メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

服部龍二 「高坂正堯」

2019-01-27 10:22:26 | 本と雑誌
高坂正堯-戦後日本と現実主義  服部龍二 著(2018年10月 中公新書)
政治学者高坂正堯(1934-1996)の評伝、しかも本格的な評伝で、戦後の政治家についてすら、田中角栄をのぞくと評伝がきわめて少ない我が国ではめずらしい。著者は1968年生まれで高坂の晩年に京都大学で政治学を学んだが、高坂には数回会っただけだったようだ。
 
高坂は若いころから、つまり1960年代から国際政治の評論で有名であり、私もその論調はだいたい知っていた。特に1960年安保の後も論壇では全面講和、非武装中立、日米安全保障の同盟反対を主張する人たち、学者としては丸山眞男(あまり時事評論はしなかったが)、坂本義和あたりだが、どちらかというと文化人、学者も含めて進歩派、進歩的文化人とよばれる人たちが、新聞、雑誌では優勢で、国会の多数派と対照をなしていた。岩波書店、朝日新聞がこっちであったから、私も学生だった当時、目をひくものは圧倒的にこっち多かった。
 
しかし、それでも政治のフレームワークとしては一応民主主義なのに、これらの論調が長期にわたって現実としての政治態勢に反映されないのに、不思議な感を持っていた。
 
そういところに高坂をはじめとする何人かの政治学者が出てきて、彼らは進歩的文化人とは対照的に現実主義者と、少し皮肉をこめて言われていた。
 
さて高坂が一般向けに書くものはわかりやすかったが、TVなどに出てくるとその京都弁、とっちゃん坊や的な風貌から、やわらかいがちょっと心服しがたいといった感じだった。むしろ西の高坂に対して、永井陽之助、衛藤瀋吉あたりが書くものがしっくりきた。
 
当初、新聞紙上では彼ら現実主義者は劣勢ではあったが、大学闘争、70年安保が収束し、ベトナム戦争に関する議論もそれまでとは違う角度になり、進歩派対現実主義者という構図ではなくなってきて、さらに現実主義者たちの間でも冷戦の終結、壁の崩壊、湾岸戦争と論点は様々になり、また日本国憲法特に第9条のあつかい、どういうステップを踏んでいくかについては多岐になっていった。これらは現在の国会多数派の内部の状況にもつながっている。
 
そういう数十年の動きを振り返るうえで、この本はかなり詳細であり、よく整理されているといえるだろう。高坂の早世がこういう本を書かせたといえば皮肉であるが。
 
1960年代、1970年代を思い返すと、新聞以外に月間論文誌(朝日ジャーナルなど週刊もこれに含めていいだろう)がいくつもあり、かなり読まれていた、。丁寧に目をとおしていなくても、新聞の毎月の論壇時評、新聞に出ている上記雑誌の広告を見ていると、世の中の論調はある程度つかめたものである。もうそういう時代ではなくなってしまった。
 
興味深いのは、朝日新聞の論壇時評、文芸時評あたりの評者が、新聞本体(社説)のように進歩派、反体制的ではなかったことで、いまでも不思議に思うのだが、読者の理解には役だったと言えるかもしれない。
 
いろんな面でこの戦後の昭和を振り返るのに、役立つ著作といえる。

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200m個人メドレー

2019-01-24 21:21:35 | スポーツ
はじめて200m個人メドレーをやった。これまで100m個人メドレーは通っているスイミングスクールのレッスンの中でも、またマスターズでもやったことがある。
 
スクールでは普段1つのコースで数人が右側通行だから、100ならともかく200だとすれ違いの回数も多く、また先頭が最後尾に追いついてしまったりする可能性もあることから、せいぜいクロールでやることがたまにあるくらいである。特にバタフライではすれ違いは片手になってしまい、トライとしても本来のものではない。
 
