メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

エレーヌ・グリモー 「メッセンジャー」

2020-12-30 13:29:21 | 音楽
エレーヌ・グリモー「メッセンジャー」
ピアノ:エレーヌ・グリモー、アンサンブル:カメラータ・ザルツブルグ
2020 ユニヴァーサル/ドイツ・グラモフォン
 
2年ぶりのアルバム、前半はモーツァルトで、幻想曲ニ短調 K 397、ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K466、幻想曲ハ短調 K475、曲想も共通なところがあり、コンサートの前半と考えればまとまりがいい。
 
協奏曲は第24番とこれくらいという短調で、この悲劇的というか切ないところに人気がある。これを挟んでいる二つのファンタジーもいい曲だ。ニ短調の幻想曲が終わると、CDのトラック間の隙間がほとんどなく長い休止符かせいぜい1小節で協奏曲の序奏となる。調も同じだし、最初はピアノでなく弦楽だからこれはいいしかけだ。
 
3曲全体に切れが良く、協奏曲も幻想曲とマッチングしたように世界を作っている。普通に聴くセンチメンタルなところはない。指揮者はいないようで、コンサートマスターの名前だけクレジットされているから、よく打ち合わせをしたうえで、彼女の弾き振りに近いものだろうか。もっともピアノ何重奏という形に聴こえなくもない。録音は協奏曲になってからも幻想曲と同じレベルでとられているように聴こえ、最初はもう少しオフにしてくれればと思ったが、次第に慣れてきた。
 
第1楽章と第3楽章のカデンツアはベートーヴェンのもの。今年にぴったりでもあるけれど、よく作ってくれたと聴けるもの。エレーヌのピアノもまさにベートーヴェン。
 
後半はヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937- ) の作品がいくつか取り上げられている。その最初と最後がアルバム・タイトルの「メッセンジャー」(1996)で、最初の方はピアノとオーケストラ、サウンドエフェクトも入っている。最期はピアノソロ版。
シルヴェストロフは2年前のアルバム「メモリー」でも小品2曲が取り上げられていたが、バリバリの現代音楽から、キャリアの途中で20世紀以前の音楽へのノスタルジーを感じさせるものに変わり、それでも成功したと評価されているようだ。「メッセンジャー」はまさにモーツァルトそれもアルバム前半がかすかに聴こえてくる感じがする。アルバム前後半続けて聴くのがいいのかどうなのか、グリモーに聞いてみたいところでもある。そのほかワーグナー、シューベルトに結びつくものなど。シルヴェストロフの作品は、今後もう少し聴いてから個々の評価ということにしたい。
 
ところで、彼女も今年で51歳、いろいろ新しい試みをやってくれているが、ここで頭に浮かぶのは、E・W・サイードが「サイード音楽評論」(みすず書房)で書いている一節「奏者にとっての中年期」である。

飛びぬけた才能があり、若くしてコンクールなどで高い評価を得た奏者が中年期を迎えて問題にぶつかり、その後スランプというかおかしくなってしまう、ということである。ここで挙げられている個別の奏者についてはいくつか異論があるが、こういう見方ができるということは頷ける。

そうして思い浮かぶのが、「マルタ・アルゲリッチは中年期以後、ソロをやらなくなったな」ということである。当初はどうしてと思い、残念だったがその後彼女がデュオ、アンサンブル、コンチェルトで高いレベルの活動を続けているのを見て、違う考え方をするようになった。
 
アルゲリッチのいいところ、魅力は音のかがやきとその進行、そしてそれらの音たちを飛び立たせていく、自分のなかに取り込まない? うまく表現できないが。
 
だからある年齢になって、その音たちを他人と分かち、新しい世界を瞬間、瞬間作っていくようになったのではないだろうか。そういえば、ベートーヴェンについては、ピアノ協奏曲はほぼ第1番だけ(シノポリとの録音で第2番はカップリングされているが)で、第4番、第5番(皇帝)は少なくとも録音されていない。ソナタも若いころゼロではなかったにしろ、レパートリーには入っていないようだ。音たちを外に飛び立たせるという点からすると、ベートーヴェンは他の作曲家よし難しいのかもしれないが、彼女が一時指示したグルダのようにやればとも思うのだけれど、いまさら無理か。
 
