メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

池袋モンパルナスとニシムイ美術村

2018-03-31 10:00:36 | 美術
東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村
板橋区立美術館 2018年2月24日(土)― 4月15日(日)
 
戦前の池袋と落合、戦後の沖縄ニシムイ村にあったアトリエ村、こういう軸で、そこに集まった、そこで交流した画家たちの作品を集めたものである。6年前の池袋モンパルナス展、また9年前の新人画会展をこの館で見ているが、多くはそれに重なる画家たちである。
 
こうしてしつこく昭和の洋画家たちを扱ってくれると、イメージを刺激され、また思い出すことも多く、理解と愛着が進むのはありがたい(このあと1年近く改装で休館になるそうだが、また時々これに続く企画をやってほしい)。
 
そして今回は沖縄ニシムイ村も加わった。沖縄では名渡山愛順の絵は見た記憶があるが、他は多分初めてで、戦後の沖縄の厳しい環境が直接、間接に反映しているものの、あくまで絵として高いレベルを目指していることは受け取ることができる。
 
なじみの、松本竣介、長谷川利行、麻生三郎、靉光、寺田政明、鳥海青児、野田英夫、野見山暁治、古沢岩美、吉井忠など、2~3点ずつであっても、こうして時々見ることができるのはうれしい。なかでも長谷川利行は、またまとめて見たくなった。

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ラ・ラ・ランド

2018-03-19 16:08:48 | 映画
ラ・ラ・ランド(LA LA LAND、2016米、128分)
監督・脚本:ディミアン・チャゼル、撮影:リヌス・サンドグレン、音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン
 
残念ながら期待外れで、最後まで見るのに苦労した。映画館のシネマ・スコープ画面で見たら少しちがったかもしれないが。
ハリウッドの周辺、カフェでアルバイトしながら女優を目指してオーディションを受け続けているミア(エマ・ストーン)と新しいジャズを追求しているピアニストのセブ(ライアン・ゴズリング)が出会い、それぞれの進め方に理解を示したり、意見を言いすぎたりしながら、仕事もなかなか進まず1年近く、そして最後は一気に5年経ったところで結末、という構成である。
 
おそらく冒頭の車の渋滞と人々が飛び出してきて踊りだす印象的なシーンと、フィナーレのちょっと凝ってひねりの効いたオチ、この二つが最初にあって、その中をつないだという風に見える。でも2時間のドラマであるからには中間がこれだけ地味で退屈だとどうにもならない。
 
そしてゴズリングはそれらしい雰囲気はあるが映画向きの風貌ではないし、なによりエマ・ストーンに華がない。
 
でも、本当にしっかり理想を持続して生きたのはどちら?という、映画にはよくある印象的なフィナーレは、なるほどだった。映画では最後の最後、男に味方することが多いのはここでもそう。
 
昨年のアカデミー賞でいくつも授賞しながら作品賞を逃したのは、こうしてみると自然に思える。



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ピアノ発表会

2018-03-18 14:42:13 | 本と雑誌
ピアノの発表会に参加した。レッスンを受けている音楽教室主催のものでなく、同じ先生に習っている生徒達を中心に年一回やっているものである。
 
今回は二つ。一つは昨秋の教室発表会で弾いた「酒とバラの日々」(ヘンリー・マンシーニ)で、これは前回より指が楽に動くようになったのと、アドリブ部のノリがよりそれらしくなったことから、まずまずの出来になったと思う。
 
もう一つは弾き語りで「アルフィー」(ハル・デヴィッド/バート・バカラック)、これはかねてからの課題というか念願で、この好きな歌がカラオケや他人の伴奏でなく、テンポ・ルバートそれも歌う自身のかなりのわがままでやりたい、そうでないとこの曲のよさが出ない、と感じていたためである。
 
弾き語りといっても右手はヴォーカル・スコアどおり、左手はスコアについているコードどおりというきわめてシンプルなやりかたで、それくらいしか出来ないからだが、これまでよりずいぶん気持ちよく歌うことができた。また自分で音を出していると、サビというか決めるところで音程がピタリと合う、合っているという実感を得られて、自信を持って進められたように思う。
 
さて、借りたホールは昨年と同じだが、ピアノはこれまでのスタインウェイではなく、ブリュートナー(Bluthner uはウムラウト)という初めて知る名前のものであった。スタインウェイやベヒシュタインのように弦楽器の色彩が強くはなく、ヤマハを少しまるくなめらかにしたような感じだった。それでも試し弾きをしなかったわりに違和感はなかった。
 
調べてみたら、戦前はドイツ起源のものではスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインと並んで四大ピアノと言われていたらしい。戦後は工場が東ドイツに地域になってしまい、西側にはほとんど知られなくなったが、壁崩壊後復興し、近年評価が上がったようだ。

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ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」

2018-03-13 21:07:53 | 音楽一般
ジョルダーノ:歌劇「アンドレア・シェニエ」
指揮:リッカルド・シャイー、演出:マリオ・マルトーネ
ユシフ・エイヴァソフ(アンドレア・シェニエ)、アンナ・ネトレプコ(マッダレーナ)、ルカ・サルシ(ジェラール)、アンナリーナ・ストロッパ(ペルシ)
2017年12月7日 ミラノ・スカラ座 ヴィクトル・デ・サバタ没後50周年記念
 
