メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

高峰秀子 「わたしの渡世日記」

2019-05-28 16:55:38 | 本と雑誌
わたしの渡世日記 上下 高峰秀子 著  文春文庫
 
これは女優高峰秀子(1924-2010)が昭和51年(1976年)5月か1年間、連載で執筆したもので、彼女の物書きデビューであり、修行ともいえるものである。すぐに単行本となったが、これはかなりあと文庫本化されたものである。
この本の存在と評判は知っていたのだが、ちょっとぎらぎらしていそうで、手にはしなかった。
 
読んでみると、意外なことが多く、彼女が北海道の豊かではない家庭に生まれ、またその一族には複雑なからみと経緯があって、養女として育てられ、その養母が癖のある人で、女優として成功してからも、信じられない苦労をさせられる。
 
運と才能で、子役から周囲の映画関係者をはじめとする各界の人たちの知己を得(映画界以外にも谷崎潤一郎、梅原龍三郎など)、その人たちとの一筋縄ではいかない関係、エピソードは、この本ならではで面白い。
 
しかし、この本は日本映画史の資料というより、高峰という女性が何を考え、どう反応し、苦しみ生きてきたか、それが生々しく、きれいごとでなく記されていることで、しかもそれによって理解してほしいとか、同情してほしいとか、どうだ偉いでしょうとか、そういうさもしいところが微塵もない文章として、読むものに効いてくる。
 
文章を書き慣れていないせいか、最初の何回かはこちらの読み進み方もぎくしゃくするが、10回を超えるあたりから、気がついてみると読むスピードが上がっていることがわかる。それは彼女にとって文章を書くということが、自分の頭で考え、目の前に明らかにしていくことについて、確実に成長をもたらしたということだろう。
 
実を言えばここにあげられている高峰の映画、そのタイトル名はいろんな機会に見ているが、実際に見たものはほとんどない。高峰に限らず、この時代あたりまでの日本の名女優は、アフレコのせいばかりでもないだろうが、どうも彼女たちのくせのある口跡が苦手で、そのせいもあるかもしれない。
 
それでも以前アップした「二十四の瞳」(1954年)は数年前に見ることが出来、そこにも書いたけれどちょっと拍子抜けした。本書で読むと、この作品は結婚前の思い出多い作品である反面、自分が子役だったせいか、子役中心の映画は好きではない、ということで、高峰の代名詞のように言われるのは心外のようだ。もっとも共演した子供たちとはその後もいい関係を続けていたらしい。
 
ところで、私の読書歴(それほどではないが)を振り返ってみると、創作でない散文の書き手として、感心した人には女性が多い。たとえば、幸田文、白洲正子、須賀敦子など、そして別の分野でひとかどのポジションを築いた人で、岸恵子、中村紘子、そして高峰秀子、、、
どうしてか、ということを考えていて、答の検討も少しついてはいるのだが、言うと面白くないからあえて言わないことにする。

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ロッシーニ 「アルジェのイタリア女」

2019-05-26 17:15:01 | 音楽一般
ロッシーニ:歌劇「アルジェのイタリア女」
指揮:ジャン・クリストフ・スピノジ、演出:モーシュ・ライザー、パトリス・コーリエ
チェチーリア・バルトリ(イザベッラ)、イルダール・アブドラザコフ(ムスタファ)、エドガルト・ロチャ(リンドーロ)、アレッサンドロ・コルベッリ(タッデーオ)、レベッカ・オルヴェラ(エルヴィーラ)
アンサンブル・マテウス、ウィーン・フィルハーモニア合唱団
2018年8月14日、16日、19日 モーツアルト劇場
ザルツブルク音楽祭2018 2019年4月NHK BS Pre
 
ロッシーニ(1792-1868)の歌劇は、ほぼ同時代の後輩ドニゼッティ、ベッリーニと比べると、意外だがあまり見ていない。「セヴィリアの理髪師」、「ラ・チェネレントラ(シンデレラ)」くらいだろうか。もちろんこの二つは傑作だけれど。
この「アルジェのイタリア女」、序曲はよくやられるから聴き覚えはあり、始まりとしてわくわくさせる。
 