今回は個人メドレーが月間のテーマで、メドレー特有の要素、つまり4種目の連続、それに伴うターン、スタミナ配分などが練習に反映されていた。そして今週になって、希望者に1コース一人でトライすることになった。
 
最初の50mバタフライはマスターズでもやっていたから少し力を余してこなし、次の苦手のバックはのんびりやることをこころがけてなんとかたどり着き、得意の平泳ぎで息をつぐつもりだったのが、この段階での平泳ぎは思ったよりきつかったのにはびっくりした。選手たちのレースでもこの平泳ぎが分岐点になるのは得意・不得意ばかりでなく、スタミナ配分の微妙な綾があるからだろう。
最後のクロールは無心を心がけゴール。
 
タイムは言わずもがなだが、とにかく完泳したことはうれしかった。

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廃墟の美術史

2019-01-18 21:20:06 | 美術
終わりのむこうへ:廃墟の美術史
2018年12月8日(土)- 2019年1月31日(木)
渋谷区立松濤美術館
 
廃墟ときいて、何か滅びの美学のようなものかと思ったが、そうでもなくて、廃墟になる前のものの上に時間が、風雪が、争いが、その他いろいろな力、経過をへての結果であり、それらに対するイマジネーションであり、また未来に向かって廃墟への道が想像されることもあり、と様々な作品がならんでいる。
 
見る方は、作品が意識したもの、包含しているものを想像することが、そう困難ではないのも、気づかされた。
西欧の17世紀あたりのものは風景画といってもいいものが多いが、考えてみればそれも立派な人工物から風景の一部になったものであって、意識してみると不思議にいろんなことが想像される。ロベール、ピラネージ、コンスタブルなど、そしてルソー、キリコ、マグリットあたりになると、現在から廃墟への何かなんだろうか。
 
日本の画家でも、何人かの著名な画家にこのテーマがあり、それらは西欧のものから触発されたものばかりではなく、それぞれが何か廃墟への道についてのイマジネーションといったらいいだろうか。
 
しばらく前にその展覧会を見た不染鉄の「廃船」(1969)はもっとあとの東北大震災を想起させた。
またポール・デルヴォーの廃墟とヌードの組み合わせの数点は不思議な時間を感じさせた。
 
現代のもので印象的だったのは大岩オスカールの「動物園」、「トンネルの向こうの光」の二点、自然のあるいは人工的な災害による破壊、崩壊が、いずれも大画面に、ダイナミックな構成だが、静謐さもあわせていて、これは実物の前に立つ甲斐がある。
  
ところでこれらの作品はずべて国内にあるもので、今回のような視点でこれだけのものを集め、こういった世界を提示したことは、まさに見事なキュレーションである。

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チャイコフスキー 「スペードの女王」

2019-01-06 16:10:04 | 音楽
チャイコフスキー:歌劇「スペードの女王」
指揮:マリス・ヤンソンス、演出:ハンス・ノイエンフェルス、美術:クリスティアン・シュミット、衣装:ラインハルト・フォン・デア・タンネン
ブランドン・ジョヴァノヴィッチ(ゲルマン)、イゴール・ゴロヴァテンコ(エレツキー公爵)、エフゲニア・ムラヴィエヴァ(リーザ)、ハンナ・シュヴァルツ(伯爵夫人)、オクサナ・ヴォルコワ(ポリーナ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、ザルツブルク音楽祭および劇場児童合唱団
2018年8月2・10・13日 ザルツブルク祝祭大劇場
2018年11月NHK BS-Pre
 
タイトルだけしか知らない、見るのははじめてのオペラだが、まだまだ発見は残っているものである。作品、演奏、演出、ここしばらくの間見たものの中で一番といっていい。
 
エカテリナ女王の時代、服装からして軍人くずれ?のゲルマンが貴族の娘リーザに一目惚れになるが、リーザはエレツキー公爵との結婚が決まっている。ゲルマンの仲間たちの話ではリーザの祖母の伯爵夫人は、パリで美人でならしていた若いころ、カード賭博で必勝する方法「3枚のカード」を会得するが、年老いた今までに二人にその方法を求めて言い寄られた。次の三度目に言い寄られたら、それは彼女の死を意味するらしい。
 
