メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

須賀敦子「遠い朝の本たち」

2021-11-21 16:50:03 | 本と雑誌
遠い朝の本たち :須賀敦子 著  ちくま文庫
 
このところまた須賀敦子に関するものが続いている。この本は「須賀敦子の方へ」(松山巖)で知ったもので、1998年彼女が亡くなった年に刊行された。
遠いとは、幼少期から大学あたりまでを指すのだろう。
 
彼女より後の世代から見ると、あまり身の回りで見なかった、また今となっては手に入りにくいものも多い。ただそこは内容に関し最小限の紹介はされていて、そこで得た残ったものとその後のもものとのつながりがうまく書かれている。
 
そして、この人にしてはめずらしくセンチメンタルなふりかえりが感じられるのは、この小冊子の読みがいというものだろう。
 
その一方で、著者の存在と生き方に興味を持ち続けていたものとしては、読んでしまったけれどそうでなくてもよかったかなと、自分にたいして余計なおせっかいの念も起ってくる。
 
須賀が生まれたのは関西のかなりいい家ということは想像していたし、上記の松山の本からも知っていたけれど、本書を読むと相当裕福な環境だったな、と思われる。それがどうということはなく、書いたものがすべてなのだが。
 
もっともそうであってもこのような読書と学んだ環境から時代とその時の問題に対して真摯な思索がされたことは確かだ。前にも書いたと思うが、そうなると、恵まれた環境だけに逆に対宗教にしても対社会にしても、より極端になりがちだが、彼女はそこで一つ一つ立ち止まり考え直しで進んでいった。そこが著作から感じるいい疲労感で、アルベール・カミュ流にいえば「反抗」ということなのだろうか。
 
ところで、この文庫をはじめいくつかの著書のカバーには船越桂の作品が使われている。なぜかと思っていたが、本書の解説を書いている末森千枝子(編集者?)の弟が船越桂で、本を通じてのつながりのようだ。二人の父は船越保武(彫刻家)でカトリック、そこのつながりはわからないが、保武の彫刻は、それなりによく見ている私からすると、カトリックであっても近づきがたいものではない。須賀にも通じているだろうか。
 
「本たち」は幼い少女が夢中になるものからプルターク、鴎外、リンドバーグ、サン=テクジュベリ、、、ときて、最後が上田敏の訳詩集というのはおもしろい。


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山猫

2021-11-17 14:33:57 | 映画
山猫(完全復元版)( Il gattopardo、1963伊・仏、187分)
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
原作:トマージ・ディ・ランペドゥーサ
音楽:ニーノ・ロータ、ジュゼッペ・ヴェルディ
バート・ランカスター(サリーナ公爵)、アラン・ドロン(タンクレディ)、クラウディア・カルディナーレ(アンジェリカ)
 
記憶をたどって探してみたら10年ほど前に見ていた。
 
作品としての印象は特に変わらない。この時も完全復元版だったようだ。ただ、今回の方がTV画面が大きいせいか、あの有名な最後のダンス場面はより印象が強かったように思う。
 
登場人物の感情を強く表現したドラマ性は少なく、どちらかといえば叙事的な群像劇である。
それでも中心になるのは、ガリバルディらによるイタリア統一の動きの中で、葛藤しながらもそれを認めざるを得ない苦渋するサリーナ公爵、一時は赤シャツ隊に入ってしまう甥のタンクレディ、元ははるか下の階級から成りあがったものの娘だが限りない美貌でタンクレディと結ばれていくアンジェリカ、この三人を追っていくと大体はわかるように出来ている。一方、司祭や軍人など、細かい話も分かる人には面白いのだろう。
 
アラン・ドロンの役柄は表面的に見える以上は抑え気味な方がいいのだろう。ドロンはそれをよくわきまえた好漢になっている。
前に観た時もまいってしまったクラウディア・カルディナーレ、飛び切りの美貌と下層階級から上がってきた下品な活力、他の誰がこれを演じられただろう。
 