話の筋はたわいないどたばたで、歌と軽快な動き、演出で楽しませる。この上演も、主要な役の数人が抜群だし、背景の家具、活用される映像など、話は昔だが、衣装などは近現代で、わかせる。
 
アルジェのムスタファが妻のエルヴィーラに飽き、イタリア人の奴隷リンドーロに彼の解放と引き換えにイタリア女の調達を命じる。リンドーロはアルジェに来る女たちの中に以前の恋人イザベッラがいることを知り、彼女とエルヴィーラなどと図ってなんとかしようとする。そこへイザベッラの叔父タッデーオが実は彼女をものにしようとしていて、ムスタファに取り入ったりする。
このあとはおきまりの笑わせるためのしかけ進行で、最後は予定調和の大団円、ムスタファが懲らしめられて頭を抱えるという次第。
 
全体として、特に音楽の勢い(ブリオ)がよく、歌唱も実に美しく楽しい。これを作曲したときロッシーニはなんと21歳であった。難関を切り抜けて恋を成就させる二人、ムスタファの出し抜きなど、なにかモーツアルトの焼き直しみたいだが、音楽がついてみると、これはあくまで私の好みだが、モーツアルトに負けていない。楽しむのならむしろこっちといえるかもしれない。
 
歌い手では、ここはなんといってもバルトリとアブドラザコフで、歌唱はもちろん演技、たちまわり、ユーモアなど、申し分ない。
アブドラザコフはコルベッリともども、下半身がブリーフだけという姿になることが多いのだが、西洋人はおなかがでっぷり出ていても、脚は細く、なんともおかしみがあり、効果的である。

バルトリは50歳を過ぎているけれど、全く衰えていない。レパートリーについての考え方が効いているのだろうが、体つきをみると相当フィットネスに気を使っているようだ。確かザルツブルクではプロデューサー役もしているはずで、ヘンデルをはじめロッシーニなどについては、今後も期待できそうだ。
 
ところで、このストーリー、ある意味でイタリア人賛歌という要素があって、イタリア人奴隷たちがイザベッラの策略でアルジェからイタリアに脱出しようかというところでは、奴隷たちを演じる合唱団員の衣装がサッカーイタリア代表のアジュール・ユニフォームでちゃんと背番号がついている。ヴェルディ「ナブッコ」の「黄金の翼に乗って」に先んじたなかなかのシーンである。
指揮のスピノジは知らない人だが、快調な音楽を作りだしてくれた。調べてみたら、アンサンブル・マテウスを作り率いているようだ。

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風と共に去りぬ

2019-05-10 15:11:48 | 映画
風と共に去りぬ(GONE WITH THE WIND、1939米、227分)
製作:デイヴィッド・セルズニック、監督ヴィクター・フレミング、原作:マーガレット・ミッチェル、脚本:シドニー・ハワード、音楽:マックス・スタイナー
ヴィヴィアン・リー(スカーレット・オハラ)、クラーク・ゲーブル(レット・バトラー)、メラニー・ハミルトン(オリヴィア・デ・ハヴィランド)、レスリー・ハワード(アシュリー・ウィルクス)、ハティ・マクダニエル(マミー)、オナ・マンソン(ベル)
 
この映画についていろんな情報、評価は何十年の間に耳に入ってきたが、見るのは初めてである。音楽だけは十代からよく知っていたけれど。年齢と暇というものは、とにかく見てみようかという気にさせる。
 
南北戦争の大波の中で、アトランタ周辺で運命の大波にもてあそばれる女主人公の半生が、見るものの紅涙を絞る?というイメージから、いやこんなエゴイスティックで勝手な、浮気性でやることがころころ変わる女がいるの?、彼女が主人公とは、何故? という評判、雑音が聴こえてきていたが、このところEテレの「100分de名著」でそれこそ原作者マーガレット・ミッチェルの意図した4人の主人公たちと、彼らをめぐる展開、という話をきいて、どれどれと、というわけである。
 
この4時間弱の映画、プロデューサーのセルズニックは大変なすったもんだの末、完成にたどりついたらしいが、あまり抵抗なく、疲労感なく見ていけるのは、原作、脚本のストーリーテリングのうまさ、適度なジェット・コースター性、全体の流れの中で余計な詳細説明はしない(特に人が死ぬところはあっと終わって場面が切り替わりその後という流れになっている)といったところからきている。当時といしては、セット、カメラ技術を駆使した豪華さも見逃せない。
 
