メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

アバウト・タイム~愛おしい時間について~

2020-07-22 15:39:09 | 映画
アバウト・タイム~愛おしい時間について~(About Time、2013英、124分)
監督・脚本:リチャード・カーチス
ドーナル・グリーソン(ティム)、ビル・ナイ(ティムの父)、レイチェル・マクアダムス(メアリー)、マーゴット・ロビー(シャーロット)、リディア・ウィルソン(ティムの妹キット・カット)
 
最も好きな映画の一つ「ラブ・アクチュアリー」(2003)のリチャード・カーチスが「パイレーツ・ロック」(2009)に続いて監督した長編、これで監督は最後にするとか。
 
「ラブ・アクチュアリー」に比べるとより若い世代の恋愛・人生コメディで、細かいところはより俗っぽく、下品なセリフ、シーンもあるが、スピード感を持ってうまく進んでいくところは彼らしい。
 
ある時ティムは父から秘密の技を教えられる。暗く狭いところに入って念じると過去にタイムトラベルし、その時点からやり直せるということ。
 
父は現役を早く引退し郊外に住んでいて、ティムは妹の知り合いで夏休みに来たシャーロットを好きになり告白したが失敗、そこから父に言われたことを試してみる。
 
ロンドンでの新米弁護士の仕事に戻って、あやしいクラブで知り合ったメアリーにほれ込むが、なかなかうまくいかないところで、あのタイムトラベルを何度も繰り返す。これ、あやっぱりだめ?それならこっちといそがしい。
 
そうこうしてなんとかなるところが前半。ここまではカーチスの味はそんなにないと感じたが、後半はやはりそういうこまかいドタバタの進行から、人生の味とでもいうべきものが出てくるかと思うと、だんだんそうなっていく。
 
特に父との関係で、細かいことのやり直し、その結果の受け取りなど、そういうことが人生でなんなのか、父からの話が見ているものには聴かせるところである。
 
前半は変な、いい加減な親父であったのが、それはそのままこちらに訴える中身を出してくるのは、さすがいつものビル・ナイ、独壇場である。このビル・ナイを見るためなら、タイムトラベルならぬもう一回見てもいいかなと思う。
 
ティムのグリーソンは主人公の軽い感じをうまく出している。彼が好きになるメアリーのレイチェル・マクアダムス、シャーロットのマーゴット・ロビーは本当にチャーミングで、この映画の後味の良さに結びついている。
 
ただ、「ラブ・アクチュアリー」同様、既存の音楽が散りばめられているようなのだが、前作ほどぴったり来ないのは、私の世代のせいなのかどうなのか、それがちょっと残念。


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嵐が丘とフランケンシュタイン

2020-07-16 11:21:18 | 本と雑誌
「嵐が丘」を前回アップしたとき、物語の構造などについて「批評理論入門」が「フランケンシュタイン」を分析対象にしたと書いた。そしてこの二つを比較しようとおもっていたが忘れてしまったので、以下に少し。
 
フランケンシュタインも作者が三人称で著述したものではなく、話者を設定したものとなっている。こちらの方が嵐が丘よりかなり前である。
 
一人の青年が冒険航海に出発してから帰路につくまで、姉に書いた何通かの手紙がもとになっていて、そこで出会ったフランケンシュタインの告白、さらにその中に出てくるフランケンシュタインが創った怪物の告白など、いくつかの明確な入れ子構造になっている。
 
これは、青年間借り人が二つの家の使用人をつとめた女性から聞いた話と対応しているように見えるが、こっちの方はその女性の話に登場する人物が語るところは、舞台の台詞程度のもので、そう長くはないから、単純といえば単純である。描写の良しあしもこのほぼ一人の語りの中であればそう気にならないし、時間が飛ぶところも話者の都合のようにとってしまう。
 
また男女間の感情のやりとりについては、性が感じられない嵐が丘に比べ、フランケンシュタインに違和感はない。作者メアリーは十代で詩人シェリーと駆け落ちしたくらいだから、不思議はないだろう。そして父親は自由主義思想家だったから、当時の社会的な思潮、その背景なども的確に出てくる。
 
