メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

津田青楓 展

2020-03-18 09:05:15 | 美術
生誕140年記念 背く画家 津田青楓 とあゆむ明治・大正・昭和
練馬区立美術館  2月21日(金)-4月12日(日)
 
津田青楓(1880-1978)という画家については、数日前に本展が日経でかなり大きく紹介されるまで全く知らなかった。
 
京都に生まれ、奉公中に図案制作をはじめ、浅井忠に学び、上京した後、徴兵、日露戦争を経験、洋画を本格的にやろうと安井曾太郎とパリに行き、帰朝後に夏目漱石と知りあってかわいがられ、漱石後期の本の装丁をやる。その後洋画家として二科会で活動するが、官憲にあげられ、洋画では強い主張が出るのは必然ということで、それからは日本画、南画を描いていく。
長命であったから、こうように日本近代まるごとの画家人生といえばそうである。
 
洋画については、そう飛びぬけたものはないように思える。中では、裸婦など人物を描いたものよりは、自然、街など風景を描いたものの方に、いくつかいいものがあった。
 
その一方、若いころの図案には、印象的な、センスがいいものが多く、才能はこっちにあったのかもしれないが、やはり時代が画家にこういう人生を歩ませたのだろう。
 
ところで、新コロナ型ウィルスで、まず国立美術館が休館になり、2月末に関根正二展を見た神奈川県立鎌倉も翌週休館となった。その一方、東京の区立美術館は練馬だけでなく、渋谷松濤、板橋、目黒など開館している。ごった返すほど観客が見込まれる展示でないからかもしれないが。
 
そうであるなら、関根正二展もせっかくの没後100年なんだから、休館しなくてもよかったのにと思う。没年は1919年ですでに福島、三重で開催しており、最後が鎌倉、やはり首都圏で行きたい人が一番多いだろうが。
 

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勇気ある追跡

2020-03-14 10:10:06 | 映画
勇気ある追跡( True Grit、1969米、128分)
監督:ヘンリー・ハサウェイ、音楽:エルマー・バーンスタイン
ジョン・ウェイン(コグバーン)、グレン・キャンベル(ラ・ボーフ)、キム・ダービー(マティ・ロス)、ロバート・デュヴァル(ネッド・ペッパー)、ジェフ・コーリー(チェニー)
 
少女マティ・ロスの父は馬を売買するために出張するが、いわくつきのチェニーを反対されたが同行する。途中酒場のもめごとでチェニーをたしなめた父は彼に撃たれ死んでしまい、チェニーは逃走、先住者地域に逃げ込んで、やはりお尋ね者のペッパーの一味に加わっていることがわかる。
 
荒っぽいいわくつきの保安官コグバーンを知ったマティは、馬をなんとか処分、算段して金を作りチェニーの追跡をたのむ。そこに賞金付きのペッパーを追うテキサス・レンジャーのラ・ボーフが加わり、無理して同行するマティとの三人組の追跡がはじまる。
 
題名からもウェインのハードな追跡劇、ガンプレイという西部劇の典型かと思ったのだが、二人をしとめるまでの話は一応そのとおりであるにしても、映画として楽しませるのはむしろ追う三人のやりとり、その関係が変化していくプロセスで、ユーモア、コメディ・タッチも入れながら、うまく出来ている。
どこか落語、講談にしてもいい感じさえあった。
 
ウェインは期待通りで、素早い銃さばきと、老いた巨体ゆえの危機は、この人のこの時期のお約束といっていい。小娘とのやりとり、ちょっと跳ね上がりの若いそれもよそ者のレンジャーの扱いは飽きさせない。
でも、この映画がいい出来で成立したのは、何といってもマティ役キム・ダービーの起用だろう。ませて妙にしっかりしていて、それでも時に無謀のつけがきてべそをかく、ある意味で映画娯楽への貢献だろうか。
 
グレン・キャンベルはいくつかの映画に出ているらしいが、見るのはこれが初めて。もちろん本来はカントリー、ポピュラーの歌手で、これに出た少し前には「恋はフェニックス」、「ウィチタ・ラインマン」という今でもよく演奏される名曲をヒットさせている。この映画ではちょうど役にははまっていて、このあたりヘンリー・ハサウェイのうまいところかもしれない。
 
それにしてもグレン・キャンベルは、譜が読めないが多くが認める超名ギタリストで、西海岸でレコーディングに駆り出される名バックミュージシャン達、いわゆるレッキング・クルーの主要メンバーで、あのビーチ・ボーイズの録音にも加わっているはずだ。ドラムでハル・ブレイン、ギターでグレン・キャンベル、、、このところこういうことがわかってきて、面白いものだと思う。
 