リーザはさんざん言い寄られても逃げ回っていたが、ついにゲルマンを受け入れ、伯爵夫人にも近づけてしまう。さてその顛末は、特に最後の賭場でゲルマンが引いた1枚目、2枚目、やはり行ってしまう3枚目、開いてみれば、、、そうそれはタイトルの、、、
 
二人の男女のやりとりはドラマとしては単純なのだが、そこは出ずっぱりのゲルマンの歌そ中心に、リーザの歌も強さをましてきて、チャイコフスキーの音楽、特にオーケストラは疲れを知らない。
 
男と女、背景に見える貧困と軍隊、そういうどうにもならない運命、だからこそやはり思い通りにはならないのだがシンプルな「運」を信じるというかその結果に納得するというか、賭博というものがこういうところに本質的に入ってくるのか、と思えてくる。特にロシア文学では。この作品のもとになったのはプーシキンの小説。
 
ドラマも激しさをともなう音楽も20世紀のオペラと並べてもおかしくない。初演は1890年というから交響曲でいえば第5と第6(悲愴)の間になる。概していえば、激しいダイナミクスは第5を、憂鬱なメロディーは第6を思わせる。
 
歌手たちだが、まず主役の二人、ゲルマンはちょっと乱暴者の感じ、リーザは一見おとなしすぎる感じ、しかし歌唱が進んで来れば、説得される。伯爵夫人を除けばほとんどロシア系の歌手たちで、言語の問題もあるのだろうが、今の時代ロシア出身の歌手たちなしにメトロポリタンその他成り立たないから、これは自然か。
 
そしてハンナ・シュヴァルツ、この人75歳らしいが当たり役、この雰囲気ほかの人では出せないだろうなと思う。ずいぶん前からワーグナーなどの脇役で活躍していたとおもうけれど、これはまさに「芸」、こういう生き方もいいなと思う。
 
演出はこの前にアップした「ばらの騎士」とは正反対で、背景はほとんど暗い壁しかないか、あるいはこれは有効な仕掛けだったが同じ暗い色の太い柱が回転装置とともに回っていったりしていて、時代背景はほんの少数の貴族、軍人以外は無視され、特に衣装はその人、その場の何かを象徴するような、いわゆる現代のデザインである。
 
暗い背景の中心に最小限の家具、特に最後は賭博のテーブルだけというのは、見る方として集中できた。
 
そしてヤンソンス指揮のウィーン・フィル、響き、フレージング、長丁場でも疲れを知らない持続力、申し分ない。かねてからウィーン・フィルの人たちは本当にチャイコフスキーが好きだなあ、と思っていた。ドイツ音楽はうまくても当たり前だが、こっちは好きだから。この上演がザルツブルクでよかった。
ヤンソンスさん、はるか以前、何度も来日して日本のオーケストラを振ってくれた父君を思い出す。

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R・シュトラウス 「ばらの騎士」

2019-01-04 16:03:45 | 音楽
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
指揮:セバスチャン・ヴァイグレ、演出:ロバート・カーセン
ルネ・フレミング(マルシャリン)、エリーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)、ギュンター・クロイスベック(オックス)、エリン・モーリー(ゾフィー)、マーカス・ブリュック(ファニナル)、マシュー・ポレンザーニ(イタリア人歌手)
2017年5月13日、ニューヨーク・メトロポリタン  2018年7月 WOWOW放送
 
長い間それぞれの当たり役を演じてきたフレミングとガランチャが、二人同時にこれらの役についてはこれで引退というシリーズの公演である。

ヴァイグレははじめて知った東ドイツ出身の指揮者だが、今年読売日響の常任になるらしい。演出のカーセン、幕間に挿入されたインタビューで、これまでよりか1世紀ほど後、シュトラウスが生きた世紀末に時代設定し、ファニナルは武器商人あがりの新興貴族、オックスは財産がない貴族で心ならずもファニナルを縁戚になろうとしている。オクタヴィアンの服装も近代の士官服に近い。
 
