メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ヘンデル「ジュリアス・シーザー(ジュリオ・チェーザレ)」

2014-12-30 09:22:02 | 音楽一般
ヘンデル:歌劇「ジュリアス・シーザー」(ジュリオ・チェーザレ)」
指揮:ハリー・ビケット、演出:デイヴィッド・マクヴィガー
デイヴィッド・ダニエルス(ジュリオ・チェーザレ)、ナタリー・デセイ(クレオパトラ)、クリストフ・デュモー(トロメオ)、アリス・グート(セスト)、パトリシア・バードン(コルネリア)、グイド・ロコンソロ(アキッラ)、ラシド・ベン・アブデスラーム(ニレーノ)
2013年4月27日 ニューヨーク・メトロポリタン・歌劇場 2014年10月 WOWOW
 

こういうオペラを昨年放送された2012年ザルツブルク音楽祭に続いて見ることができるようになったとは、感慨深い。
 

先にも書いたように、19世紀以降のオペラとはまったく違うし、古いところでグルックなどともちがう。オーケストラは悪く言えば一本調子のずんずん進んでいくだけのところが多いし、カストラート、コロラトゥーラの技をたっぷり見せるとはいえ、繰り返しが多すぎて、幕間で指揮のビケットもいっていたように「くどい」という感はある。それでも、幕間の休憩をはさんでライブで見ていたら少しはちがうのだろう。アメリカのミュージカルなんかはこれに通じるところがある。
 

さて、演出はザルツブルクほどではないが、古代と近代の衣装、武器が混在したもの、グラインドボーンで上演されたのが最初らしいから、舞台はそんなに広くなく、むしろ見やすい。
そして、ダンス、ダンスにつながる動きはよくできていて、ここが飽きさせずに見せるところになっている。
 

見る気にさせるのは何といってもナタリー・デセイ、とにかくメリハリのある歌にうごきと表情が見事に加わり、ファンとしても満足。小柄だが、筋トレの成果がすごい。
 

カストラートがそろっているが、シーザーのダニエルスは最初調子がどうかと思わせたが、その後はまずまず。トロメオのデュモーはザルツブルクでもこの役だったが、あっちではもっとしつこい悪役で演出でかなり性的に偏執的な演技もようきゅうされたが(もっともああいうのはニューヨークでは無理でしょう)、今回はかなり典型的ではあるがうまい悪役演技。カストラートとしては大変評価が高いようだ。よくわからないけれど、きれいであまり気にならないところがいいのかもしれない。
 

あと、コルネリアとセストの二人は他の配役に比べコミカルなところがまるでない役柄、演出としては難しいところだろう。ザルツブルクではちょっと老けてしまったオッター、という楽しみもあったが。
 

クレオパトラの衣装(8着とか)とその着替えは楽しめた。


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チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

2014-12-28 14:20:54 | 音楽一般
チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」(原作:プーシキン)
指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:デボラ・ワーナー
マウリシュ・クヴィエチェン(オネーギン)、アンナ・ネトレプコ(タチアーナ)、ピョートル・ベチャワ(レンスキー)、オクサナ・ヴォルコヴァ(オルガ)、アレクセイ・タノヴィツキィ(グレーミン)
2013年10月5日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 シーズン開幕公演
2014年11月 WOWOW
 

オネーギンは映像で何度か見ているが、これまではどうもしっくりこなかった。2年前にも同じメトの映像があり、指揮は同じゲルギエフ、ルネ・フレミングのタチアーナ、ホヴォロトフスキーのオネーギンで、悪くはないはずだがロバート・カーセンの演出のせいかどうかわからないが、この「ふさぎの虫」のどうしようもないストーリーにはあまり感じ入るところがなかった。
 

しかし今回はなぜか細かいところはきにならず、大きなところでよく味わうことができた。多くはネトレプコのタチアーナのせいだろう。イタリア・ベルカントで彼女を楽しんできたところに、このシリアスな役、ということで、注目して聴いたのがよかったのだろうか。どちらかというと抑え目で、それでも実力のほどは出ていたし、見栄えもするのだが、有名な手紙の場面は思い切り激しい表出で圧倒された。考えてみれば、あれは最終的にはオネーギンに対する手紙になるわけで、彼に伝わるのは文面、しかし見る者には彼女の内面を思い切り見せていいのだから、そう考えればこれは稀代の名演である。
その一方でフィナーレの立場が逆転するところは、激しい感情をしっかり押さえた演技が素晴らしい。
 

クヴィエチェンのオネーギンとベチャワのレンスキーは見た感じは逆のようにも見える。というかオネーギンが少しおとなしく、レンスキーは陽気すぎるか、と思う。
 

今回は「ふさぎの虫」の話というよりは、振る・振られるの関係が逆転するという私の好きな話に集中できた。始めとフィナーレにある二つのキスの場面、原作脚本にあるのかどうかわからないが、この動作と意味するところが逆という効果的な演出。
 

今回あらためて感心したのはゲルギエフの指揮で、チャイコフスキーの美しい旋律線、そして必要なところで高まる密度、マニエリスム、、、ロシアものばかりでなく、レヴァインのあとこの人にやってもらってもいいとまで思わせる。もともと劇場の人だし。


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ホドラー展

2014-12-17 13:39:38 | 美術
フェルディナント・ホドラー展
国立西洋美術館 10月7日(火)- 1月12日(月・祝)
 

