メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ロッシーニ「湖上の美人」(メトロポリタン)

2016-04-27 21:34:15 | 音楽
ロッシーニ:歌劇「湖上の美人」(LA donna del lago)
指揮:ミケーレ・マリオッティ、演出:ポール・カラン
ジョイス・ディドナート(エレン)、ファン・ディエゴ・フォローレス(スコットランド王ウベルト)、ダニエラ・バルチェッローナ(エレンの恋人マルコム)、ジョン・オズボーン(エレンの父が決めた許婚ロドリーゴ)、オレン・グラナドス(エレンの父)
2015年3月14日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2016年3月 WOWOW
 
近年再評価で人気が高いロッシーニの中でも、定評がある「セヴィリヤの理髪師」、「ラ・チェネレントラ」に次ぐポジションになりつつあるこの作品、しばらく前にコヴェントガーデンでの映像が放送され、私も初めて見ることができた。メトロポリタンでは初演だそうで、満を持してということなのだろう。
 
前記の上演と指揮のマリオッティ、ディドナート、フローレス、バルチェッローナの三役は同じである。いまならこうなるということだろう。ディドナートとフローレスはもう千両役者というべきで、声、歌唱、姿、申し分ない。そしてバルチェッローナだが、このメゾ・ソプラノのズボン役、3年前と比べるとずいぶん成長した、成熟したということができる。見ていて、ドラマの中に自然にはまっている。
この話は、エレンと彼女を囲む3人そして彼女の父の5人の関係がはっきりしていて、最後までぶれない。したがってドラマとしての細かい動きは少ないのだが、その分各人はたっぷりと歌い楽しませてくれる。
 
ロドリーゴは途中戦死してしまうが、最後は4人が和解、融和する。ディドナートが幕間に言っていたように、エレンは一途に走る恋の中で翻弄されるというよりは、3人の男の融和を願っているところがある。それが観る者にドラマとして不満を与えず納得させてしまうのは、エレンの歌であり、ディドナートの歌唱である。
ところで面白いのは、エレンと相手の3人の男を歌うのは、二人のメゾ・ソプラノとテノールで、こういう組み合わせは確かにめずらしい。
 
コヴェントガーデン版よりすんなり入ってきたのは、初めてではなかったせいもあるだろうが、やはりメトの全体的な力量、つまりオーケストラ、合唱、舞台などからくるものだろうか。
 
次のロッシーニは何だろう。楽しみである。


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没後40年 高島野十郎展

2016-04-20 21:03:42 | 美術
没後 40年高島野十郎展 光と闇、魂の軌跡
2016年4月9日(土)- 6月5日(日)目黒区美術館
 
高島野十郎(1890-1975)を知ったのは2008年のNHK新日曜美術館が最初で、2009年1月に銀座永井画廊での展示で、幸い数点の代表作を見ることができた。
 
今回の展示は、生前は無名に近く孤高の画家と言われた画家の全貌をを示す数多くの展示からなっている。前記の展示でよく覚えている「からすうり」、「法隆寺」、いくつもの「月」、多くの「蝋燭」などは今回も目立っているが、福岡県の裕福な作り酒屋に生まれ、東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業、家の反対を押し切って画家になったが、それでも洋行もして、私が見るに、この人の作品としてはのびのびした気持ちのいい風景画もあって、そういう中で見ていくと、かなり多彩な面をもった画家であるなと思う。大學の恩師の肖像画には、画家の人柄のよさを感じる。
 
それでも上記の作品や、凄味を感じさせる「自画像」など、よく見ると、細密な描写がやはり中心だ。
 
今回見ていて気がついたのは、同じ静物でももぎ取られている果物などは、その焦点がよくあった描写(桃のうぶげ!)は瑞々しい生命力を感じさせるが、からすうりをはじめ、茎や葉がついた花などは、むしろそれらの生命力を画家が吸い取っているように見える。これは対象のすべての点に焦点があてられている(その結果むしろ本質が現れるともいえる)ということにもよるように思われたが、どうなんだろうか。
 
今回感心したのが多くの「月」で、こんなに暗い空を背景にしたただの月(たいてい満月のように見えるが)が、見る者に不思議な落ち着きというか温度のない安心感を与える。
 
「蝋燭」は、世話になった人にあげたもので、売り物ではなかったそうだが、一つ一つの違いと共通点は、何か永遠の追及なんだろう。
 
ともかく、没後しばらくなら普通50年というところを、なぜか40年で画家の全貌を見ることができたのは幸いだった。

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小倉昌男 祈りと経営 (森 健)