さてエレーヌ、20歳のころクレーメルのアンサンブルに参加したことがあるし、その後もチェロとのデュオ、コンチェルトでもいろんな指揮者、オーケストラと組み、現代ものなどもレパートリーにいれているからそう心配ないのかもしれない。
これは私の独断だが、ラフマニノフが好きなピアニストは、おかしくならないような気がする。
でも、このあとエレーヌはどこへ 

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アラスカ魂

2020-12-15 10:36:08 | 映画
アラスカ魂(North To Alaska、1960米、122分)
監督:ヘンリー・ハサウェイ)、音楽:ライオネル・ニューマン
ジョン・ウエイン(サム)、スチュワート・グレンジャー(ジョージ)、キャプシーヌ(ミシェル)、アーニー・コバックス(フランキー)、フェビアン(ビリー)
ジョン・ウェインの「アラモ」を見た後、すぐに公開されたので見に行ったことを覚えている。たしか日比谷映画だったと思う。

一見西部劇だが、より気楽に見られるコメディでもある。時代もゴールドラッシュとしては多分後期、1900年ころのアラスカ、ノームの近くでサムとジョージ、その弟のビリーが金鉱を当て、ジョージが結婚を約束した娘を呼んでくるため、そこに用があったサムがシアトルへ船で行く。
 
相手は別の男を一緒になっていて、サムはそこで知り合ったミシェルをジョージに引き合わせようと誘ってアラスカに帰るが、次第に自分の方が好きになって、というお決まりといえばそういうパターン。
 
そこに金鉱を奪おうと権利関係のトリックをしかけた有力者のフランキーとの闘いが男たちとミシェルの恋模様の中で続き、最後は街中で、泥んこにまみれた壮大なアクションの連続でめでたしめでたしとなる。
 
ラズロ・フォーダーの原作は舞台劇らしく、そういえば場面場面をうまくつなげれば、舞台でも成立する感じである。
 
「アラモ」のウェインに休息を、というわけではないが、ヘンリー・ハサウェイの演出は肩の力が抜けた感じでうまい。事実、ウェインは楽しそうに演じているし、コミカルなアクションも見もの、ジョニー・ホートンの歌でヒットした主題歌(ドーナツ盤持っていた)が、うまく編曲されてBGMのほとんどをカヴァーしていて楽しい。またこの歌、タイトルと一緒のところでは物語の背景を手短に説明していて、くつろいで見られる雰囲気を出している。
 
キャプシーヌは掃き溜めに鶴といった役柄でそれに合っているが、もう少し前に出るところがあってもいいかなと思った。ジョン・ウェイン出演作品で女優というとモーリン・オハラを思い浮かべるが、たまにこういう対照的な人を配することもある。そのなかでは「リオ・ブラボー」のアンジー・ディキンソンが、美貌、スタイル、そしていわくありげな雰囲気とじゃじゃ馬ぶりが出色だった。
 
この時代だから、シネマスコープのカラーもきれいだし、ここまでの西部劇の積み重ねが、美術、衣装、アクション、音楽など丁寧に発展させてきて、ハリウッド映画のレベルアップに大きく貢献したと感じる。

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西部魂

2020-12-08 14:13:26 | 映画
西部魂 (Western Union、1941米、94分)
監督:フリッツ・ラング、音楽:デビッド・ベトルフ
ランドルフ・スコット(ショウ)、ディーン・ジャガー(クレイトン)、ロバート・ヤング(ブレイク)
ヴァージニア・ギルモア(スー)
 
名前は知っていても見る機会が少なかったランドルフ・スコット、このところ出演作品が時々放送されるのはありがたい。
 
この作品は西部劇の範疇には入るのだが、大きな構成要素としてはタイトルにもあるウェスタン・ユニオンの電信線の拡張事業が中心にあって、これにかかわる人たちと、荒野の作業にたけたカウボーイたち、そして先住民たちが複雑にかかわる。ちょっと面白い設定で、当時の大統領はリンカーン、北軍の話も出てくる。舞台はオマハ(ネブラスカ州)周辺。
 
電信会社の技師クレイトンは調査中の落馬して瀕死の怪我を負い、通りかかったショウに助けられる。その後電信線を引いていく要員を募集しているときにショウを見つけ、同行させる。
 
