・ジェルモンはまずまず。ただ後者はちょっと偽善者であるにしても、最初からなんとなく悪そうに見えるのはちょっと、、、

 

ところで終盤のある部分でデセイの声が少しハスキーになる。思うにこれは疲れたからでなくこの場に即した表現なのだろう。喉への負担ということを考えれば、頭声できれいに出す方が楽なはずで、ここで胸声つまり地声はむしろ喉に負担がかかるのだが、見事。

 

あらためて思う、ヴェルディの最高傑作。

 

 


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