あとひとつ、ジョンウェインはこれまでも見てきたように、どこかで乗馬技術の自慢を、筋に必須でなくてもしたいようで、ここでも、、、



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チレア 「アドリアーナ・ルクヴルール」

2020-03-11 11:25:51 | 音楽一般
チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」
指揮:;ジャナンドレア・ノセダ、演出:デヴィッド・マクヴィカー
アンナ・ネトレプコ(アドリアーナ・ルクヴルール)、ピョートル・ペチャワ(マウリツィオ)、アニータ・ラチヴェリシュヴィリ(ブイヨン公妃)、アンブロージョ・マエストリ(ミショネ)、マウリツィオ・ムラーロ(ブイヨン公爵)、カルロ・ボージ(僧院長)
2019年1月12日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2020年2月 WOWOW
 
海外歌劇場の来日公演でこのタイトルを見たことはあるが、はてどんなものかと思っていた。アリアなど部分的なものも含めて今回が初めてである。
  
調べてみるとフランチェスコ・チレア(1866-1950)がこのオペラを発表したのは1902年、いわゆるヴェリズモ・オペラに分類されているようだ。寡作だったため、あまり知られていないのかもしれない。
ただこの作品はたいへん人気があり、ディーヴァのためのオペラのようだ。
 
今回、なんといってもネトレプコが主役ということで、この人を聴くだけでも大入りになるらしい。それに加え、ペチャワ、ラチヴェリシュヴィリも映えるから、声の饗宴ということだろう。
 
話は18世紀のコメディー・フランセーズ、ディーヴァのアドリアーナと愛し合う伯爵のマウリツィオは以前公爵夫人と付き合っていて、夫人は今でも強く執着している。それに公爵がからみ、小さい陰謀、策略の末、アドリアーナの悲劇となる。これは実際にあったことに近いらしい。
 
主たる三人の歌唱、特にネトレプコはさすがで、輝きと迫力で最後まで押し切る。他では舞台監督(?)ミショネのマエストリが、アドリアーナが好きなものの年齢からあきらめ彼女を支える役に徹するこの役でいい味を出している。衣装、メイクをもう少しきれいにしてもよかったとおもうけれど。
 
マクヴィカーの演出は、公爵の別荘も含めすべての場面を劇場・舞台で構成、この一つの世界の中のことという感じが続いたのは効果的だった。アドリアーナが「フェードル」の一部を演じ、公爵夫人に見せつけるシーンは圧巻。「フェードル」はやはり歌舞伎一八番のようなものだったのだろう。あのラモーの「イポリットとアリシー」がそうだったように。
 
さてチレアの音楽だが、聴くのがはじめてにしても、どこかのメロディーが印象に残るということはなかった。ただ、ドラマに沿い盛り上げる音楽として、歌手には聴かせどころはあり、オーケストレーションも充実していた。そう聴かせたノセダの指揮も優れたものだった。

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ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男

2020-03-08 18:00:06 | 映画
ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」(Darkest Hour、2017英・米、125分)
監督:ジョー・ライト
ゲイリー・オールドマン(ウィンストン・チャーチル)、クリスティン・スコット・トーマス(チャーチル夫人)、リリー・ジェームズ(ミス・レイトン)、ベン・メンデルスゾーン(ジョージ6世)、スティーヴン・レイン(ハリファックス)、ロナルド・ピックアップ(チェンバレン)
 
先にアップした「チャーチル・ノルマンディーの決断」(2017)とほぼ同じ時期に製作されたが、アカデミー賞などで話題になったのはこっちである。
 
ノルマンディーが1944年6月であるのに対して、今回の方は1940年5月はじめ、宥和政策が失敗したチェンバレンでは議会がまとめられなくなり、自ら属する与党からは嫌われていたが挙国一致内閣を作るには他に策がないということでチャーチルが首相になる。ただこの時はもうドイツ軍はオランダ、ベルギーを席捲、フランスはダンケルクの海岸に迫っていて、ここにいるイギリスの大軍が窮地に立っている。
 
退陣したチェンバレンとハリファックスは、大敗を喫するよりはイタリアを通じた和平交渉に走ろうとし、ジョージ6世もこちらに与するが、チャーチルはカレーにいる軍をおとりにしてダンケルクから軍を安全に撤退させることを強行しようとする。
 
この攻防がドラマの中心で、チャーチルがいかに議員を、世論を味方につけていくか、彼の言葉、弁舌が見せ場になっている。
 
もう一つの作品ほど彼の内面を掘り下げようという感じはなく、夫婦仲の問題もそれほどではない。演出としては彼一人の動き、つぶやき、その時の表情で流れを見せていく。
 
そこでこのときうまく使われるのが、オーラルを文字にする役目で常にそばにいるタイピスト(ミス・レイトン)である。最初は慣れなくてぼろくそに言われるけれども、少しずつサポートができるようになる。特に彼女のそばにあった写真から兄がダンケルクの前に死んだと知らされる場面、二人の無言の表情だけのやりとりが見事である。ノルマンディーの映画でも、タイピストは同じ人なのかどうかはわからないが、やはり近親の写真がキーになっていた。こういう孤独な宰相を描くとすると、夫人とタイピストをうまく使うしかないのかもしれない。
 