フェルディナント・ホドラー(1853-1918)というスイス生まれの画家については、その名前もまったく知らなかった。40年ぶりの回顧展ということで、しばらく前のNHK日曜美術館で特集され、見ておこうと思った次第。
 

最初はいかにもスイスらしいというか、絵葉書になるような風景画で始まったようで、そのあと意識的に描くようになり、人物画も多くなり、生涯両方を描き続けたようだ。これは案外珍しいかもしれない。
 

風景、人物(特に複数の人物が登場するもの)の双方とも、絵の中にいくつかの要素の反復があり、またその反復の変化がリズムとなっている。オイリュトミー、平行主義(パラレリズム)なとどいう言葉が使われるものである。
これらは見る者の眼に動きを促がし、印象としても動きを感じさせる。その一方、全体をショットとして見たとき、風景の切りとり、人物のポーズに卓抜なものがあって、絵としての価値を高めている。
 

後期になると山ははっきりとした輪郭線を持ち、セザンヌに通じる感じもある。
なお年譜を見ると、若いころから複数の女性をいろいろあった人のようだが、それにしては描かれた女性は肉感的、性的なところが乏しい。反復、リズムなどに集中したのか、それとも何かほかの考えがあったのか。

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カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇

2014-12-11 16:20:18 | 映画
カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇(Camille Claudel、2013仏、95分)
監督:ブリュノ・デュモン
 

ジュリエット・ビノシュ(カミーユ・クローデル)、ジャン=リュック・ヴァンサン(ポール・クローデル)
カミーユ・クローデル(1864-1943)、ロダン、ポール・クローデル(劇作家、外交官)については、漠然と知っているだけだった。なにしろポールはカミーユの兄と勘違いしていたほどだから。
 

この映画にロダンは出てこない。長い間愛人関係にあったロダンと結婚できないとなってから精神に変調をきたし、カトリック系の治療院に入ってかなり経ってからの話である。
 

前半はそこの生活が淡々と描かれ、他の患者、神父、修道女たちとのやり取りは、時に少し激することもあるが、静かに進行することもあり、ビノシュの演技力もあって、こういうものかなと納得させる。
後半になって、弟のポールが訪ねてくるが、以前カトリックに回心するところの述懐、それに関する神父との会話から始まり、彼がここに多くを寄付し、冷静に姉をここに置いていることがわかる。カミーユはそれを非難し、出してほしいとは言うが、ポールは取り合わない。もっともカミーユの言い分も長くは続かず、結局悪いのはロダン、それも彼より才能がある彼女を憎み、後々まで彼女の邪魔をするという主張が繰り返される。

 
そしてポールは帰っていく。あとの説明によれば、何度も繰り返し訪れていたようだが。
最後は外の畑を望むところに座ったカミーユを捉えたカメラで終わる。斜め上からの日差しでその顔に少し平安を感じるが、それが救い。
 

カトリックに詳しければ、もう少し何かわかるのだろう。見て損をしたとは思わないが、なんともこの映画と作った意味、見る意味は、はっきり出てこない。音楽は一切ない(クレジット部分にはあるけれど、本編にはない)。
 

でも、このポール・クローデルという人、20世紀前半のフランス文学、演劇に、確かそれらを通じて音楽家にも、大きな影響を与えたはずで、その人の一面(あくまで)を見ることができた。それに彼は関東大震災の前後、駐日フランス大使で、日仏会館も彼が作ったというから、日本にはきわめて関係深い人である。

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アルゲリッチとバレンボイムのピアノ・デュオ

2014-12-03 17:13:41 | 音楽一般
マルタ・アルゲリッチとダニエル・バレンボイムのピアノ・デュオ・コンサート
モーツアルト:2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448
シューベルト:創作主題による8つの変奏曲 作品.813(連弾)
ストラヴィンスキー:春の祭典(2台のピアノ版)
2014年4月19日 フィルハーモニー(ベルリン) 2014年11月NHK BS Pre
 

オーケストラ曲のピアノ版、それもトップクラスのピアニストが弾くものはそれだけで面白いので、録音が出ることはあまりないけれど、出るの狙って聴いてきた。ここで聴きものはやはり春の祭典である。
 

ピアノが持つ打楽器としての性格がよく出るし、特に映像で見ると曲の作りがよくわかる。
それでも春の祭典をピアノで聴いたのは、これも指揮者マイケル・ティルソン・トーマスが片方を受け持った録音(今でもLPを持っている)以来かもしれない。あと「ペトルーシュカ」をポリーニが若いころ弾いて話題になったものも手元にある。
 

3曲ともバレンボイムが右、アルゲリッチが左で(2台のピアノは同じ型と思われるスタインウェイ)、もう指揮者の仕事が多いバレンボイムだから左かなと思ったが違った。アルゲリッチはもうかなり長い間ソロはほとんどやってないし、以前からデュオもよくやっていた。ラフマニノフとか。
 

アルゲリッチが1941年、バレンボイムが1942年、いずれもアルゼンチンの生まれということも、今回聴いていて感慨を催すものだろう。ストラヴィンスキーは二人ともまだまだ元気であった。
一方、モーツアルトとシューベルトは渋い良さといっても、何かもっと思い切ってぶつかりあってもよかったのではないか。モーツアルトなんか1楽章、3楽章の冒頭など、あのピアノ協奏曲で弾んでいたバレンボイムを期待したけれど。
風貌は年月を感じさせてしまうが、こういう企画には感謝。


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