さて、ここからが問題で、このように陳腐な言い方をすれば浮世ばなれした嵐が丘のどこが気になる、引っかかって頭に、心にのこるのか、ということである。
 
前回も書いたけれど、やはりキャサリンとヒースクリフのキャラクターと関係、特になぜキャサリンがあのようにされながら、最後までああだったのか、というところだろうか。その描き方は必然的にあのようになったのだろうとは思うけれど。
女性はちがう受け取り方をするかもしれないが。

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エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」

2020-07-14 14:22:38 | 本と雑誌
エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」 鴻巣友季子 訳 新潮文庫
 
20年ほど前に一回読んだ(田中西二郎訳 新潮文庫)。若いころはこのブロンテ姉妹やジェーン・オースティンなど19世紀初めに出たいくつもの作品が世界文学全集の常連であったものの、女性が主人公の小説に対する思い込みもあってか、別の方向、例えばドストエフスキーなどの方にいってしまい、放っておく状態になっていた。中年を過ぎてあまりこだわらず読む楽しみをと、男性作家バルザック、モームなど含め、広く読むようになった。
 
とはいえ「嵐が丘」はかなり予想とちがったものだったと記憶している。といってもそうしっかり記憶しているわけではないが。
 
ともかく、見たかどうかは覚えていないが、映画などからのちょっとした情報で、この話はヒースクリフという乱暴で激情家の男と、キャサリンとの間の、どろどろした恋愛劇と想像していたが、その部分の叙述はそう多くはなく、主たる登場人物たちがすぐ死んでしまったり、次の世代の子供たちの和解へのドラマに移っていくというものだった。
 
今回、あえて話題の新訳で読んでみた。訳者はNHK「100分で名著」の「風と共に去りぬ」で知った人で、多分思い切った現代語訳で、読みやすいだろうと想像したものである。
 
それでも、始まってしばらくは、おそらく原作のせいだろうが、何か描写がわかりにくく、しばらく我慢が必要だった。そのあとは、登場人物、物語の構成に即した、訳者の工夫も見ることができた。
 
実は「嵐が丘」を今読んでみようと思ったのは、しばらく前にアップした「批評理論入門」からである。ここで著者はこの理論を使った作品分析の対象として「フランケンシュタイン」(1818、メアリー・シェリー(1797-1831))を選んだが、もう一つの候補として「嵐が丘」も検討したらしい。この作品はエミリー・ブロンテ(1818-1848)が1847年に発表した。
 
さてそれを頭に入れて読んでみると、「嵐が丘」はこの丘のとなり「鶫の辻」の間借りをしている青年ロックウッドが、二つの地のアーンショウ家とリントン家の両方に長年仕えたネリー・ディーンという女性使用人からきいた話が主体となっている。物語でリアルタイムに出てくるのはほぼこの二人で、他の登場人物とかれらの何年にもわたる物語は、すべてその語りであって、作者ブロンテが三人称で叙述しているところはないといってよい。
 
つまり話者の入れ子構造を使ったものである。この時代、作者が三人称で書く物語がどのくらいあったのかは知らないが、案外話者を設定した方が、作者があまり現代の「文学者」意識なく書けるとも思える。
 
手抜きとはいわないが、楽に書いて行けるところもあるだろうし、場面転換、時間の飛びといったものが、読み続けていくとそう不自然には聞こえないという利点はある。
 
さて、ヒースクリフは先代アーンショウがどこかから連れてきた素性不明の男だが、そのほかは、両家の間での結婚が二組あり、第2世代の三人はいとこ同士で結婚(再婚も含め)ということだから、登場人物は極めて少ない。
 