2016-04-18 14:56:46 | 本と雑誌
小倉昌男 祈りと経営 ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの
森 健 著 2016年1月 小学館
 
こういう本が書かれたことは驚きであった。ここでえがかれている人にこのような人生があったのか。
小倉昌男がいかにして宅急便を発想し、既成の業界、官界と闘いながらあのレベルまで持ってきたかは、程度の差はあれ知られていることである。日経の「私の履歴書」にはそれに加え、会長を退いたのちに障害者のための福祉財団設立に私財をつぎ込み、障害者がそのために計画されたパン屋で働いて十万円の月収を得るという目的を達成した、という驚くべき事実も紹介されていた。
 
著者は財団設立に感心はしたが、それにしてもなぜという問い、そしてクリスチャン(救世軍)であった小倉が妻のカトリックに改宗、また妻とは俳句、旅行をよくともにした、というところに、単なる愛妻家だけでない何かがある、と感じたのか、会社・業界関係、親族など、取材を進めていった。
 
その取材の過程も明らかにしながら読み進めていくと、小倉昌男が仕事とは別に闘ってきたもの、そのたいへんなものが明らかになってくる。その中心は妻と娘であり、妻は小倉がまだ60代の時に亡くなっており、取材は小倉の逝去の後、仕事の関係者からはじまり、その中で彼の私的な面を少しずつ集めていき、最後は娘にたどりつく。丁寧で、むやみに乱暴には踏み込まない取材が、時の運も引き寄せて最後に娘から解に近いものを得た。
 
壇一雄に「火宅の人」という小説があるが、小倉は自ら火宅を作ってしまうような、たとえば浮気、道楽をしたわけではないけれど、別の意味で彼の家庭は火宅であった。それにたいして、優しさとどうにもできない無力感の間で、あの業績であるからすごいとしかいいようがない。
 
このような、家の、夫婦の、親子の、一部病気がからんだ関係は、小倉ばかりでなくかなり多くの家庭にもありうることである。その普遍性を感じさせる読後感は、この本の高い評価(ノンフィクション大賞など)も当然と思わせた。
 
なお、宅急便の話でいえば、あのスタイルはもっと狭い地域(関西)で、法制度などを無視し抜け駆けでやっていた「佐川」のやりかたをヒントにした、ということをこの本で初めて知った。「私の履歴書」のたしか初めの方で、「佐川」もいい会社になったと書いていたのは、小倉のそれなりの仁義だったのだろうか。私は当時の職場で、出入りの佐川の人によくしてもらっていたから、妙に納得したのだが。



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ロッシーニ「新聞(La Gazetta)」

2016-04-12 21:14:44 | 音楽
ロッシーニ:歌劇「新聞(La Gazetta)」
指揮:エンリケ・マッツォーラ、演出:マルコ・カルニティ
ニコラ・アライモ(ドン・ポンポーニオ)、ハスミク・トロシャン(ポンポーニオの娘リゼッタ)、ヴィート・プリアンテ(リゼッタの恋人フィリッポ)、マキシム・ミロノフ(アルベルト)、ラファエラ・ルピナッチ(ドラリーチェ)
ボローニャ市立歌劇場管弦楽団・合唱団
2015年8月11、14、17、20日 イタリア・ペーザロ ロッシーニ劇場 ロッシーニ・オペラ・フェスティバル
2016年2月29日 NHK BSPre
 
ロッシーニの作品で、題名も初めて聴くもの。裕福なポンポーニオが娘リゼッタの結婚相手を見つけようと新聞に募集広告を出すことを思いつく。この作品が作られた19世紀初め、新聞というものはおそらく人々がこころをときめかすメディアであったようだ。そこにアルベルトが応募するが、すでに父親には内緒の恋人(フィリッポ)がいるリゼッタはアルベルトに人違いだと嘘をつき、アルベルトはドラリーチェにいいよる。ポンポーニオはフィリッポが気に入らず、策を凝らすが、娘の方も負けてはいない。観客からすれば他愛ないが、当人同志たちにとっては大騒ぎとなる「間違いの喜劇」である
 