さて主要な配役4人であるが、ちょっと地味ながら役柄にぴたりなのはメラニーのオリヴィア・デ・ハヴィランド、対して彼女の夫アシュリーのレスリー・ハワードは、スカーレットが執拗に求められるような魅力というか磁力にとぼしい。
 
ヴィヴィアン・リーはこういううるさい要素がいっぱいで、それが前半で全開し、終盤にだんだんと整理されていく(それでもまとまったとはいえないが)役はこなしたというべきだろうか。ただ、大画面の主演女優としては、柄が小さいというか、これでファンがが増えたのだろうかとは思う。
 
そうなると、この大長編をしょって立って、とにかく何か見たという記憶を植えつけて劇場から送り出すという役割はレットのクラーク・ゲーブルということになる。見る前はちょっと疑いの目であったが、どうして、なんと見栄えのする、偉丈夫、かっこよさ、台詞・演技のきざなことも、ここまで極まれば、文句などない。ダンスの場面、女性抱いたり、支えたりするしぐさなど、映画の主役はこれでなくては。
 
スカーレットの一家を最後まで支える家政婦マミー役のハティ・マクダニエル、なかなかの演技と思ったら、これでアカデミー助演女優賞だそうで、頷ける。
 
さて、このストーリーには少なくとも2つの背景がある。それは南北戦争と生まれた土地に対する執着である。南北戦争ですでに敗色が濃い南部ではあるけれども、こうしてみると国外から見たアメリカの強さというのは南部にこそあるとも感じられる。またこの映画で、ヤンキー(Yankee)が北部人に対する蔑称として使われていたことがわかった。

そしてアシュリーもレットも失ったスカーレットが、最後によりどころとするのはタラの土地である。タラというのは実在の地名かと思ったら、そういうところはないようで、スカーレット一家などアイルランド系の人たちが聖なる故郷の地をさしてこういうようだ。
私にはタラがある、といって最後を結ぶのは有名な「Tomorrow is another day」 。
 
ところで、この映画が製作されたのは1939年、はじめての本格的テクニカラーだった。日本での公開は1952年である。ところが今読んでいる高峰秀子「私の渡世日記」によると、日米開戦の後、おそらく1942年か1943年、東宝の撮影所で南方で押収された映画の試写が行われた。試写室には陸軍軍人と東宝の幹部に加えなぜか20歳すぎの高峰が一人いて、上映されたのは「風と共に去りぬ」と「ファンタジア」(ディズニー)。俳優の美しさ、音楽、テクニカラーでしびれるような感動をあじわったという。会社の関係者は軍人に聞こえないよう注意しながら「こんな映画を作っている国と戦争しちゃ、まずいな...」といったそうな。

この映画、中ほどに一回休憩をもうけている。これまで劇場で見た映画で休憩があったのは、覚えている限りでは「アラビアのロレンス」と「1900年」だけである。

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国宝 東寺展

2019-05-02 17:35:11 | 美術
特別展 国宝 東寺
東京国立博物館 平成館 2019年3月26日(火)- 6月2日(日)
 
仏教美術に関しては、知識もうとく、関心もいま一つというところだが、このところテレビ東京、NHKなどで組まれた番組を見て、これだけの国宝、それに準ずるものが多く一堂に会して見られるというのであれば、ということで行ってみた
 
かなりの込み具合だったが、行った甲斐はあったというものである。記憶ではこれに類した経験はは2009年の阿修羅展以来である。
東寺は空海の寺ともいうべきもので、今回、全体を立体曼荼羅としょうしている。
さまざまな菩薩、如来たちなど、そしてそれらが乗っている象、孔雀、獅子など動物たち、密教がどうということを抜きにしても興味はつきない。そして皆、いろんな意味でいい表情をしている。
帝釈天騎象像は確かに美男子だし、毘沙門天関連はいくつかあるから、その本質的な特徴をつかむことが出来、この強さはやはり上杉謙信が自身をこれに倣えたいとしたのもうなずける。
 
もう一つ持国天立像、これは説明タイトルどおりいちばんこわいが、一番強そうで、私はこれが好きである。

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