ジョルダーノ作のオペラのタイトルはこれくらいしか知らない。初演は1896年である。
舞台はフランス革命、革命派の中でいくつかに分かれた集団、旧体制、それらの間で、革命指向の詩人シェニエ、貴族の娘マッダレーナ、その貴族の家で親子二代の従僕として育ったジェラール、これらが革命後の血なまぐさい動きの中でからみあう。
 
最初の出会いはかみ合わなかったものの忘れられなかったシェニエとマッダレーナ、従僕から逃げ出し革命派の要職になってマッダレーナをなんとかしようとするジェラール、中心はこの三人の葛藤である。
 
ただオペラの作りとしては、詩の、愛の表出の連続であって、三人の歌唱を堪能することになる、というかそれしかない。歌い手としては甲斐があるわけだし、聴く者としては生であればなおさらだろう。ジェラールの影の部分は、作曲家にもう少し作り込んでほしかったが。
 
三人の歌唱は、申し分ない。特にエイヴソフはこの種のテノール役としてポワーが優れ、聴きほれる。ネトレプコはこれまでの感じからするともう少し高い声域の役が合うと思うのだが、年齢とともにヴェルディ指向になってきた段階であれば、この役もそうかもしれない。サルシの一筋縄でいかな悪役ぶりもよかった。
なおエイヴァソフとネトレプコは夫婦である。
 
演出は三人の葛藤に集中するためかシンプルであるが、冒頭の貴族の夜会でジェラールが自らの立場をぼやきながら、人形のように静止している登場人物たちをいじっていく動きは、なかなか考えたなと思った。
 
指揮のシャイーは、長いアリアの支えと盛り上げなど、このオーケストラの能力を存分に発揮させている。
この上演、シーズンのオープニングで、デ・サバタ没後50周年記念とある。デ・サバタ、懐かしい名前で、レパートリーはかなり広く国際派だったと記憶している。
そこで思うのだが、イタリアの指揮者は、戦後もトスカニーニのあと、このデ・サバタ、セラフィン、ジュリーニ、アバド、そしてムーティとこのシャイーは現役、ドイツに比べてもむしろいい人材を出し続けたのではないか。
 
このオペラ、名前は知っていたが、全曲は見るのはおろか聴くのも初めてである。もう半世紀以上前に、戦後初めての海外オペラとしてNHKが呼んだイタリアオペラの目玉としてマリオ・デル・モナコが来日した。まだよくわからない年齢だったが、この人の名前はすぐに覚えたし、ラジオで「オテロ」と「アンドレア・シェニエ」のアリアは耳にしたように思う(調べたら、オテロは1959年の第2次、アンドレア・シェニエは1961年の第3次であった)。

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アガサ・クリスティー 「そして誰もいなくなった」

2018-03-08 16:47:01 | 本と雑誌
そして誰もいなくなった (And Then There Were None)
アガサ・クリスティー 青木久惠 訳 ハヤカワ文庫(2010)
 
原作は1939年、ミステリの古典としてあまりにも名高い作品だが、読むのは初めてである。推理小説を読み始めた十代のころ、どうも新しい少しひねったものを多く手に取ったようで、このところいくつか読んでいるようなものには近づかなかった。年齢を加えた者の暇つぶしとして、まだこういうものが多くあるのはいいことである。もっとも名探偵ポアロシリーズはTVドラマでいくつか見ている。
 
ストーリーは、陸地からそんなに離れていない小さい島、謎の個人の所有で、あるときあたかも無作為にピックアップされたような十人がパーティメンバ―として集められる。
そして冒頭、それそれの罪を告発する録音が流され、十人の兵隊の人形とそれらが一人ずついなくなっていく古い童謡が添えられている。
まさかまさかと思っているうちに、そのとおりはこばれていき、そして誰もいなくなる。
最後まで、次は次はと思いながら、かわされ続けていくからうまくできているミステリと言えるだろう。
最後にたねあかしはあるが、その前まで読んでいてぴたりとあてるのは無理なしかけであった。

その後いろんなものを読んでいる者からすると、この十人それぞれの性格の掘り下げが十分でないから、どうしてそういう行動に?というところで不満は残る。
 
とはいえ、この文庫の最後で赤川次郎が解説しているように、夢中になって一晩で読み切る作品としては、このような全体の長さ、登場人物それぞれの描写が、適当なのだろう。このまま映画にしても、うまくはまるように思える。私は読むのがきわめて遅い方だから、ちょっとちがう感じを持つのかもしれない。
 
ところでここで思い出したのが昨年読んだP.D.ジェイムズ「皮膚の下の頭蓋骨」で、これも舞台が小島に限定されているのだが、作者の頭には当然本作があっただろう。もっともここでは、コーデリアという探偵がおり、人間関係も複雑かつ濃密で、かなり後の時代のものという感じはあり、私にはこちらの方が読み甲斐があった。
 
また最近評判になった「ミレニアム」(スティーグ・ラーソン)も、島を孤立した舞台として使ったという点では、似た発想があるかもしれない。
 
ともかくクリスティーの作品はたくさんあるから、これからもときどき読んでみようと思っている。


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