ドタバタの連続といえばそうなのだが、そこはロッシーニ、はてどこかで、つまり彼の他のオペラでも聴いたようなメロディー、テンポ、オーケストレーション、そしてのりの具合、二重唱、三重唱どころか五重唱、六重唱もありで、これがその意味はともかく、雰囲気といい、歌手たちの楽しみようといい、飽きがこない。
 
多くの作品を若いうちに書いてしまい、その後少数を除いて忘れられてしまったというロッシーニだが(私が若いころもそういうイメージだった)、この放送の後の解説番組によると、1960年代からロッシーニ(1792-1868)が生まれたペーザロのロッシーニ財団が作品の再発見と校閲をすすめたことにより、上演される作品も増え、評価も上がり、人気も上昇したようだ。そういえば、メトロポリタンでの上演もこのところ多いし、それで育ってきた歌手もかなりいる。ヨーロッパでも「ランスへの旅」とか「湖上の美人」などのように、突然現れたようなものもある。後者などは初めのころにあのピアニスト ポリーニが取り上げて指揮したのだが、彼のようなインテリにとってはこういう経緯も気に入ったのかもしれない。
 
そしておそらく歌手たちにとっては、特にキャリアの途中までは、ロッシーニは技術を磨くのに好適な上に、ヴェルディに比べると声帯に大きな負荷が少ないのもいいだろう。
 
さて、歌手たちは歌も動きも達者でよかったし、時代的に近代あたりの衣装、モダンな装置、人間関係と動きをわかりやすく見せる演出も効果的だった。それにしてもポンポーニオ役のアライモは、こんなに大きい、特に幅のある歌手はちょっと見たことがない、という感じだった。
 
ところで番組でいっていたが、ロッシーニの誕生日は2月29日で、うるう年の今年2月29日(月)(日曜深夜)の放送だった。これも何かの縁。

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ヴェルディ「ジャンヌ・ダルク」

2016-04-05 20:53:53 | 音楽
ヴェルディ:歌劇「ジャンヌ・ダルク」
指揮:リッカルド・シャイー、演出:モーシュ・ライザー
アンナ・ネトレプコ(ジャンヌ)、フランチェスコ・メーリ(フランス王ジャルル7世)、デビッド・チェッコリーニ(ジャンヌの父、羊飼いジャック)
2015年12月7日 ミラノ・スカラ座 シーズン開幕公演 2016年1月NHK BSPre
 
ヴェルディ(1813-1901)初期の作品で初演は1845年、演奏されることは少なく、スカラ座でもなんと150年ぶりだとか。問題はジャンヌ役のアンナ・ネトレプコも語って知るように、シラー原作による脚本の出来が悪く、ナンセンスなところが多いことだろう。
 
シャルル7世はイングランドにはかなわないと見ているし、ジャンヌの父はなぜかイングランドにつく。ジャンヌと王は相思相愛という設定。ただそのあとの戦況も、ジャンヌの最後もあいまいである。それだからだろうが、この演出ではすべては死の床にあるジャンヌの見た夢の中という設定にしてあり、王は顔も衣装も金に覆われている。最後もなにか宗教的な救済のようで、火刑台のイメージはない。
 
だからストーリーに対する興味は出てこない。特に父親がなぜこうも娘を邪悪視するのか、なんとも感情移入しがたい。
それで全体につまらないかといえばそうでもなく、音楽に集中すればこれはまぎれもなくヴェルディの音楽である。ヴェルディでは中期が好きだが、この音楽はすでに中期のいくつかにある魅力を持っている。中期の中では特に「椿姫」が好きなのだけれど、ここでジャンヌと父の二重唱は、「椿姫」のジェルモンとヴィオレッタの二重唱を思わせる。ヴェルディが後者を書くにあたって前者の感じが自然に出てきたのではないか。
 
主要な3人の歌唱は魅力もあり充実したものだった。特にアンナ・ネトレプコは、ロッシーニで活躍して後、ヴェルディに移ってきたところだから、まさにこの役はぴったりで、可憐さを残しながらも前に出てくる、そして輝きのある歌唱だった。
 
そしてリッカルド・シャイー、デビューのころから知ってるけれど、特にイタリアという感じに限定されないバランスの良さはこの歳になっても変わらず、そしてここスカラのオープニングにふさわし気持ちいいカンタービレがあった。

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