最初は義理の兄妹だったヒースクリフとキャサリンが結果としては各々リントン家の兄妹と一緒になるが、いろいろあった後、愛情からなのか、憎しみからなのか、激しくぶつかり続ける場面が一つの中心。そして、娘キャサリンとヒースクリフの息子とのなんとももどかしいつきあい、その息子の死後のキャサリンとヘアトンとの結びつき、これらは男女の愛のドラマとしてずいぶん弱い。
 
これは訳者もあとがきで書いているが、親の世代にしても、次の世代にしても、男女の性愛を感じさせるもの、その描写がほとんどない。いつの間にか結婚していたり、子供が生まれたりしていて、想像しにくところは多い。
 
それでも、この激情、強情、忍耐は、時代、国が違うとはいえ、有無を言わせずそこに存在している。男だから理解しがたいのかどうなのか、それでも何かこういうものはあるんだろうと思わせる表現は確かだ。



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チャイコフスキー 「マゼッパ」

2020-07-07 14:39:13 | 音楽
チャイコフスキー:歌劇「マゼッパ」
指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:ユーリ・ラプテフ
ウラディスラフ・スリムスキー(マゼッパ)、マリア・バヤンキナ(マリア)、スタニスラフ・トゥロフィモフ(コチュペイ)、エカテリーナ・セメンチェフ(リュボフ)、セルゲイ・セミシュクール(アンドレイ)
2019年6月2日、9日 マリインスキー劇場(サンクト・ペテルブルク) 2020年6月 NHK BSP
 
チャイコフスキーはかなり多くのオペラを書いているようだが、知っていたのは「エフゲニー・オネーギン」、「スペードの女王」、「イオランタ」で、これらは映像で見ているが、「マゼッパ」は知らなかった。
 
「マゼッパ」というオーケストラ曲があったと記憶しているが、これはリストの交響詩だった。
マゼッパは18世紀ウクライナの英雄で、独立を期してスウェーデンと組み、ピョートルのロシアに挑むが果たせず敗れる。このオペラはそこに実際にあったかどうかはあやしいエピソードを配している。
 
マゼッパは同僚で友人コチュペイの娘マリアと相思相愛で、反対を押し切って結婚する。コチュペイはそれを恨み、マゼッパが陰謀を企んでいるとロシア皇帝ピョートルに讒言をするが認められず、逆にマゼッパにその処刑が託されてしまう。マリアは夫の愛が覚めてきたのを疑うが、マゼッパはロシアに挑む意図を明かす。その後マリアは父の処刑を知ると、母とともに狂乱していく。
 
マゼッパの反乱は結局失敗し、最後はコチュペイの旧宅に逃げてくるが、そこでかつてマリアに恋していたアンドレイと出会い、これを倒す。そして夢遊病者のようなマリアが出てきて、同行しようとするがあきらめて去る。後に残ったマリアの弱い狂乱の場で幕となる。
 
第一幕では民衆の歌と踊りが存分に繰り広げられ、これは当時の劇場娯楽の定番として要求されるものかもしれない。権力と男女の愛、この流れは第2幕から本格的になる。
 
とはいってもこの作品、どちらかというと叙事、史劇にメロドラマをちりばめたという感じがあり、人間的なドラマの側面は弱いように思う。それでもチャイコフスキーの作曲能力は高く、見ていて飽きるという感じではない。
 
ドラマとして見た甲斐があったのはやはり「エフゲニー・オネーギン」、「スペードの女王」特に後者だろうか。ちょっと変わっている「イオランタ」もよかった。
 
歌手はみな役柄にあって、不足はなく、マゼッパのスリムスキーも立派なだけでなくふさぎの虫の感じもあるところがいい。マリア・バヤンキナはロシアのオペラにしては線が細い美人かなと思ったが、終幕の場面はむしろ彼女の特質を活かした演技だった。
指揮はゲルギエフだから、チャイコフスキーの硬軟、さらに豪というか、こういうオーケストレーションをやらせると本当に安心して聴けるし、さらに細かいところがうまい。
 
今、このウクライナの英雄のオペラをここで上演するということ、いろいろ考えさせるものがある。



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