また見る前の解説で、あらためてマルシャリンが32歳、オクタヴィアンが17歳の設定と知った。いまから見ればオクタヴィアンはずいぶんませているし、マルシャリンはまだまだこれからなのに、もう退いて、あとを次の世代、時代に譲るというわかけである。
 
それは表面的なこととして、本質的なところは、このオペラ、前の時代に半身かかったマルシャリンとオックス、これからのことだけ見据えているオクタヴィアンとゾフィー、このからみをどう進行させていくかである。若いカップルの意識の変化は前半でほぼ定着しそれはそのまま流れていくが、マルシャリンとオックスについては、前者は音楽で、後者についてはダイナミックな動きとそれに沿った音楽で、繰り返し説得性のある表現が効果的に続いていく。
 
以前から思っていて、必ずしも他の人たちは納得してくれないのだが、オックスはただの強欲、好色な初老の親爺ではなく、計略にひっかかってみんなにたたかれざまあみろ、という役ではない。この人のたくましさ、後姿の立派さがないと、マルシャリンが私もこの社会から退いていくのだから、あなたももうここへ入り込んでくるのはおやめなさい、とたしなめる意味がない。「フィガロの結婚」で最後、一番強かった伯爵が非を認め許しを請う「きめ」が思う浮かぶ。
 
そう考えるとこのクロイスベックのオックスは体躯と動き、表情、音域と力強さも見事だ。一方のマルシャリンだが、私の先入観かもしれないが、フレミングは悪い女の役をやることが少ないからか、妖艶さとそれが退化していくおもむきという感じがあまりしない。音だけ聴いているとそうでもないかもしれないが。
 
エリーナ・ガランチャのオクタヴィアン、実はこの人のズボン役を見るのははじめてで、びっくりしたが、登場してみればこれはまさに「宝塚の男役トップ」で、モーリーのゾフィーも強い娘の表現だから、こういう場ではうまくバランスがとれている。
考えてみればガランチャが好きになったのはカルメン、シンデレラなどからで、いずれも強い女であった。
 
カーセンの演出、前記の時代設定のほか、目立ったのはドラマが進行する場、舞台が広すぎ、演者もずいぶん動く。劇場とTV映像とでは見え方も違うのだろうが、このオペラには違和感がある。第三幕の舞台を娼館にしたのは可能性としてはありうるものかもしれない。よくあるのは暗いレストランで道具があまりないというものだったと思うけれど。
 
ただ最後の最後、舞台が暗くなってもう終わりかというところに、マルシャリンのお小姓とおぼしき黒人の男の子がハンカチかなにかを探しに来て、拾って去っていくところでタイミングよく最後の音が鳴る、というのが普通だが、今回はもう少し大きい少年が出てきて、飲み物を瓶からあおり、ひっくり返る、というもの。演出の流れでこうなったのか。本来、この世界から去っていくマルシャリンが、ちょっとした記憶、小さな忘れ物を取りに行かせた、ということなのだが。
 
全体に一つ一つの動き、ものが強すぎるかなという印象。あの少ない数の音型、特になんとなく弱弱しい上昇、スーっと降りてくるもの、の組み合わせはそれでも説得性がある(感じさせるというより)。これはシュトラウスの腕が秀逸というところか。
指揮のヴァイグレの評価は特に何かいいたいところもないが、オーケストラをダイナミックに鳴らし、隈取りをはっきりさせたのは、演出のトーンにあっていた。
 
久しぶりの「ばらの騎士」、映像もふくめればある程度の回数をみているけれど、最初に見たのは1974年のミュンヘン・オペラ来日公演、カルロス・クライバー指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団、オットー・シェンクの演出、至福の時間だった。


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