それでもやはり主役は公爵で、バート・ランカスターが大柄で繊細な演技を見せる。こういう人だったかなとも思った。ただ、これを演じているときのランカスターは意外に若く、体力はあったようだ。
 
アンジェリカからダンスの相手を求められ、最初はもう若くないからと辞退するが、マズルカは疲れるけれど、ワルツならと応じる。マズルカがこの時代のシチリアでも普通に踊られていたのかと、これは一つの発見。
 
全体として、イタリアというところ、これだけの激動期に変化はしていくが、旧体制も完全に抵抗はせず、また新興勢力も妥協して一体となるところもある。あまり一色にならないところが興味深い。
 
その後も、短期的ではあるが一つになってしまったのはムッソリーニの時で、これは;相当珍しいことではなかったか。最近NHKの「映像の世紀」(多分再放送)で、ムッソリーニとその時代の映像をはじめてかなりの量見た(ヒットラーと比べあまり機会がなかった)。最期イタリア人たちから断罪されたし、今後こういうことはあまりないだろう。
 
イタリアというところ、政治的にも、社会的にも、まとまらないというイメージがあるが、そうして経済的に心配されてもなんとかなっている、という印象がある。「山猫」を見ていてそういうしぶとさはあるのかなと感じた。以前ある人から聴いたが、イタリアは表面的な経済で破綻しても、裏の闇の経済が動いていて(マフィアもその一つ)、生きていられるということだそうだ。
あと一つ、街路、野原などの撮り方、なんとなくマカロニ・ウエスタンに通じる感があった。この映画あたりが影響を与えているかもしれない。脇役でジュリア―ノ・ジェンマもここに出ている。
 
ニーノ・ロータの音楽は期待通り、またヴェルディがうまく使われている。例えば確か「椿姫」の舞踏会の部分など。




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ノマドランド

2021-11-08 17:22:01 | 映画
ノマドランド ( Nomadland、2021米、108分)
監督:クロエ・ジャオ
フランシス・マクドーマンド
 
定職につかず、定住もせず、車で寝泊まりしながら移動していく人々の話で、ドキュメンタリータッチのところもある。
2,010年ごろ、リーマンショックの影響が大きいネヴァダからアリゾナが舞台、中高年の女性ファーンは勤めていた石膏工場が閉鎖され、仕事を求めてくるまで移動する生活を始める。以前は臨時教員をしていたこともあり、結婚していたのだが夫は病死、それが心の中に重く残っている。
 
同じような境遇の人たちが駐車し集まっているエリアがあり、そこで情報交換したり、悩みを話し合ったり、必要なものを物々交換したりしていて、なんとか凌いではいけているようだ。あまりひどい争い、暴力沙汰はない。
 
あえてドラマを作らず、映画は淡々とあまり緑のないしかし夕暮れなどきれいな景色の中で、観るものに少しずつ語りかけていき、しばらくするとなかなかうまいなと感じられてくる。
 
ファーンを演じるマクドーマンドは製作にもかかわっていて、全体のテーストは彼女のアイデアでもあるのだろう。彼女の夫はジョエル・コーエンだそうだ。
 
しばしの勤め先の中に、アマゾンの倉庫配送センター、国立公園の施設清掃などがあり、現代米国の象徴のような感があるが、アマゾンもよく協力したなと思う。ここに最先端のアマゾンが姿を見せるというのは意味があるわけで。
 
終盤の30分位でファーンの家族と彼女が一人になった経緯が明かされるが、比較的さらりとしていた。
 
ノマドワーカーという言葉で、おそらくもう少しハイクラスの人も含め、今こういう形態が目立ってきているということは、きいたことがある。
  
ノマドは遊牧民の意だが、たしかもともと仏領北アフリカあたりが起源で、私が知ったのはアルチュール・ランボーとかアラビアのロレンスという文脈でだったと思う。
 
厳しい現実を淡々と描いていて、救われるというか評価できるのは、生きることに対する肯定感だろうか。それがアカデミー賞の主要部門の独占につながったのかもしれない。


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