ゲイリー・オールドマンは、このワンマンといえばワンマンの多面的な、そして論理的では必ずしもない頭と精神の強さをつまく表出している。
 
クリスティン・スコット・トーマスは「イングリッシュ・ペイシェント」などで好きな女優だが、ここはかなり老けた容貌で、そう悪妻という感じではなく、主役をうまく押し出している。
 
ますます感心したのはタイピストのリリー・ジェームズで、「シンデレラ」やテレビドラマの「戦争と平和」、「ダウントン・アビー」などで、瑞々しい姿だけでないところを示していたが、今回はじっと抑えながら主人を後ろから動かしていく役割を見事に演じていた。
 
演出ではてと思ったのは、チャーチルが決断を前に市民の考えをきくために一人で地下鉄に乗る場面。実際にはこういうことはなかっただろう。悩んだとき夢の中に出てきたとでも受け取ればいいのだろうか。映画というものを考えればだめとは言わないけれど。


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舞踏会の手帖

2020-03-04 17:17:33 | 映画
舞踏会の手帖(Un Carnet de Bal、1937仏、130分)
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
マリー・ベル(クリスティーヌ)、フランソワーズ・ロゼー(ジョルジュの母)、ルイ・ジューヴェ(ピエール)、アリ・ポール(アラン)、ピエール・リシャール・ウィレム(エリック)、レイミュ(フランソワ)、ピエール・ブランシャール(ティエリー)、フェルナンデル(ファビアン)
 
夫を亡くし悲嘆に暮れているクリスティーヌが、20年前に舞踏会にデビューしたころの手帖に書かれている男たちを次々と訪ねていき、その出会いと別れを振りかえりながら、今の自分自身を確認していく。それを七話(?)のオムニバス形式で綴ったもの。
 
死んでしまったものもいれば、ピエールのようにキャバレーを経営しながら犯罪に手を染めるもの、音楽家から神父になって合唱指導をしているもの、山岳ガイド、小さい町の町長に収まった政治家志望者、精神を病んだ医者、気のいい美容師など、それぞれヴァラエティに富んだエピソードを見せてくれる。クリスティーヌ自身そしてデビュー舞踏会は上流階級だが、訪ねられる男たちはそれほどでもなく、社会的なポジション、職業は具体的でイメージしやすいものである。
もっと鬱々としたものを想像していたが、生きることに案外肯定的であり、クリスティーヌにいい決断、結末を与える結果になっている。
 
クリスティーヌのマリー・ベルは、16歳で舞踏会デビューだから、役としては30代後半、訪ねられる男たちからすれば気分のいい美しさである。
 
男たちの風貌は、当初から年もたっているとはいえ、そう二枚目でもない。それでも神父のアリ・ポール、美容師のファビアンなど、存在感と味を出している。ピエールのルイ・ジューヴェ、有名な割にあまり見ていないのだが、ここで見るようにちょっと悪役向きなのだろう。
 
この映画、ずいぶん昔から存在は知っていて、私の若いころもテレビで放送されたことはあったけれども、古臭いイメージがあって、ちゃんと見てはいなかったと思う。
 
しかしこうしてみると、デユヴィヴィエの演出はなかなか見事で、カメラワークも冒頭のダンスが始まるところ、終盤のちょっと庶民的になってしまった舞踏会のとの対比などをはじめ見事で、なかなか飽きずに見ることができた。
それにしても、あの雪崩のシーンはどうやって撮ったのだろう。
 
この映画、少し前から私が歌っているスタンダード・ナンバー「What's New?」を思い起こさせる。男たちそれぞれに対するWhat's New?であると同時に、その問いの流れからクリスティーヌ自身へのWhat's New?にもなっている、と言ったらいいだろうか。
 
この映画が想像していたより楽に見られたのは、その画質にもある。最初のタイトルのところで、フランス国立映画センターによる「修復とデジタル化」とあった。
 
私がデジタルアーカイブの推進をしていたころ、映画についてはフィルムの傷も作品のうちとして扱い、安易に修復してはいけない、とかなり厳しい議論があった。その一方、マスターフィルムの保存は別として、多くの人に見てもらうためにはデジタル技術の活用にも力を入れようとしていた。
今回の作品、家庭のテレビ画面で気持ちよく見ることができた。これでいいのだと思う。
 
なお、私は少しフランス語が理解できるが、この映画、とてもきれいなフランス語で、聞き取りやすい。この時代だからだろうか。


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