クレイトンには電信(モールス信号)技士の妹スーがいて、ショウは好意をいだく。そこに本社筋の男ブレイクがやってきて、場違いな感じもありながら彼もスーに好意を抱いている。
 
荒野に出て、野営をしながら電信線を;敷設していく中で、先住民とのトラブルが重なるが、これにはなにやら裏がありそうなことがわかってくる。これが最後に三人の男たちの命運につながる。
 
面白いのは、トラブルや危険が生じたときに、早馬ではなく、電線に機器をつないで電信で送るあたり。
牛追いやガンプレイの華やかな場面は少ないが、おきまりというかお約束の料理係の爺さんのなんともひょうきんなふるまい(どっかで見たことがある俳優)も場面をつないでいる。
 
活劇としては今一つなこの映画で、やはり見どころはスコットの演技、その表情、台詞で、微妙な思惑、感情が読み取れる。
 
ところでこれは1941年、ちょうど今日から79年前太平洋戦争が始まったその年の製作、こういう地味な作品でもきれいなカラーである。
そしてブレイク役のロバート・ヤング、同姓同名が多く、検索して確信は得られなかったが、この顔はやはり日本で昭和30年代に多くの家庭で見られていた連続テレビドラマ「パパはなんでもしっている」のパパ役で、このころはアメリカのこういうつくりの家、家族がかがやいて見えていた。
そういう意味では、昭和の日本と興味あるつながりがある映画である。



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ドニゼッティ 「連隊の娘」

2020-12-04 14:29:20 | 音楽
ドニゼッティ:歌劇「連隊の娘」
指揮:エンリケ・マッツォーラ、演出:ロラン・ペリー
プレティ・イェンデ(マリー)、ハヴィエル・カマレナ(トニオ)、マウリツィオ・ムラーロ(シェルピス)、ステファニー・プライズ(ベルケンフィールド侯爵夫人)、キャスリン・ターナー(クラッケントルプ公爵夫人)
2019年3月2日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
2020年11月WOWOW
 
ドニゼッティのコロラトゥーラ・オペラとしての魅力たっぷりな、歌手の魅力を楽しめる作品。これまでには、やはりメトで2008年に上演されたものを観ている。
 
アルプス近くのフランスの連隊に、孤児の時に拾われ育てられ可愛がられているマリーがいる。たまたま知り合ったトニオと仲良くなるが、連隊のもの以外と一緒になることは厳禁といわれる。そこに旅の途中で現れた侯爵夫人の親族の実は娘だったということになり、マリーは連れていかれてしまう。
 
その後、侯爵邸で躾、教育を受け、それなりの相手と婚約ということになるが、そこへマリーと一緒になるため連隊に入ったトニオがマリーの親代わりだった軍曹(シェルピス)、隊員たちとおしかける。そして実はマリーの本当の出自は、、、ということからハッピー・エンドになる。
 
演出は20世紀初頭を舞台に設定ということだが、ロラン・ペリーの演出は前記2008年のメトで彼がやったものを踏襲しているようだ。マリーが連れていかれた屋敷の使用人たちが掃除するときの動作がクラシック・バレエの基礎ポーズというので思い出した。
 
マリーのイェンデは前記のナタリ・デセイに比べ大柄だが、動きはよく、声もきれいでこの役を映えあるものにしている。南ア・ズールーの出身らしく、途中に舌音を入れるアドリブもあるがこのオペラの性格からすると悪くない。歌詞のフランス語も問題なかった。
 
トニオのカマレナ、一幕の後半で9回のハイCを見事にこなし、アンコールになった。ここのハイCは前記上演でのフローレスや、かのパヴァロッティも有名で、アンコールもあったらしいが、こういう録画で観るのは珍しい。
 
ムラーロ、プライズも達者、そして台詞だけだが公爵夫人にはなんと映画女優キャサリン・ターナーが起用されている。メト側のちょっとした遊びらしいが、このオペラでは楽しい。あのセクシーなファム・ファタル「白いドレスの女」もどっしりとした熟女になっていた。
 
マッツォーラの指揮は、観客を喜ばせるところの溌剌さなど、この場にぴったりだったと言えるだろう。



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